【テーマ】珈琲  Mr.Blond

  • 2019.05.31 Friday
  • 15:00

我が家の朝はちょっと早い。

早ければ4時、遅くとも5時には毎日活動開始。

春から夏だと寒くもないし明るくなっているのでスッキリ目覚めるけれど、晩秋から冬の季節は真っ暗のうちからゴソゴソと行動を開始する。

布団が恋しい時期にさえ、なぜそんなに早起きなの??

答えは簡単。

早朝にデッキでコーヒーブレイクをするのが日課だから。

冬場は、ダウンコートを着込んで外へ。

そこまでしたくなるのには理由がある。

決して早起きじゃなかった私も、今は毎朝のイベント。

朝からお湯を沸かしてドリップでコーヒーを淹れると部屋中に良い香りが広がる。

前日の夜がどんなに遅くても、コーヒーの香りを嗅ぐとシャキッと目覚めるから不思議。

嗅覚は人間の一番奥深いところに記憶されると聞いたことがあるけれど、確かに香りと連携された記憶って、年月を経ても色褪せない。

香りって本当に大切。

コーヒーの香りを嗅ぐと目覚めるってパブロフの犬みたいだけど。


コーヒーにもいろんな香りがある。

焙煎に拠るものも多いかな。

でも、我が家のコーヒーはちょっと違う。

フレーバーコーヒーなんだな〜。

ベルギーのチョコレートブランド、ゴディバからフレーバーコーヒーが販売されている。

そのチョコレートフレーバーのコーヒーを飲んで以来、フレーバーにハマってしまったの。

香りだけだから、飲めば甘みなどないストレート。

紅茶のアールグレイがオレンジの香りするのと似てるかな。

へーセルナッツにバニラ、キャラメルにクレームブリュレなんてのもある。

クリスマスシーズンになるとアップルパイなんて変わりダネのも売っていたなぁ。

そう、香りと言っても、フレーバーを纏ったコーヒーの香り。

コーヒー専門店とか異なるけれど、なんとも幸せな気持ちをもたらす香り。

毎朝、そんなコーヒーブレイクから始まる朝活。


【テーマ】ギアチェンジコーヒー Mr.X

  • 2019.05.31 Friday
  • 12:00

学部4年で研究室に配属されて以降、研究の合間にコーヒーを淹れることが私の日課であり続けている。博士後期課程進学時に移った先の研究所の近くには、コーヒーの生豆を焙煎して売る専門店があった。焙煎して芳しい香りが漂う店内には見たことのない器具と聞いたことのない名前のコーヒー豆が売られている。すぐに私はその店に通い詰めるようになった。

 

その当時(というかずっとそうなんですが)、私が行っていた研究活動は基本的には全て一人で行うものだった。忙しいが自分の時間をコントロールすることはできたので、毎日ハンドドリップでコーヒーを淹れることができ、そしてそれは素晴らしい気分転換となった。

 

博士後期課程に進んでから年数が経つと、私の精神状態は悪化していった。時間をかければ出るはずだったデータが出てこない。さらに、自分から見れば仰ぎ見るようなすごい研究者だって簡単には職を得られない現実を突き付けられた。世間的に"無駄な研究"とされる基礎科学で職を得ることがいかに難しいことなのかを肌で感じた。

 

何とかデータが出たので論文執筆に進む。自分のテーマと関連する百近い論文に目を通し、自分の論理に誤りがないか推敲を重ね続けた。朝から晩まで英語を読んだり書いたりするその合間にも、変わらずコーヒーは淹れ続けた。店に通い、本を読むことで知識は増え、経験を重ねることでちょっとした温度の違いや粉の量などに敏感になっていった。全神経を集中し、お湯を注ぐ。粉が膨らまないのはなぜか、苦味が強く出たのはなぜか、将棋で言うところの感想戦を一人で行なう。

 

まるでもう一つの修行をしていたようなものだが、当時の私にとっては"論文"とか"将来"のせいで鈍い音を立てながら回り続ける脳のギアを変えるような、そういう時間だったのだろうと今は思う。気分転換というよりも、頭が壊れないようにするための処置、だったように思う。

 

その後、何とか博士号を得ることができ、研究者として職に就くこともでき、そして今もコーヒーを淹れて飲んでいる。研究者としてはまだ安定しておらず、今後も職を転々としそうなのだが、もし仮に転職時の面接で「うちではコーヒーを淹れることは許しません」と言われようものなら、椅子を蹴って立ち去る以外の選択肢を、私には選べない(実際には人目のつかないところでこっそり淹れるだろうなあ)。

【テーマ】コーヒーをもう一杯 Mr.ホワイト

  • 2019.05.31 Friday
  • 10:00

 12月のマドリッドはひどく寒く、コートを着て手袋をはめても体の芯から冷え込んでいく。最高気温が10度ほどしかない。マドリッドは内陸にあるため、夏は暑く冬は寒いのだ。スペインは比較的暖かいようなイメージを勝手に持っていたのだが、それは少なくとも地中海沿岸部のことであって、さらに言えば地中海沿岸部のバルセロナだって十分に寒かったのだ。情熱の国スペインはしかしその情熱によって気温までは変えられないことを、20代半ばの私たちはわかっていなかった。


 旅行というのは外でじっとしている時間が多いもので、美術館に並び、電車やバスを待ち、どこに行くかを調べるために立ち止まる。しかし、寒い。歩くのも寒いが、立ち止まるともっと寒い。このままここでじっとしていては死んでしまう、と思った私たちはめったやたらにカフェに入った。カフェの暖房を求めてというよりも、ただコーヒーを飲むために。


 スペインのカフェでコーヒーを頼むと、日本のようなブラックのドリップコーヒーは出てこず、必ず「カフェ・コン・レチェ」が出てくる。cafe con lecheとはcoffee with milkの意味であり、エスプレッソとホットミルクを混ぜたものである。カフェラテに近い。私たちはこのカフェ・コン・レチェに大変に助けられた。カフェ・コン・レチェはたいてい熱すぎるほど熱く、これを飲むとホットミルクが体に沁み渡り、冷え切ってカチコチに凍った体が一気に溶けていく。砂漠にオアシス、マドリッドにカフェ・コン・レチェ。


 早朝、駅の構内で電車を待つ時間が寒すぎて、コートのファスナーを顎まで上げても役に立たず、床も壁もすべてが青白く冷え切っているように見える。これはあかん、コーヒーだ、コーヒーはどこだ、と駅構内のテラス席しかないカフェにフラフラと歩いていき、「カフェ・コン・レチェ、ポル・ファボーレ(プリーズ)」と唯一暗記したセリフを唱えると、バイトのお姉さんは無愛想に「あら、そう」とでも言うようにコーヒーを作り始める。


 コーヒーを飲んでウロウロして、寒くなったらまたコーヒーを飲んで。よく考えたら仕事でもおんなじことをしている。コーヒーを飲んで仕事して、疲れたらまたコーヒーを飲んで。観光と仕事はおんなじくらい消耗するのかもしれない。




【テーマ】ストロング  がりは

  • 2019.05.31 Friday
  • 07:13

俺には亡くなったおばさんが一人いる。

父の姉で、人生波乱万丈だった父に輪をかけて波乱万丈の人生だったそうだ。

俺にとっては豪快な笑い声が特徴的な優しいおばさんだった。

 

俺は親戚付き合いが苦手で、今にして思えばもっともっとしっかり親族を大切にするべきであったと思うのだけれど、親族のほとんどが住む大阪の大学に通っていながら全く連絡を取らなかった。

愚かである。

卒業間近になって、将棋部の掲示板に俺あてのメッセージが書き込まれた。

「よーこです。」

から始まる文章は完全にサクラ感があったのだが、俺について詳しすぎる記述があり、もしかしてあのよーこおばさんか!となって会うことになった。

 

俺には美しいいとことハンサムないとこしかいない。

父系も母系も揃いも揃って美人とハンサムしかおらず、俺の弟もハンサムなので真剣に俺だけ血がつながってないのではないかと心配したほどだ。

美しいいとこが生まれるには、美しいおばとハンサムなおじが必要だが、そこも条件を満たしている。

 

戎橋のたもとの鉄板焼屋にいくとおばさんといとこのお姉さんが待っていた。

実に二十年ぶりの再会だったのだが、そんなに間が空いていたのか、というくらいにぎやかで楽しい時間を過ごした。

いとこのお姉さんは家に帰り、おばさんと二人になった。

おばさんは「ええとこ連れてったげるわ。」と言い、歩き始めた。

 

夜の心斎橋。

子どもの頃、母に連れられて何度も来たところではあるけれど、記憶と変わっていないのはドールハウスだけで、他はがらっと変わっている。

法善寺横丁を抜けて日本橋の方へぐにぐにと歩いていて、「ここ」と言われた場所は大きな大きな喫茶店だった。

なんともゴージャスな喫茶店で、俺が今まで見た喫茶店で一番広くてきらびやかだった。

勧められるがままにパンケーキを注文することに決める。

おばさんはウェイターを呼び、

「ホットケーキをこの子に。コーヒーはホットでストロングなやつ。ほんでから私はレイコー。」

と矢継ぎ早に注文した。

ウェイターはどうするのかと思ったら

「ホットケーキをおひとつ、コーヒーはホットでストロングなものをお一つ、よーこさんはレイコーをお一つですね。かしこまりました。」

と請けた。

「ここのコーヒーはほんまにストロングやで。あんた三日間寝られへんで。」

とパチっと音がするほどの鮮やかなウィンクをされた。

 

事情があって人生の長い間、弟である俺の父と離れ離れだったおばさんが、大人になってから姉弟水入らずで楽しい時間を過ごした場所に連れてきたのだとおばさんは言い、あの子はそういう大事なことをあんたに全然教えへんやろ、と。

 

そういえば俺はコーヒーを頼むと言ってないし、ホットケーキを食べることに決めてはいたが、それをおばさんに伝えていなかった。

「私はね、そういう力があるねん。」

えええ。

「45でスナックやるの疲れて、店閉めようかなと思ってた時に、お客さんが背中痛いて苦しみだしてな。病院連れて行かな、救急車呼ばな言うて、みんなでわちゃわちゃして」

ほんで?

「いたいいたい、よーこさん、手当ててくれ言うから、その人寝かして私手当ててたのよ。そしたら」

そしたら?

「嘘みたいに治った、言うねん。念のため、いうて救急車乗っていかはったけどな。それからはもうお酒飲みにくる人より、手当ててほしい人の方が増えてな、今は大阪に週に三日しかおれへん。札幌、福岡、名古屋、東京、大阪て毎週。5大ドームツアーやで。ジャニーズみたいやろ。」

ドームでやってないでしょ。

「まあそやねんけどな。」

「ちょっと、僕しゃべってないのに返事するのやめてや!」

「ごめんごめん。」

そこに分厚いホットケーキと目が痛くなるほど白いカップに入ったコーヒーが来た。

カップもソーサーも縁は金色で、スプーンも金色。

器自体の、何か切れるほどの白と漆黒のコーヒー。

このコントラストのことを俺は珈琲と呼びたい。

 

おばさんはヤライのグラスに入ったレイコーをぐいっと飲んだ。

「職業、気功師です。」

おばさんは胸を張った。

「はは、そんな大層なもんやないねんけどね。」

なんかまぶしくて、珈琲をぐっと飲んだ。

ものすごく濃厚で、むせそうになった。

「がりは、あんたなぁ、男はストロングやなかったらあかんで。ストロングはスタイルだけやなくて全部やで。」

 

閉店間際になって、おばさんはいこか、と席を立った。

会計を済ませて、すっと俺にもたせてくれた袋にはコーヒーゼリーがたっぷり入っていた。

 

珈琲に出会うことはほとんどない。

薄いコーヒーをしかたなく摂取している時に、時々おばさんの声が聞こえてくる気がする。

【テーマ】インスタント・キス Mr.マルーン

  • 2019.05.31 Friday
  • 00:00

つやつやと輝く長い黒髪が綺麗だった。肌は日焼けなんて言葉も知らなさそうなぐらい白くて、まつげが長くて、黒目勝ちの瞳はいつもうるんでいて、頬は薔薇色。色付きリップは禁止されているはずなのにその唇はほんのりと紅かった。
手は白魚のように繊細で爪はうっすらピンク色。何の改造もされていない制服のプリーツスカートから伸びる脚はすんなりと細く、小さな膝小僧がかわいらしい。紺色のハイソックスが清楚だ。
おまけに成績優秀で性格はクールだけど、人当たりが悪いわけじゃない。このあたりじゃちょっと名の知れた資産家の一人娘。特技はヴァイオリン。
要するに非の打ち所がない美少女だった。当然ながらめちゃくちゃモテる。スクールカースト特A級。
更に要するに、陰キャの私とはまあ、関係も接点も持ちようがない人物だった。

 

それがどうしてこんなことになってしまったんだろう。
両親と住む何でもない賃貸の3LDKリビングのソファに座って、彼女が物珍し気にきょろきょろしている。
私はキッチンで右往左往している。
「あの、何飲む?」
彼女がこちらを向く。バチリ、と目が合う。大きな目がぱち、と一つ瞬きした。うわ、かわいい。
「お構いなく」
「まあ、そういわずに」
「じゃあ、コーヒーがいい」
「コーヒー」
「ええ」
それだけ言い残すとふい、と目をそらして、今度は母が育てている藻がガラスに張り付きまくった縁日の金魚の水槽を眺め始めた。妙に真剣な目線で緊張してしまう。

 

たまたま下駄箱でばったり会って、たまたま雨が降ってきて、たまたま彼女には傘がなかった。
いつもなら上品なワインレッドの傘をさしているはずなのに。
ちょっとだけ困った顔をしているように見えた。急な雨で気温が下がって彼女のほっそりした白い二の腕に鳥肌が立っているのも気になった。
ちょっとした気の迷いだったのだ。
「あの、うち、家近いんだけど。傘貸すし。来る?」

 

まさかほんとに来るとは思わなかった。
冷静に考えたら傘なんて職員室で借りてもいいしやりようはいくらでもあったんじゃないかと思う。
学年一の美少女と相合傘という状況になって初めて、何で声なんかかけたんだ、と頭を抱えそうになった。たまたま持っていた安っぽいビニール傘が大きめだったからよかったものの、雨脚はかなり強くて、彼女の高そうな革のスクールバッグが濡れてしまわないか気が気じゃなかった。
「濡れてない?」
「ありがとう」
一応きれいなハンドタオルを手渡す。柔軟剤使ってるから大丈夫なはず。いや、何で同級生にここまで緊張してるんだ。
窓の外はまだ激しい雨が降っている。
さてコーヒー。コーヒーなんて飲んだことないからわからないぞ。でも聞いたからには出さなければという妙な義務感にかられている。
とりあえずケトルに水を入れてスイッチ。
戸棚をあちこちあけて探し回ってみると、何かの機会に親がもらってきたらしいインスタントコーヒーの粉を見つけた。
パッケージに書いてある分量をマグカップに投入して、自分のカップには紅茶のティーバッグを放り込む。

沸いたお湯を適当に注ぎ入れると、苦甘いような香りが漂った。ほんとにこんなのがおいしいんだろうか。スプーンでかき混ぜる。
「ミルクとか砂糖とか、いる?」
「何も」
「へえ」
彼女はまだ金魚を見ている。あんな美少女にまじまじ見つめられたら金魚だって緊張するんじゃないかな、と思う。
「金魚、好きなの?」
「別に、普通」
「そう」
会話が続かない。私は対面キッチンの戸棚をあさって何かお茶うけにできそうなお菓子がないか探す。そばぼうろ……まあ、これでいいか。
「この子、名前とかあるの?」
「名前?あー…母さんはエリザベスとか、呼んでた」
「ふっ」
初めて笑った。私はびっくりして彼女の顔をじっと見てしまう。
「そう、あなたはエリザベス…ふふふ」
ささやくように金魚に話しかけるものだからなんだかいたたまれない。
私はお盆に二つのマグとそばぼうろの袋を載せて、リビングに移った。
お盆をテーブルに置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
コーヒーとそばぼうろなんて妙な組み合わせだと思うけれど特にそこは気にしていないみたいだ。
私は角砂糖をひとつ紅茶に落としながら、彼女の一挙手一投足を気にしている。
彼女は両手にマグを包むように持つ。薄い唇がふう、と一息マグから立ち上る蒸気を吹いて、それから口をつけた。黒い液体が吸い込まれ、こくり、とその細い喉が動く。
1秒後、彼女はマグから口を放して顔をしかめた。
「泥水ね」
「えっ嘘ごめんインスタントダメだった?」
「それ、食べていいの?」
「あっ、うん」
私はそばぼうろの袋をばり、と破いて差し出した。彼女はその花の形の菓子を細い指でつまんで興味深そうに裏表眺め、おもむろにかじった。さく、さく、といい音がする。
「おいしい」
「そりゃ、よかった。スーパーで100円だけど」
「ふうん」
彼女はもう一度マグカップを手に取って、しげしげと眺めたあともう一度口をつけた。形のいい眉の間にしわがよる。美人は眉間にしわが寄っても美人なんだな、と感心する。
「やっぱり泥水だわ」
「ご、ごめん」
もてなされといてどういう口じゃ、と普段の私ならば思うけれど、彼女の口ぶりがあまりに不愉快そうなので2度も謝ってしまった。
「口直しがほしい」
「え、っと紅茶にする?って言ってもこれもティーバッグだけど…あとは牛乳ぐらいしか」
「いらない」
ずい、と迫られて、彼女の顔が目の前にあった。真顔だ。めちゃくちゃに顔がいい。長い髪の毛から花のような、シャンプーのにおいがする。くらり、と酔いそうだ。
「あの」
「これでいいわ」
「え」
しっかり頭をホールドされて反射的に目を閉じた瞬間、びっくりするほど柔らかいものが私の唇に触れた。さっき入れたコーヒーの香りがした、と思ったらちゅ、と小さな音がしてあっという間に離れていった。


「あの」
「雨、やんだわね」
「あ、え、うん」
「帰るわ。ありがとう」
彼女はそう言ってスクールバッグを肩にかけ、何事もなかったように玄関に向かう。
私はよろよろと立ち上がって彼女のあとを追う。
ガチャ、と玄関のドアを開けると雨上がりのひやりとした風が入ってきた。差し込む西日をバックに彼女が振り返る。

今日一番の笑顔がそこにありそうな気がしてよく見たかったけれど、逆光ではっきり見えない。

「ねえ、今度、二人でおいしいコーヒーを飲みに行きましょうか」

言い残すとあっという間に階段を降りていってしまった。

 

「なんだったんだ…」

招いたのは自分だが、なんというか通り雨というか、ゲリラ豪雨みたいな女だった。教室でもあんな感じだったっけ、と思う。

なんだかすごく疲れた気分でリビングに戻ると、ほとんど減っていないマグカップがテーブルに二つ。もう冷めてしまっている。

なんとなく、そのうちの黒い液体が入っている方を手に取って、一口飲んでみた。

さっき一瞬嗅いだ気がする香りが鼻腔を通り抜けていく。

「…にが…………」

頬が熱いのは、きっと気のせいだ。

【テーマ】Yo! An! Mr.Indigo

  • 2019.05.30 Thursday
  • 21:51
「Yo, An! Yo, An! Yo, An! Yo, An!」
数千の群衆がコールする中、ステージに中年の男が現れた。
「我々が暮らす世界は、無数の物質から構成されている!」
マイクを片手に男が叫ぶ。
「Yeah!」
群衆が応える。
「では物質の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
男は続ける。
「あらゆる物質は、元素の組み合わせによって構成されている!」
「Yeah!」
「では元素の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「地球の大気は、主に窒素と酸素から構成されている!」
「Yeah!」
「では窒素や酸素の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「そして、我々生命体は、無数の細胞から構成されている!」
「Yeah!」
「では細胞の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「すなわち、万物を創造したのは誰だ!?」
「Yo, An!」
「ありがとう!」
男が右手を挙げる。
「Yo, An! Yo, An! Yo, An! Yo, An!」
「しかしながら」
コールを遮ったのはステージに立つ主役だった。
「万物の創造主たる私は、卓越した才能を妬む者たちから圧力をかけられている!」
「Yeah!」
「では圧力の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「ゆえに、私の脳は沸騰している!」
「Yeah!」
「では沸騰の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「しかし、私の長年の労苦の結晶を無にするわけにはいかない!」
「Yeah!」
「では結晶の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「そこで私は新たなる装置を用意した!」
「Yeah!」
「では装置の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「この装置では、混合物の濾過が可能である!」
「Yeah!」
「では濾過の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「また、液体の煮沸も可能である!」
「Yeah!」
「では煮沸の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「この装置を使用して作るのは、珈琲である!」
「Yeah!」
「では珈琲の生みの親は誰だ!?」
「Yo, An!」
「…」
静まり返る場内。群衆の視線はステージの中年男に注がれる。
「ぶぶーっ」
男は少年のような笑顔を見せた。
「俺はコーヒーの当て字を考えただけだからね〜」
 
※宇田川榕菴(1798〜1846)…江戸時代末期の医師、洋学者、科学者。オランダ語の書物を翻訳し、それに自らの研究を加えて日本初の化学書『舎密開宗』を著した。著作において多くの造語を生み出したことで知られており、現在日本で用いられている自然科学関連の名詞の多くは、この人が生みの親である。また、珈琲という当て字を考案した人物ともいわれている。


鉄の海(125) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.30 Thursday
  • 00:00

「先日は病室で付き添っていただき、今後のことをどうするか考えてみようとお伝えしていました。ちょうどその頃から、安定していたレントゲンの陰影が悪化してきていました」

 

 実際の画像を出して見てもらう。

 

「左は一番良かった頃の画像です。右がその少し悪化した画像です。分かりにくいのですが、この辺り、専門的に見ればわずかに影が広がっています」

 

 眉をしかめてモニタを睨んでいる。

 

「そして、これが今日の画像です」

 

 あっ、と娘さんが声を上げる。

 

「そうです。肺の両側に影が出てきているのが分かります。画像の広がり方や経過を考えれば、間質性肺炎が再び悪化していると考えます」

「でも、前回もステロイドの治療でよくなりましたよね?」

「そうです。ただ、前回は何も治療していない状態で起こったことですが、今は減らしたとはいえかなり多い量のステロイドを入れて、その上で悪化してきている状況です。ステロイドの大量に加えて免疫抑制剤も追加します。そうでなければ抑えられないか、それでも抑えられないかもしれない、という局面です」

 

 まだ落ち着いて聞いていることを、表情をうかがいながら確認する。

 

「また、人工呼吸器を使う必要が出てくるかもしれません」

 

 いつも黙って聞いているだけの奥さんにも視線を合わせる。

 

「今回も人工呼吸器で助かる保障はないですが、またやってみましょうか……?」

 

 特に二人から返事はなかったが、それが消極的な肯定という感じだった。

 

 その後、娘さんが帰り、奥さんがもうしばらく残って付き添っていた。田中さんが奥さんのために長生きしたいと言っていたが、現状でそれを進めることが本当に奥さんのためなのか確認しよう、というのがカンファレンスの結論であった。すれ違いで僕自身は会えていなかったが、受け持ち看護師の水木さんが聞きだしていた。改めてそれを直接聞いてみたかった。

 

「先日、看護師の水木が同じようなことをうかがったかもしれませんが、もう一度改めてお話をお伺いしたいんです。娘さんはお父さんに胃瘻を作って、できる限りの長生きをしてもらいたいとお考えです。もちろん、私たちもそうしたい気持ちです。しかし、そうやって長生きしていくことは色々と苦労もありますし、田中さん自身が望んでおられた形なのか自信を持てない面もあります。奥様の意見はいかがですか?いつも娘さんの意見についてお話するばかりですみません」

 

 はあ、はあ、と相槌があって、少し間が空く。

 

「いえ、胃瘻もねえお父さんも、何とかなりませんかねえ。助かりますでしょうか」

 

 水木さんからの報告は、奥さんの返事はよく分からなかった、だった。

【テーマ】珈琲  Mr.Black

  • 2019.05.29 Wednesday
  • 22:40

今年で72歳になる父は物静かな人だ。

 

父は仕事一筋で、私が子どもの頃はほとんど家にいることが無かった。

夏休みの家族旅行も一緒に行った記憶があまり無い。夜は合流出来るかもしれないからと言って旅館で頼んだ父の分の晩御飯が、朝までそのままになっていた光景を覚えている。

父と顔を合わせるのはほとんどが朝食の席で、そのときもお茶を片手に静かに新聞を読んでいるのが常だった。ときどき、自分の分と一緒に私や弟にもお茶をいれてくれることがあって、そんなときは特別な感じがしてとても嬉しかった。

 

私が大人になって家を離れると、それはいつしか珈琲になった。

お盆やお正月に家族で集まって食事をした後、父がみんなの分の珈琲をいれてくれる。

趣味もほとんど持たない父が、ネットで探して取り寄せた珈琲豆はバルブ付きの金色の袋に入っている。そこから取り出した豆を手動のミルでギュッギュッと挽くと、ふわりと香りが立ちあがる。

珈琲メーカーに挽いた豆と水をセットし、ドリップされるのを待つ間、家族の誰かが父に「今日はどこの(産地の)豆なの」とたずね、父が袋の表示を確かめながら答える。

ドリップされた珈琲をつぎ分けてもらって飲みながら、誰かが「美味しいね」と言い、父が「そうか」と微笑む。

珈琲から立ちのぼる湯気ごしのお決まりのやりとりだ。

 

その日は朝から家中がばたばたしていた。

父と私は部屋の掃除、母は台所で料理にかかりきり。

地方に赴任している弟から連絡があり、結婚を前提にお付き合いしている人を連れて行くから、というのだから大騒ぎだ。

何とか取り繕った家に、よそゆきの顔をした弟が真新しいワンピースを着た彼女を連れてやってきた。

人なつこい顔で笑った彼女を私は一目で好きになった。

 

食卓を囲み、みんなが自分ではない誰かをおもんばかりながらの会話が続く。

食後に父が珈琲豆を取り出してきて、あぁここにも話の種があったと

「父が今日のために新しい珈琲豆を買ったんです。」と話す。彼女が笑う。

 

父がいつものように丁寧に豆を挽く。

珈琲メーカーをセットすると、ゴボボッという合図があって、次の瞬間、

父が小さくあっと声を上げた。

 

ドリッパーから流れ出したのは、透明の珈琲だった。

 

いつもと同じように振舞っていた父の、いつもと同じではない父の気持ちがそこにはあった。

みんなが見つめる中、透明のそれは流れ続けた。

ミルの受け皿に残されたままの珈琲豆がふんわりと香った。

タイトルはどうしましょうか byミッチー

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 22:08

音楽や絵画は、専門的知識を持った人が作品の趣旨を解釈し評論してくれるおかげで、やっと意味が分かったり、気づかなかったところに気づいたりできるのだと思っています。

だから評論を読むのは好きです。

しかし、インタビューは嫌いです。


具体的には、歌詞の意味にかんするインタビューが嫌いです。レコーディング時やライブの裏話などはそうでもないのですが、その際に何を考えていたか、などは近いものがあります。

どうも、気づかないうちに、僕はその手のやり取りを目にすると不愉快に感じる体になってしまったようなのです。


昔々、鬼束ちひろという歌手がブレイクした頃に出たラジオ番組を、たまたま耳にしたことがあります。

女性DJが「鬼束さんは歌詞についての質問には答えないので」と断ったあとで、自分はこういうことなんじゃないかと思った、と本人に対して感想を述べていました。

当時は「それいる?」くらいにしか思わなかったのですが、しかし15年以上経った今でも思い出すところを見ると、僕にとって印象的なやり取りだったのでしょう。悪い意味で。


僕が知る限り、今も昔も音楽雑誌のインタビューではしばしばその手の質問がなされています。

答えるか答えないかはアーティスト次第だと思いますが、もし本人が嬉々としてそれに答えている記事を目にしようものなら、僕は奇声を挙げて雑誌を床に投げつけてしまうかもしれない。だから、僕はもう音楽雑誌を読めません。

いや、正確には、評論の記事だけを読みたいのですが、インタビューが目に入ってしまうのが嫌なので、手に取る気がしないのです。

人生の何割か損している、というベタなフレーズがありますが、ここまでくると、本当に損しているかもしれません。


では、一体何がそんなに嫌なのか。

これがなかなか説明しにくいのです。


音楽以外のジャンル、たとえば映画などがどうなのかは、そもそも詳しくないのでよくわかりません。ただ、言語芸術の場合、その手のインタビューは少ないような印象があります。

小説が掲載されている雑誌に、本人の内容解説が付いていたらどうでしょう。違和感を覚える方が多いのではないでしょうか。

ところが、言語を用いる芸術でも、歌詞については例外的に質問されるのです。だから特に気になるわけです。


とは言え、言語芸術の場合でもそういうやり取りが起こりやすい場があります。文学賞がそれです。

数年ほど前、蓮見重彦という評論家が珍しく小説を書いて賞を取った際に、会見で内容についての質問を馬鹿にするような態度に終始して、話題になったことがありました。

その気持ちは分かる、というのが僕の第一印象でした。

ところが彼は、売り言葉に買い言葉の険悪なやり取りの中で「何かを描こうとしたのではなく、ただひらめいたことを組み合わせて書いたのだ」といった趣旨の発言をしてしまったのです。


あーあ、口が滑ったな、と僕は思いました。

実際にそういう風に書かれた作品なのか、それとも本当は、綿密に練ったプロットや作品に込めたメッセージがあったのに、隠しているのか。それは問題ではありません。

本人の口からその次元の話が出てしまったのが問題なのです。


その記事を読んでしまったときに、僕がくだんの小説を読むことは決してないだろうと確信しました。

それは決して、彼の不遜な態度への反発からではなく、むしろそこには作品という存在自体へのリスペクト、あるいは武士の情けに近い動機があります。


「ちょっと何言ってるか分からない」という感じでしょうか。

そうかもしれません。僕自身にもよく整理できていないのです。


ただ一つ言えることは、こうした考え方にもどこか暴力的なところがあり、おそらくそれは、このたび最優秀作品に選んでいただき皆様に感謝している「僕とゲバルト」で吐露した考え方と、根っこのところで繋がっている、ということです。


ダービー2019 〜浜中俊のためのダービー〜  Mr.Indigo

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 12:19
令和最初の日本ダービーは大波乱だった。
ダービー馬となったロジャーバローズは単勝93.1倍の12番人気という穴馬だった。単勝配当は日本ダービー史上2番目で、平成30年間のダービー全てを上回る。そんな大波乱の主役となったのが、ダービージョッキーとなった浜中俊だ。
 
今年のダービーは3強対決と言われていた。単勝オッズは無敗で皐月賞を制したサートゥルナーリアが1.6倍、皐月賞2着のヴェロックスが4.3倍、皐月賞3着のダノンキングリーが4.7倍。4番人気のアドマイヤジャスタ(皐月賞8着)は25.9倍だから、大方の競馬ファンも皐月賞上位馬による3強の争いと見ていたわけだ。
実際、この3頭はダービーでも上位に入った。しかしゴールした順番は皐月賞とは逆だった。
ダノンキングリーは好位につけて早めに前を捕まえにいった結果、上位人気3頭の中では最先着を果たした。断然人気の馬が後ろにいると仕掛けを我慢したくなりそうなものだが、鞍上の戸崎圭太の判断が光った。
一方、サートゥルナーリアは出遅れが響いた。皐月賞を制したといっても2着3着とは僅差で、このくらいは少しのロスで埋まる。また、スタートのタイミングが合わなかったのは、鞍上のダミアン・レーンと初コンビであることが影響したかもしれない。
ともあれダノンキングリーと戸崎はライバルたちの追撃を凌いだ。ところが、彼らの前にはもう1頭馬がいた。浜中を背にしたロジャーバローズだ。
 
ロジャーバローズは絶好のスタートを決めたものの、リオンリオンが外から逃げを主張するとあっさりと譲って2番手につけた。前のリオンリオンとも後続の馬群とも距離をとり、淀みないペースで進んでいく。
逃げるリオンリオンの鞍上は弱冠20歳の横山武史。このコンビは軽快に飛ばし、1000m通過が57秒6というハイペースになった。リオンリオンはハナに立つまでに脚を使ったから、ロジャーバローズと同じくらいの位置取りだと分が悪い。若手らしく思い切った作戦に出たのは当然だろう。
とはいえ、このペースだと逃げ馬の脚色が鈍るのは致し方ない。4角手前で後続との差は詰まってきた。そんな状況でまずリオンリオンを捕まえにいったのが、ロジャーバローズと浜中だった。
ロジャーバローズが先頭に立つ。しかし東京競馬場の直線は長く、まだ勝利までの道のりは険しい。すぐ後ろからダノンキングリーが迫り、ヴェロックスとサートゥルナーリアも脚を伸ばしてくる。12番人気の馬に襲いかかる上位人気3頭。ほとんどのファンは思ったはずだ。結局は順当な決着になると。
ところが差はなかなか縮まらない。やがてヴェロックスとサートゥルナーリアが追いつけないことが明白になる。それからも叩き合いが続いたものの、ダノンキングリーがロジャーバローズの前に出ることはなかった。
 
ロジャーバローズは世代のトップクラスを走ってきた馬ではない。前走の京都新聞杯で2着に入り、ようやくダービー出走にこぎつけた馬である。だから12番人気だった。その馬に最高のパフォーマンスをさせたのは、コンビを組む浜中の腕に他ならない。
一方、サートゥルナーリアは圧倒的な人気を集めながら4着に敗れたわけだが、鞍上のレーンは責められない。どんなに腕が良くても、この大舞台で初コンビの馬の力を出しきるのは容易ではない。皐月賞で手綱を取ったクリストフ・ルメールが騎乗停止になったためにレーンが乗ることになったわけだが、この人選がどうだったか。
近年のJRAのレースは外国人騎手が席巻している。それは事実だが、ルメールとミルコ・デムーロはJRA所属の騎手である。いってみれば白鵬や鶴竜のようなもので、長年にわたって日本で実績を積み重ねてきた。一方、レーンは短期免許を取得し初めて来日した25歳である。日本の競馬文化に対する理解度は、ルメールらには遠く及ばない。
ダービーは全てのホースマンの憧れであり、ダービージョッキーは全ての騎手の夢である。日本ダービーを勝ちたいという気持ちは、レーンよりも浜中や戸崎の方が強かったはずだ。
実は、初コンビの馬と騎手がダービーを制した例は半世紀以上にわたって出ていない。これは騎手の思いが大きいように思う。長い付き合いであればダービーへの熱い思いが馬に伝わるが、一朝一夕には伝わらないということではないか。
「びっくりしています」
これがダービージョッキー浜中の第一声だった。これは本音だろう。しかし、理想的な展開、絶好の手応えで直線に入ると、なんとしても勝ちたいと思うはずだ。浜中はゴールした場面を「必死だった」と語っているが、当然それはダービーだからである。その思いがロジャーバローズに伝わり、人馬一体となって素晴らしい粘りを見せたのではないか。
もう1つ、浜中のコメントには興味深い部分がある。
「ある程度ペースが速くなった方がいいと思っていました」
ロジャーバローズは先行馬である。先行するなら基本的にペースは遅い方が有利だ。しかし浜中の考えは違った。
そう考えるに至った背景には、おそらく京都新聞杯の経験がある。ロジャーバローズは平均ペースで逃げて勝利目前まで行ったが、伏兵レッドジェニアルに差されて2着に終わった。この結果から、スローペースの瞬発力勝負より平均以上のペースで持久力を生かす方が良いと判断したに違いない。実際にレースで騎乗した経験というのは、やはり大切なのだ。
こうした背景も含めて、今回の浜中は見事だった。完璧な騎乗だったと言って差し支えないだろう。
平成最後のダービーは福永祐一のためのダービーだった。それと同様に、令和最初のダービーは浜中俊のためのダービーだったと語り継いでいきたい。

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