【テーマ】でん! がりは
- 2018.02.28 Wednesday
- 23:48
やっとのことで追いついた。
「でん!て何?」
飛びのいて振り向いた顔は、鬼というより恐怖と不審のまだら模様で、浅い眠りから起こされた中型の草食動物のようだった。
角があるところは鬼と似ているとも言えるが、僕のでん!したかった相手ではなかった。
「また鬼かよー!」
何十回と繰り返してきた規定演技、演技力は徐々に高まり、高止まり、今は体調その他によって緩やかな単振動を描いている。
演技とは別のところで、僕の心の奥底からの嘆きというか、叫びだしたくなるような感情の奔流もここ数回は感じられるようになっていて、もう勘弁してくれ、さもなくば僕はどうにかなってしまう、と頭のどこかで恐れている。
両手を上げてどこまでも駆けたくなるような恐ろしさを今はまだ理性で押さえつけている。
両手を固く握り、空に向かって力の限り叫ぶことで保たれる正気。
もう正気でないかもしれないけれど。
見上げた青い天球は僕を捕える籠だった。
8月30日、引っ越すその日までいつもの仲間と鬼ごっこをしていた。
いつもは公園の中だけでやっていたのだが、その日は僕が最後だからということで場所の制限なしになった。
公園の外の道路が使えるようになったので、普段は使えないようなトリックを使ったりしていつもよりも盛り上がった。
ナツキが鬼になった。
彼女は男子より走るのが早く、体も大きくて女子のリーダーだった。
隣の家に住んでいたので、クラスが分かれてもいつも一緒にいる存在だった。
ナツキは他の友達には目もくれず、一心に僕を狙っていた。
なぜか僕にはわかった。
木に登り、四阿の屋根に飛び移り、ナツキが木を登りきる直前で屋根から飛び降りて距離を作った。
僕も足が遅いほうではないのだが、真剣になるのが遅かった分だけスタミナを消耗していた。
ナツキはもうすごい形相で追いかけてきていた。
振り向くとポニーテイルが上にまで跳ね上がっていた。
公園の隅に追いこまれ、僕はその時に試してみたかったトリックを出した。
公園の角の2mくらいの塀が直角を作っているところを、両足でリズミカルに蹴ることで駆け上がり、公園の外に飛び降りて逃げ出してしまおうとしたのだ。
1,2,3と三発蹴って塀の上に手が届いたところで、腰のあたりを思いっきりでん!された。
反動で僕は壁にぶつかって、みじめに地面に落ち、尻を払いながらすぐに立って追いかけたのだが、公園には誰もいなかった。
鬼が強いからみんなが逃げると思っていた。
自分から鬼になることもたびたびあった。
みんながいなくなってみると、鬼は罰としてそこにあった。
誰も鬼を解除してくれない。
誰かにでん!しないと。
公園の真ん中の時計が12時を指し、引越の時間が迫ってきてさらに焦った。
みんなどこへ消えたんだ。
しかし、呼び鈴を何度鳴らしてもナツキは出てこなかった。
家の人も出てこなかった。
パパとママに半ば強引に車に押し込まれた時に、道路に面したナツキの部屋のカーテンが少し開いてナツキの右目が見えた気がした。
その後会うことはなかった。
僕もあの町に戻ることはなかったし、ナツキが僕を訪ねてくれることもなかった。
訪ねてきてくれたとして、何ができたかは難しい。
千葉の新しい場所で新しいともだちと何度も鬼ごっこをした。
でもそれは僕の知っている鬼ごっこではなかった。
同じ名前の違う何かだった。
鬼が人を捕まえる時、でん!とは言わないのだ。
姿見の前で裸になって見たそれは、ブルーブラックのインクで描いた紅葉のように広がっていた。
僕はそれがナツキの手形だとわかったけれど、それを誰にも説明しなかった。
たわいもない手紙だったけれど、僕は本当に嬉しかった。
嬉しかったので返事を書いた。
今読んでいる本の話。
手紙のやり取りは緩やかに続いた。
お互いがケータイを持ってからも続いた。
電話番号を先に聞いたほうが負け、というようなくだらない意地があったように思う。
鬼ごっこの話には触れてはいけないことになっているみたいだった。
でもナツキは鬼ごっこのことを考えていると僕にはわかったし、彼女も僕がそれをわかっていることを理解していたと思う。
いつしか疎遠になっていき、もう手紙は書かなくなっていた。
僕らは写真のやり取りをしなかったので、どんな姿になっているかわからなかった。
どんな姿になっていたとしても、どこか気に入らなかっただろうし、絶対気に入ったと思うから必要なかったのだ。
僕には鏡越しにしか見ることができないのだが、僕が見ようとすると少し死角へ回り込もうとしているようにも見えた。
ターミナル駅まで一緒で、そろそろ別れてしまうというタイミングで、多少の茶目っ気と照れ隠しもあって、でん!と後ろからタッチした。
よく見るとそれはナツキとは似ていない女の子で、悪いことに彼氏を連れていた。
猟奇的な彼氏。
無抵抗に五発殴られて、わかったか!と顔面を靴底でこすられた。
ナツキは関西にいるはずだったし、僕は千葉だった。
こんなところにいるはずもないのに100%の確信をもってでん!をしたのはなぜだろうか。
わかったか!と言われてもわからないものはわからない。
初めてでん!した時ほどひどい目には遭わなかったが、何度かは殴られたし何人もの人を脅かしてしまった。
こんなことはもう僕もやめたいと思っている。
何しろいつ100%の確信を持ってしまうのかわからないのだ。
そしてその時僕は運命的にでん!してしまうだろう。
本当のナツキにでん!した時に僕はどうなるんだろう、ナツキはどんな顔してくれるんだろう。
その時僕は鬼でなくなるのだろうか。