神の意思を物理的に解釈する   ハッタリスト

  • 2015.09.30 Wednesday
  • 23:46
映画でもコンピュータプログラムでも法律でも将棋の棋譜でも、およそ人の作ったものは人の意思が感じられる瞬間がおもしろい、と僕は思います。
それでは人の意思が介在しない自然現象はおもしろくないかというとそうでもなくて、そこには人ならぬ神の意思があったりなかったりすると考えるとおもしろいです。

個人的なイメージでは、
・神様はルールを作った
・その後、神様は不介入の誓いを立てた
・神様はこの世界で何が起きるか知らない
のように思っています。

最初に
「神様はルールを作った」
ですが、ここでは物理法則のことを神様と呼んでいるだけなので、これは当然というか同義反復です。

その次の、
「その後、神様は不介入の誓いを立てた」
です。これが本題です。

仮にこの世界が金魚鉢なら、金魚鉢の外側の世界からカミサマである飼い主が気まぐれで餌を入れたり入れなかったりするでしょう。
この現象はほとんど予測不可能であって、エネルギー保存の法則も成り立っていません。
そういう世界では、次の瞬間に何が起こるかはカミの見えざる手の介入によっていくらでも変わってしまうわけです。

一方、我々の世界では、これまでのところエネルギー保存の法則が成り立っていないと見られる現象は確認されていません。
坂道をボールが転がり落ちているときに、カミの見えざる手が突然それを止めてしまうなんてことはない、ということになっているらしいのです。
このことは神様による不介入の保証のようにも見えますが、それがいつどこで破棄されるかなんてことはわかりません。今のところだけです。

※ネーターの定理の見方では、時間的並進対称性に対応する保存量がエネルギーです。雑に説明すると、エネルギー保存の法則とは昨日も明日も物理は変わらないことを意味する、ということです。

最後に
「神様はこの世界で何が起きるか知らない」
ですが、これは僕の個人的な好みです。
強い人間原理(説明略)を採用すると全知全能の神様がこの世界の全てをデザインしたように見えますが、それはあんまりおもしろくない。
以下のような見方の方が好きなので、それをまとめとします。


神様はいろんなルールを作って成り行きを見守るゲームをしていたが、あるときものすごく複雑な現象が見られる世界が偶然できてしまったので、何が起こるかワクワクしながら黙って見守ることにした、めでたし。

本屋の仕事1〜時間の無駄〜 Mr.ホワイト

  • 2015.09.29 Tuesday
  • 00:00
大学生の頃、本屋でアルバイトをしていました。本屋といっても紀伊国屋のような大型書店でもブックファーストのようなチェーン店でもありません。おばあちゃんが一人で切り盛りしている片田舎の地元の小さな本屋です。時給は当時の最低賃金ギリギリの700円ピッタリ。まあそれでも本に囲まれるならいいかという安易な理由で決めてしまいました。ちなみに現在の兵庫県の最低賃金は776円。なんだかんだで名目賃金は10年前から1割ほど上がっているようです。

面接は5分で終わり、その日から働き始めました。50平米くらいのこじんまりとした店内は、自分自身が常連客だったからよく知っているつもりでしたが、実際にはまったくわかっていませんでした。例えば本屋の重要な収入源である女性向け雑誌など、それまで生きてきた中で気にかけたことなどないので、例えば「non-no」と「ViVi」と「MORE」と「CanCan」の違いなんてさっぱりわかりませんでした。いまだにまともに読んだことはないけど、表紙や客層で不思議と違いはわかってくるものです。

仕事内容は、簡単に言えば本屋のヌシのおばあちゃんの手助けです。「あんた、これあっちへ運んで」と言われるがままに運んだり、「こないだのあの事件、テレビで見たけど、怖かったねえ」という世間話に付き合ったりする仕事です。おばあちゃんは「口が乾く」とか何とかでいつもニッキ飴をなめていて、「これ、あげる」と言ってよく私にもくれました。私はニッキ飴が苦手なのですが、なんとなくもらわざるをえなくて、おばあちゃんと一緒になめていたものです。



これから何回かに分けて、私の一書店員としての思い出を書いていこうと思っています。だけど、アルバイトがいい経験になったというようなことを書く気はさらさらありません。むしろ今思うことは、「アルバイトは基本的には時間の無駄」ということです。もちろん、アルバイトには有益なこともたくさんあるでしょう。お金がない人はやらざるをえないし、アルバイト自体が楽しいかもしれないし、社会勉強になるだろうし、彼氏彼女や友達が見つかるかもしれない。私もアルバイト時代に自分の職業を決めるヒントを得たりもしました。それでも、青春時代の貴重な1時間を時給800円とかで浪費すべきじゃない。人生で金が欲しいのなら、大学4年間でがんばって勉強すれば生涯所得は格段に上がる。人生を遊びたいのなら、金を借りてでも「人生の夏休み」である大学時代にめいっぱい遊ぶべきでしょう。だから、思いっきり勉強するか、そうしないのであれば思いっきり遊んだほうがよい。そんなこと、みんなわかってるさ、と言われそうだけど。

大人になると、時間がなくなる。金があるときは時間がない、時間があるときは金がない。経済学的には金と時間はトレードオフです。金持ちは金で時間を買いますが、やることがない大学生にとって、アルバイトは魅力的な逃げ道になります。金をもらって、バイトで忙しいという言い訳を作ることができるのだから。

明るい悩み相談室PREMIER(164)〜天災〜 がりは

  • 2015.09.27 Sunday
  • 01:05
明るい悩み相談室PREMIER、本日の担当医がりはです。
こんばんは。
今日はどうされましたか?
 
「地震、雷、火事、親父、そして台風、噴火と災害が絶えることがありません。いつ自分にそんな災いがふってくるかと思うと、怖くて、恐くて、眠れません。」
 
ほうほう、お気持ち大変よくわかります。
さきの関東東北の豪雨の際には私の住んでいる地域も冠水し、妻の実家や友人宅も危険な状態になりましたし、副業でお世話になっている地域もかなりの被害が出ました。
今でも苦しんでいる方々がいらっしゃいます。
 
少し前の東日本大震災の影響はいたるところに残っています。
自然災害は被害を被る人々に何の非のないところが残酷です。
(まあ、業を洗い流さなければならないとか言い放った人間のクズ閣下もいましたが。あのくたばり損ないは放っておいて。)
ご相談の中の火事と親父の部分は何とか対処してもらうとしても、その他の要素を正しく受け切るのは至難の業だと思います。
被災すると様々な苦難が襲い掛かります。
命を失うかもしれません。
自分が大切にしている物を失うかもしれません。
いつもと同じ生活を営めなくなるかもしれません。
 
そんな事態に備えて緊急避難グッズを、とか隣近所で仲良くしておこうとか、避難場所や集合場所を確認しておこうとか、保険に入っておこうとか、家を二つ持っておこうとか、そういう話はとても大事ですし多くの人が語っていると思います。
それと同時に私があなたに伝えたいことは、いつ災害が起きるのかわからないので、毎日を一生懸命生きましょう、特に人に会う時は会う人会う人一期一会だと考えて悔いが残らないように接しましょう、ということです。
ある日突然その人と会えなくなることを考えた時に「あんなこと言わなければ(しなければ)よかった。」
というような後悔を残すべきではありません。
目の前のことを全力でやっていきましょう。
それができていればきっと「今日は死ぬのにいい日だ。」という境地に達することができるでしょう。
 
※明るい悩み相談室PREMIERではあなたのお悩みを受け付けております。
ブログにコメント、投票時にコメント、ハッガリーニにメール、電話、伝書鳩、のろし、などの手段でどうぞ。
ちなみに投票時のコメントでのお悩みには必ず回答いたします。

「中の人」 byアフリカの精霊

  • 2015.09.26 Saturday
  • 01:15
「なかにもどろーよー。なかにー」
日曜の昼下がり、あるショッピングモールの駐車場から建物内部へ続く通路で4・5歳の女の子がダダをこねていた。よく見る光景であるが、大人になるとどうしても親の気持ちになり子供が聞き分けよくしてくれることを願ってしまう。
その時も女の子が聞き分けよく諦めてくれることを願いながら建物内部に入った。するといかにも小さな女の子が好きそうな着ぐるみショーが行われておりものすごく盛り上がっていた。そう大きなショッピングモールの場合、広場で定期的に催し物が開催されるのであるが、その日は小さな女の子のためのショーが行われていたのだ。
なるほどさっきの女の子はこれが見たかったのかと察したのが、そうなると不思議なもので今度は見たかったショーから無理矢理引き離された女の子に同情してしまうのだ。親が少し我慢して折れてくれてあの女の子がこのショーを見られることを願うようになってしまった。
 
 自分の買い物を終え、駐車場に戻ろうとするとさっきの場所であの家族がまだいた。先ほど女の子に同情的な気持ちを持った私は女の子がどうしているのか気になったのだが、どうやら女の子は通路に座り込んで籠城戦を決めたようだった。ショーはもう佳境を迎えようとしている。
「いい加減にしなさい。今から行ってももう終わって見られないよ」
長時間籠城され、周囲から注目も浴びた親はかなり怒っている。
何か子供らしい返しが聞こえてくるかと思ったのがこの女の子が用意した返事は私の予想を超えるものであった。
 
「いいもん。終わったら中の人とあえるもん。」
 
 私は初め耳を疑った。私の聞き間違えでなければ確かに女の子はこういったのだ。
 つまりショーが終われば着ぐるみの中に入っている人間と会える、それもこの女の子の希望だということなのだろう。
 サンタをいつまで信じさせるなど子供の育て方は家庭によって違うだろうが、この女の子はこの歳にして既に着ぐるみショーは大人の人間が中に入って動かせていることを認識しているようであった。そして、そこからもう一段階進んで、その中の人にも会いたいというのである。もちろん、ショーがどうしても見たいこの女の子のその場しのぎの言い訳である可能性もあるのだが、私は日常の風景から聞こえてきた非日常的な言葉に驚かずにはいられなかった。
 
 とはいえ、この家族のことをジロジロ見るわけにもいかず私は自分の車の方へ聞き耳を立てながら乗り込んでいった。すると私が車を乗るのと同時くらいに、家族がモールの中に入っていくのが見えたのであった。親がついに根負けしたようであり、女の子の籠城戦は実ったのだ。
 
 この女の子がショーの残りの部分を見られたのかは定かではない。
 でももし「中の人」に会うことが本当の目的だったとしても、かわいい着ぐるみのキャラの中の人は夢を壊さないように外に出てこないのではないだろうか、女の子のためにはどちらが喜ばしいことなんだろうと心配せずにはいられない出来事であった。
 
 

偉大なロックソングベスト5 by Mr.ヤマブキ

  • 2015.09.25 Friday
  • 00:00
 かなり個人の好みの入ったランキングです。
 
5位 「Light My Fire  The Doors
 
 1960年代後半から活躍したバンド。ボーカルのジム・モリソンのカリスマ性とオルガニストのレイ・マンザレクの作曲能力で有名ですが、伝説化したのはジム・モリソンの急逝のためでしょう。洋楽界には27クラブ(著名なミュージシャンの27歳での死)というジンクスがあって、そこにはかのジミヘンやジャニス・ジョプリン、カート・コバーンなどのメンバーがいるのですが、ジム・モリソンもその一人です。
 この曲は彼らを一気にスターダムに押し上げた、オルガンが印象的な一曲です。
 
4位 「21st Century Schizoid Man  King Crimson
 
 こちらも1969年から活躍のバンド。ピンクフロイドらと並んで、いわゆるプログレッシブロックの黎明期を支えました。そのデビューアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」は5週連続売り上げ1位を獲得していたビートルズの「アビイロード」を蹴落としたことで有名です。
 ギターでリーダーのロバート・フリップは幾度もメンバーチェンジを繰り返し、音楽性の変遷を辿るのですが、この曲は「キングクリムゾンの宮殿」に収録されている初期の曲です。しかし、60年代に生まれたとは思えない革新性で、今出たとしてもきっと新しく感じられるだろうと思うのです。
 
3位 「Layla  Derek & Dominos
 
 3大ギタリストと言えば、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、そしてDerek & Dominosに所属していたエリック・クラプトンです。このバンドにはこの曲以外のヒット曲はありません。しかし、この偉大な曲によって間違いなくロック史に名を残すでしょう。
タイトルを聞いてもどの曲かわからないかもしれませんが、きっと皆さんも聞いたことがあると思います。三菱のCMに使われていました。ハートビートモータス、と言えば分かるでしょうか。疾走感の中に哀愁漂うギターリフが有名な曲です。
 
2位 「Bohemian Rhapsody  Queen
 
 日本人が好きな洋楽バンドというと、ビートルズに並んでクイーンが上がるほど人気で、本国イギリスより先に日本でブレイクしたという噂が作られるくらいです。We will rock youI was born to love youなども有名でご存知かもしれませんが、彼らの最大の代表曲はやはりこのボヘミアンラプソディになるでしょう。
 ロックオペラの代表曲とも見做されますが、ロックオペラという単語も微妙なところがあって、The Whoの代表的なアルバム「Tommy」によって確立されたジャンルとされています。が、Tommyでは曲ごとにストーリーがあって、全体でオペラのような構成ということなのですが、この曲はオペラ調のパートがロック調の部分と融合されているという点で、意味としては異なっています。
 
1位 「Stairway to Heaven  Red Zeppelin
 
 ビートルズ以外に偉大なバンドを挙げろと言われたらまずはローリングストーンズや、このレッドツェッペリンが挙がるでしょうか。先ほど紹介したジミー・ペイジが中心となって結成されたバンドで、型破りなスタイルで反社会的な典型的ロックバンドと思われがちですが、その実、多種多様な音楽を取り込み、ケルト文学にも精通していたボーカルのロバート・プラントの歌詞も相俟って、繊細な面も備えたバンドです。
 寂しげな曲調で始まり、徐々にボルテージが高まり激しさに至る壮大な構成は後のバンドの作曲にも大きな影響を与えており、ロック史最強にふさわしい曲と言えるでしょう。

 皆様もご存じない曲があればぜひ、一度聞いてみてください。便利なことに、youtubeなどで容易に視聴することができます。

 

おとぎばなし  がりは

  • 2015.09.23 Wednesday
  • 02:01
むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがすんでいました。
おじいさんはやまへしばかりに、おばあさんもやまへしばかりにでかけました。
ふつかばかりたって、おじいさんはおばあさんにいいました。
「せんたくものがたまってくさくてたまらん。あしたはせんたくをしてくれんかのう。」
「あなたもわたしもしばかりをしていて、なぜわたしがせんたくをしなければならないんです?これからはじゃんけんできめましょう。」
「わしはいままでせんたくをしたことがない。おばあさん、もうしばかりはやめて、むかしのようにせんたくをしてくれんかのう。」
「お言葉を返すようですが、おじいさんは山へ柴刈りに行って、私も山へ柴刈りに行っています。おじいさんが刈ってくる柴のかさと私のそれは遜色ありません。むしろ私が多いくらいです。比較優位の考え方でいけば、柴刈りを私に任せて、おじいさんが洗濯をする方がこの二人の経済を考えたときに社会的利得が大きいのは疑いの無いところです。また私は柴刈りに喜びを見出しています。間伐材の伐採をすることにより、より生産性の高い林業を実践したいという使命感に燃えています。あなたのようないわゆるデモシカ柴刈りではなく、天職としての柴刈りなのです。それでもあなたは私に洗濯をしろといいますか。」

おじいさんはとてもびっくりしました。
おばあさんのいっていることがひとつもわからなかったからです。

つぎのひ、おじいさんはせんたくものをもってかわにむかいました。
かわにはおじいさんがなんにんもいました。
せんぱいのおじいさんからせんたくのしかたをならい、ぐちをこぼしながらざぶざぶとせんたくしていると、ふくといっしょにこころまであらわれるようでした。
ひるすぎにいえにもどり、せんたくものをほして、ばんごはんをつくっておばあさんをまちました。

おばあさんはやまのようなしばをもちかえってきました。
どさりとしばをおきながら、おばあさんは言いました。
「洗濯物を干す時には一枚一枚しっかり広げて干すの!やり直し!」
「あしたあらっておきますから。」
「明日じゃ遅い!明日着るものがない!今すぐに行け!」
おばあさんにけりだされ、おじいさんはまっくらなよみちをせんたくかごをもってかわへとあるいていきました。
つきのないまっくらなよるでした。
かわのほとりにでて、どこまでがかわかわからないのでこわごわはっていきました。
ようやくかわをみつけ、ためいきをつきながらせんたくをしているおじいさんのうしろからあしおとがします。
ぴしゃ、ぴしゃ、ぴしゃ。
ぬれたあしおとです。
ぴしゃ、びしゃ、びしゃ。
だんだんおおおきくなります。
びしゃ、びしゃ、びしゃ。
おじいさんにもきこえました。
おじいさんがふりかえると、そこにはみのたけななしゃくをこえるようなおおきなかっぱがおりました。
かっぱはおじいさんをあたまからばりばりと
たべてしまいました。
おしまい。

明るい悩み相談室PREMIER(163)〜同じ月をみている〜 がりは

  • 2015.09.20 Sunday
  • 00:49
明るい悩み相談室PREMIER、本日の担当医がりはです。
こんばんは。
今日はどうされましたか?
 
「古典でよく出てきた、あのひとも同じ月をみているかしら、なんてこと21世紀でも、あるいは1000年後でも可能でしょうか、教えてください。」
 
そうですかそうですか、わっかりますわっかります、だって私相談のプロですから。
 
なぜ人を好きなるとその人のことが気になってしまい、その人と同じ行為をしているだけで幸せになれてしまうのでしょうか。
一緒にいるだけでなんかわらける、それが好きということだ、というのが昔の日記に書いてありましたが、最近のJ−POPの歌詞みたいですね。
私が毎日のように日記を書いていたのは高校生の時に遡りますので、20年くらい前のことです。
やや乱暴ですが20年経っても年頃の男が考えていることはあまり変わっていないですね。
 
まあ、今年と去年、去年と一昨年、一昨年とその前の年、とあまり変わってないな、ということを20回繰り返してもあまり変わってないな、となるわけです。
そうすると帰納的に古典の世界で書かれていた1,400年前くらいもきっとあまり変わってないな、となるでしょうし、これから1,000年後もきっとあまり変わってないな、となるでしょう。
 
もちろん、とりまく環境、習慣や風俗なども変わるので月を見るかどうかを含めて、気持ちの表しようは変化をするでしょう。
好きだという気持ちだけで何も食べなくていいくらい、気持ちが高まった時に和歌を詠む人は現代日本にあまり多くありません。(私に黙って皆さんそうしておられる、なんてことはないですよね?)
しかし百人一首を見ればわかるように、昔はそうだったのです。
今どういうのが流行りなのかはわかりませんが、少し前は稀代のヒットメーカー小田和正によると「Oh!Yeah!」だったり「言葉にならない」だったりと歌を詠むどころではなかったことがわかっています。
最近だとLINEのスタンプ選び抜いて送る、みたいなことでしょうか。
1,000年後、言葉が復権しているのかわかりませんが、きっと今とは違う形になるでしょう。
でも気持ちはほとんど変わっていないと考えられます。
その辺を踏まえて、秋の月を眺めるのもまた一興ですね。
 
※明るい悩み相談室PREMIERではあなたのお悩みを受け付けております。
ブログにコメント、投票時にコメント、ハッガリーニにメール、電話、伝書鳩、のろし、などの手段でどうぞ。
ちなみに投票時のコメントでのお悩みには必ず回答いたします。

つれづれ  Mr.ホワイト

  • 2015.09.16 Wednesday
  • 01:33
3月に大阪から奈良に引っ越した。大阪といっても色々あるのだろうけど、以前住んでいたところは交通の便は大変に良いのだが、治安というか文化というか、雰囲気があまり良いところではなく、みんな歩きタバコはしまくるし、それどころではなく自転車に乗りながらタバコを吸う人も多く、ゴミはいつも散らかっていて、ゴミを集める人たちも平気でうろうろしていて、夜にはどこかから叫び声が聞こえたりするような場所だった。男が一人暮らしするには何の問題もないが、そんなところで子育てはできなかった。

奈良に引っ越すと暮らしが一変した。静かで、優しく、穏やかだ。夜20時になると商店街のシャッターは閉まり、本当に人がいなくなる。触れ合う人々は皆一様に優しく子供に接してくれる。タクシーの運転手がこう言っていた。「奈良の男はね、まるで鹿みたいに無表情なやつが多くてね、こいつ何考えとんのやろうなーと思われたりすんねんけど、でもね、実際のところ、何にも考えんと、ポーッとしとるだけですねん」。そう、奈良の人は自虐的な人が多い気がする。

夕方、子供を運動させるために興福寺の五重塔まで散歩に連れて行く。世界遺産である。観光地に住むと散歩コースがすごいことになってしまう。世界遺産だが、夕方になるとほとんど誰もいない。鹿もご飯時なのか黙々と草を食べている。敷地はだだっ広く、五重塔以外には大した建物も立っていないので、空が広い。紺色のグラデーションの空に、南円堂の鐘がゴーンと響く。18時の鐘である。南円堂の屋根の向こうに沈む夕日を、欧米人観光客がスマートフォンで撮ろうとしている。うちの子は、延々と砂利を踏んだり拾ったり集めたりばらまいたり、なんとも忙しそうにしている。

五重塔の前で若いカップルがなんだかもやもや相談している。「やっぱりあの人たちに撮ってもらったらよかったね・・」。どうやら二人で観光に来たが、ツーショットの写真を一枚も撮れておらず、どうしようという話のようだ。人に写真を撮ってくれと頼むのは難しいものだ。すぐに「撮りましょうか」と声をかけたらほっとしたようだった。五重塔の前で体を寄せ合う二人を撮ろうとしていると、太宰治の『富嶽百景』の美しいラストシーンが思い出された。あのとき太宰は女性二人を撮らずにその背後の富士山をパチリと撮ってしまうが、スマートフォンだとすぐバレるからそんなことはできない。

パチリと撮ると、「ありがとうございました。こちらも撮りましょうか?」と言われた。いつもの散歩コースで、うちの子とふたりで?なんだか妙だ。「いえ、地元の人間なので、大丈夫です」と言ったが、兵庫の田舎出身の自分が「地元の人間」などとよく言えたもんだ、と我ながら何かおかしかった。うちの子は遊んでくれると思ったのか、カップルの男の子のほうにズンズン詰め寄っていく。人見知りの真逆のような性格なので、こういうときに本領を発揮し始めるが、ややこしくなるのでそれを抱き上げてカップルにバイバイさせると、カップルのほうもなんとも丁寧にバイバイしてくれたので、うちの子は満足したらしくニヤニヤしていた。気がつけば空は深い青になっていた。ブラブラ歩いて家に帰りながら、(ああ、撮ってもらってもよかったな)となんとなく思っていた。

島津の魅力  前編  byアフリカの精霊

  • 2015.09.15 Tuesday
  • 23:45
 最近は915日というと、昔の敬老の日というより関ヶ原の戦いの日だということが頭に浮かぶようになった精霊です。
 正確に言うと関ケ原の戦いは旧暦の915日なので、現代の暦に当てはめると1021日らしいですが、この際どうでもいいでしょう。
 
 さて関ヶ原の戦いについてですが、本日は私の好きな島津家についてかきましょう。
 島津家は西軍の中で少し異色な活躍をします。
 今まで私の1番好きな武将である山中鹿之助について語ったことはありましたが、1番好きな大名家である島津家について語ったことはありません。
 島津家は戦国を好きになって以来ずっと好きな大名家で島津家の専門書も持っているくらいなのですが、その専門書にも多くのページが割かれている島津家の関ヶ原について語りましょう。
 
 まず島津家の関ヶ原を知るために必要な知識に島津四兄弟があります。
 戦国末期の島津家は義久・義弘・歳久・家久の4人を中心に成り立っていました。織田家や豊臣家と違い一族経営の大名家と言っていいでしょう。
 このうち関ヶ原当時に生きていたのは上の二人、義久と義弘で家督を継いだのは義久でした。
 現代では関ヶ原は徳川家康が圧勝したことが有名になっていますが、当時はどっちが勝つかわからないので多くの大名家ではどっちが勝っても自分の家は生き残れるように親子・兄弟などで東西に分かれて参戦という形をとっていました。
 しかし島津家(当主義久)が採った作戦はというと、豊臣方と仲の良い義弘に家康の味方をさせるということでした。
 あれ?と思った方、当然いると思います。実は島津家は初めは東軍に参加するつもりだったんです。なぜ西軍になったかは中編で。
 ともかく、もし東軍が勝てば自分が味方をしたという事実が残りますし、西軍が勝ったとしても豊臣と仲の良い義弘だからある程度のお情けはあるとの計算があったのかもしれません。
 しかも島津家として動員したのは1500人。
 これは50万石以上の大名家であるにも関わらず非常に少ない人数であり、積極的に参加する気のなかった表れでしょう。
 つまり島津家としては参加をしたという事実だけが欲しかったのであり、やる気はなかったのです。
 参加した島津義弘は当時66歳。義弘は戦上手として有名でしたが、西軍最高齢であります。
 形だけの参戦、しかも年寄りの参戦。
 これだけを見てもわかるように島津家としてはやる気のなかった関ヶ原なのです。
 こんな島津家が当初東軍に参加予定でありながら、なぜか西軍として関ヶ原の中心で大活躍をするわけですから歴史ってわかりませんね。
 

島津の魅力  中編  byアフリカの精霊

  • 2015.09.15 Tuesday
  • 23:42

 さて、大阪で1500人くらいを集めた島津義弘。当初の予定通り、西軍(豊臣方)に攻められそうな東軍(家康方)の城を守りに行きますが、東軍はなんとこれを拒否。行き場所をなくした義弘は西軍に味方をするしかなくなったということになったのです。

 つまり、自分は東軍のつもりだったのに、東軍は仲間に入れなかったということで仕方なく西軍になったなんとも悲しい軍勢だったのです。

 

 そんなこんなで仕方なく西軍となった島津家ですが、1500人では西軍の中での扱いはそんなによくありません。作戦を立てても却下され、次第に島津義弘の不満は溜まっていきます。

 そんな中ついに関ヶ原で東西両軍が衝突。

 島津家はどこに布陣したかというと、なんと石田三成の隣。西軍大将の隣という大激戦区にいました。

 

 結果はみなさんの知っての通り、東軍の大勝です。

 大激戦区にいた島津家はなんと戦わないという作戦に出たのです。石田三成から出陣の命令が来ても無視、時々やってくる東軍に少し対応するということしかしなかったのです。

 戦わなかったからと言って西軍に参加したことが消えるわけではありませんから、これは現代でいうストライキに近い行動だったのでしょう。西軍に不満があるのでお前らのために戦ったりしないという気持ちだったのだと思います。

 

 さあ東軍の大勝で終わり西軍は敗走した後、ここからが島津の関ヶ原本番です。
 なんと島津家の関ヶ原は勝負がついてから始まるのです。

 

 死亡や逃亡でこの時点での島津軍は300人くらいしかいません。周りには西軍はおらず東軍ばかり。

 ここで島津義弘は最も安全に逃げれる可能性の高い方法で逃げようと思いつくのです。それはどこかと言うと敵陣への正面突破でした。

 常識的には敵とは反対方向に逃げますが、それでは追撃戦となり犠牲が多くなります。しかし正面突破しようとすると敵はひるむと考えたのです。もう勝利がついた戦いにおいては勝利者側は今度は生きて褒美を貰いたいという心情が働き、死にたくないという気持ちから向かってくる敵には弱くなることを見抜いていたのです。

 

 かくして島津軍は前方の東軍大軍にむけて正面突破をはかり、みごと通り抜けそこから逃げていくことに成功するのです。

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