俺には亡くなったおばさんが一人いる。
父の姉で、人生波乱万丈だった父に輪をかけて波乱万丈の人生だったそうだ。
俺にとっては豪快な笑い声が特徴的な優しいおばさんだった。
俺は親戚付き合いが苦手で、今にして思えばもっともっとしっかり親族を大切にするべきであったと思うのだけれど、親族のほとんどが住む大阪の大学に通っていながら全く連絡を取らなかった。
愚かである。
卒業間近になって、将棋部の掲示板に俺あてのメッセージが書き込まれた。
「よーこです。」
から始まる文章は完全にサクラ感があったのだが、俺について詳しすぎる記述があり、もしかしてあのよーこおばさんか!となって会うことになった。
俺には美しいいとことハンサムないとこしかいない。
父系も母系も揃いも揃って美人とハンサムしかおらず、俺の弟もハンサムなので真剣に俺だけ血がつながってないのではないかと心配したほどだ。
美しいいとこが生まれるには、美しいおばとハンサムなおじが必要だが、そこも条件を満たしている。
戎橋のたもとの鉄板焼屋にいくとおばさんといとこのお姉さんが待っていた。
実に二十年ぶりの再会だったのだが、そんなに間が空いていたのか、というくらいにぎやかで楽しい時間を過ごした。
いとこのお姉さんは家に帰り、おばさんと二人になった。
おばさんは「ええとこ連れてったげるわ。」と言い、歩き始めた。
夜の心斎橋。
子どもの頃、母に連れられて何度も来たところではあるけれど、記憶と変わっていないのはドールハウスだけで、他はがらっと変わっている。
法善寺横丁を抜けて日本橋の方へぐにぐにと歩いていて、「ここ」と言われた場所は大きな大きな喫茶店だった。
なんともゴージャスな喫茶店で、俺が今まで見た喫茶店で一番広くてきらびやかだった。
勧められるがままにパンケーキを注文することに決める。
おばさんはウェイターを呼び、
「ホットケーキをこの子に。コーヒーはホットでストロングなやつ。ほんでから私はレイコー。」
と矢継ぎ早に注文した。
ウェイターはどうするのかと思ったら
「ホットケーキをおひとつ、コーヒーはホットでストロングなものをお一つ、よーこさんはレイコーをお一つですね。かしこまりました。」
と請けた。
「ここのコーヒーはほんまにストロングやで。あんた三日間寝られへんで。」
とパチっと音がするほどの鮮やかなウィンクをされた。
事情があって人生の長い間、弟である俺の父と離れ離れだったおばさんが、大人になってから姉弟水入らずで楽しい時間を過ごした場所に連れてきたのだとおばさんは言い、あの子はそういう大事なことをあんたに全然教えへんやろ、と。
そういえば俺はコーヒーを頼むと言ってないし、ホットケーキを食べることに決めてはいたが、それをおばさんに伝えていなかった。
「私はね、そういう力があるねん。」
えええ。
「45でスナックやるの疲れて、店閉めようかなと思ってた時に、お客さんが背中痛いて苦しみだしてな。病院連れて行かな、救急車呼ばな言うて、みんなでわちゃわちゃして」
ほんで?
「いたいいたい、よーこさん、手当ててくれ言うから、その人寝かして私手当ててたのよ。そしたら」
そしたら?
「嘘みたいに治った、言うねん。念のため、いうて救急車乗っていかはったけどな。それからはもうお酒飲みにくる人より、手当ててほしい人の方が増えてな、今は大阪に週に三日しかおれへん。札幌、福岡、名古屋、東京、大阪て毎週。5大ドームツアーやで。ジャニーズみたいやろ。」
ドームでやってないでしょ。
「まあそやねんけどな。」
「ちょっと、僕しゃべってないのに返事するのやめてや!」
「ごめんごめん。」
そこに分厚いホットケーキと目が痛くなるほど白いカップに入ったコーヒーが来た。
カップもソーサーも縁は金色で、スプーンも金色。
器自体の、何か切れるほどの白と漆黒のコーヒー。
このコントラストのことを俺は珈琲と呼びたい。
おばさんはヤライのグラスに入ったレイコーをぐいっと飲んだ。
「職業、気功師です。」
おばさんは胸を張った。
「はは、そんな大層なもんやないねんけどね。」
なんかまぶしくて、珈琲をぐっと飲んだ。
ものすごく濃厚で、むせそうになった。
「がりは、あんたなぁ、男はストロングやなかったらあかんで。ストロングはスタイルだけやなくて全部やで。」
閉店間際になって、おばさんはいこか、と席を立った。
会計を済ませて、すっと俺にもたせてくれた袋にはコーヒーゼリーがたっぷり入っていた。
珈琲に出会うことはほとんどない。
薄いコーヒーをしかたなく摂取している時に、時々おばさんの声が聞こえてくる気がする。