プロレス者 がりは

  • 2015.07.28 Tuesday
  • 00:00
プロレスを観戦している。
会場で観ることもあるが圧倒的に画面を通じて観ることが多い。
昨年末から新日本プロレスが1か月999円でLIVE中継も過去の試合も見放題のサービスを始めたことでこの傾向に拍車がかかった。
今では大きな大会の中継がある日は家族でそれを楽しみに待つようになっている。
勝敗を予想し、出てくる選手に肩入れをし、手に汗握って、声援を飛ばす。
大きなテレビも買ったし。
 
初めは技の華やかさ、力強さ、痛ましさに目を奪われる。
地上4mからさらに上に飛んで、体を開いて相手に飛びかかるプランチャに。
鍛え抜かれた巨体を吹っ飛ばすラリアットに。
鍛えようのない足首の腱を鬼の形相で曲がってはいけない方向に捻じ曲げるアンクルホールドに。
 
そのうち、その技を受けても立ち上がってくる姿、痛みに耐える姿に気持ちが移る。
プランチャをしてくる相手に腕を開きしっかり受け止める姿に。
ラリアットを受けて木の葉のように一回転したあと、ふらつきながらも立つ姿に。
足首を極められながら両腕の力だけでロープに這っていくものの、手が届きそうなところでリング中央に引きずられてもまた這っていく姿に。
 
一周回って、技の美しさに再び目を奪われるようになる。
天高く舞うドロップキックに。
美しい弧を描くジャーマンスプレックスに。
何が起きたかわからなくなるほど素早く極まる飛び付き式腕ひしぎ逆十字固めに。
 
さらにそれらの技の必然性に心を奪われるようになる。
フィニッシュのラリアットを有効にするための後頭部へのドロップキックに。
踏ん張りを利かなくして相手のジャーマンスープレックスの威力を削ぐための四の字固めに。
フィニッシュのボディープレスを膝を立てて逆襲されないための徹底したテキサスクローバーホールドに。
 
そのうち技は段々うるさくなってきて、闘争する気持ち、姿勢そのものを見るように。
避けられることを全く考えない渾身のエルボーに。
自分へのダメージも避けられない頭突きに。
 
他にも反則が成立するメカニズムや、タッグチームの連携の妙、場外乱闘における法則、リング内外での言動など目を奪われるものは数多かれど、それら全ては道具に過ぎない。
 
私はプロレスを観ている。
プロレスの観方を修練している。
一つ一つの所作の意味を歴史的経緯から読み取ることもプロレスを観ることだし、立ち姿を観て何かを感じるのもプロレスを観ること。
技の一つ一つに大きな歓声を上げるのもプロレスを観ること。
試合展開を予測しては裏切られることもプロレスを観ること。
 
一通りプロレスを観られたなら、世の中で起こっていることを全てプロレスの文脈で解読できるようになる。
およそ人と人の間にあることはプロレスなのだ。
そして世の中がいかにプロレスとして成立していないか、不完全なプロレスしかできていないかが目に付くようになるだろう。
その時にはあなたもプロレス者としてやるべきことがもうわかっているはずだ。
うまいレスラーがそうするように、観客のヒートをあおる、相手が強いことをわからせるためにきれいに技を受けてやる、レフェリーの注意を引く、味方を呼び込むなどやり方はいろいろある。
 
あなたがあなたの周りにあるプロレスを成立するように持っていくのである。
まずはリングに上がるところから。

暑い日のこと  がりは

  • 2015.07.27 Monday
  • 00:30
いつもいつも大きな物語を書きたい書きたいと思っていたら疲れてしまった。
反動で小さな話を。

高校生の時に友達と幸せの話をしたことがある。
みなさんもあるでしょう?
自由とか、生きる意味とか勝利とは何かとか。

で、幸せの話をした時のこと。
世界平和だ、彼女といる時だ、みたいな話の中である男がこんなことを言った。
「暑くて暑くてたまらない日に部屋をキンキンに冷やして、毛布をかけて寝るの。それが幸せなの。」
「はあ?」
「それか、寒くて寒くて凍えそうな日に部屋をヌックヌクにしてアイス食べるの。それが幸せなの。」
「はあ?」
「わかんない?」
「わからんなあ。」
「暑くて暑くてたまらない日に部屋をキンキンに冷やしてこたつに入ってぬくぬくしてアイス食べるの。」
「ほな初めから暑い部屋でアイス食べたらええやないか。」
「全然わかってないなあ。」
「はあ?」
「寒くて寒くて凍えそうな日に部屋をヌックヌックにしてダラダラ汗かいて水風呂入って冷え切ったところであたたか〜いココア飲むの。」
「最初からココア飲んどけや。」
「えー?まだわかんないの?
「はあ?」
「暑くて暑くてたまらない日に部屋をキンキンに冷やしてこたつに入ってぬくぬくしているうちに避暑の計画を立てるの。軽井沢行こうか、アイスランド行こうか、て。早く夏来ないかなーって。」
「ほんとはもう夏なんでしょ?外出たらええやん。ほんで軽井沢行ったらええやん!」

色々と幸せな時代ですね。
 

「精霊、検定を憂う」 byアフリカの精霊

  • 2015.07.17 Friday
  • 21:17
みなさんは去年私が戦国に関する検定を受けていたことを覚えているでしょうか。
今日はその続編です。
というか最終結果報告です。

確か去年の11月に真田三代検定を受けてその成績報告をしその最後にこの5月に大阪の陣検定を受けようということで締めている。
しかし結論から言うとその大阪の陣検定はおろかその他の検定も受けていないのである。
何も戦国に対する興味がなくなったわけではないのに、である。


この種の検定の性質として2級を合格していないと1級を受けられないということがある。
つまり1級の受験資格は2級合格者であり、1級を合格しようと思えば最低でも2年かかるわけである。
この1級合格というのが私にはすごく魅力的なものであった。
この日記の結果報告として2級・3級の点数と順位を公表して自分よりも上がいることを認識し、自分への戒めとしたのであるがやはり合格は合格である。
そして点数としては余裕で合格点以上である90点以上ということもあり、興味はやはり自分が合格できるかどうかすらわからない1級の受験にあった。
しかも1級はその検定のご当地(真田検定なら長野県上田市など)でしか行われないという徹底ぶりに、2級受験時から既に1級の合格にロックオンされていたのである。
既に今年は上田市だけでなく関ヶ原などにも試験を受けに行く気持ちでいっぱいだったわけである。

しかしここで、この手の検定のもう一つの性質によってどうにもならなくなる。
それは「前年の試験において受験者が少なかった検定は来年開催されなくなる」ということであった。
調べると戦国関係の検定でも開催されなくなっているものが数件ある。
私の受験した関ヶ原は500人程度いたので大丈夫だと思っていたのだ。
しかしこの7月中旬になってもまだアナウンスがないのである。
関ヶ原は9月15日なのでこの時点において募集がかからないということは今年は開催されないのであろう。
まだ募集時期には早いが、真田検定は100人程度であり、当然開催される可能性は低い。

私が2年ががりで楽しみにしていた1級の受験がいくつか受けられないことが決定したのである。
主催者も会場費などの経費を考えれば受験者数の少ないものを残すわけにはいかないのであろうが、受験者としては少し悲しいものがあったのだ。
そんなことで今年から始まった大阪の陣検定も来年開催されない可能性もあると思い、見送ってしまったのである。

せっかく見つけた熱心になれるものの1つだっただけに残念ながらも仕方ないのかなと思った。
また毎年開催されそうな検定があれば受験予定であるが、当分の間は休憩ということになりそうだ。
 

無限の可能性 by Mr.ヤマブキ

  • 2015.07.12 Sunday
  • 11:16
 ママのおっぱいを吸いながらでなんだが、俺の話を聞いてくれないか。生まれてからまだ一か月も経たない俺には無限の可能性が広がっている、という話だ。大企業の社長や偉大なミュージシャン、著名な政治家。そうかと思えば平凡ながらもささやかな幸せを大事にするような人生を送るかもしれない。もちろん、困難なものもあるだろう。俺がどんな才能を秘めているかは分からないし、すでに定められてしまった出自は変えられない。一般的な日本人家庭に生まれた以上は、天皇やどこかの国王になることは不可能だ。しかし、考えられる人生が無限にあるのも事実だ。
 とはいえ、俺も夢想家じゃない。無限の可能性と言っても、突然能力が与えられるわけじゃない。フィギュアスケートで金メダルを取る人生を送るのなら、5歳にはアイススケートを始めなければなるまい。もしテニスのスター選手になりたいなら同じころからテニスを始めて、熱心に練習し続ければならない。プロ棋士だってそうだ。自分の意志以上の早期教育が必要なこれらの可能性は、まず、両親が俺にそれを習わせるかどうかという問題がある。でも親が早くからフィギュアスケートを習わせなかったからといって、俺は全く怒らない。どんな環境であれ、俺を生んでくれた両親に恨む気持ちなど有り得ない。ありがとうな、ママ。
 それよりも今、どんな未来でも描くことができて、何にだってなれるつもりでも、選べる人生は一つだということが恐ろしい。スケートの才能がなければテニス選手に、テニスの才能が無ければプロ棋士に。でも選べる道は一つだ。テニスの道を選んで、熱心に練習して、そしてもし偉大なテニス選手になれなかったら?たとえその地点で20歳だとしても、俺が失った成り得たはずの何かはとても大きい。そうだ、時が過ぎるとともに、可能性はしぼんで行く。幼少期に限らない。すでに、俺は時の試練にさらされている。もし俺が今、ドイツの国境沿いやスイスにでも住んでいればトリリンガルも苦労無いだろう。だが、このままなら日本語しか話せないわけだ。どちらが良いかは別にして、日本語以外の言語のネイティブスピーカーになれる可能性は刻一刻と減っているのだ。俺はそれに身震いする。時とともに無限の可能性が俺の指の間を擦り抜けていくんだ!成長したくない!なんにでもなれることを夢想する可能態のままでありたい!
なあママ、助けてくれよママ!俺は育ちたくない!もうおっぱいは充分だよ、ママ!

テレビなし生活   ハッタリスト

  • 2015.07.01 Wednesday
  • 21:49
我が家にはテレビがありません。
今日の主張は、テレビなし生活をお薦めすることです。
理由は2つ、

1.情報が間接的に伝わってくるのがおもしろい
2.報道の価値に影響を与えられる

です。


まずは、情報が間接的に伝わってくるのがおもしろいという話です。
なにせテレビがないものですから、
・ふなっしー
・妖怪ウォッチ
・ありのままに
・「ダメよ〜、ダメダメ」
これら全て、直接見たのは昨年末に実家で紅白歌合戦を見ていたときが初めてでした。
(この雑多な組み合わせが全部見られたのは、さすが紅白と言うべきでしょう)

ではそれらの存在を全く知らなかったかというとさにあらず、流行っているものは間接的に伝わってくるのです。
ふなっしーそのものは見たことがなくても、ふなっしーの真似をしている人の声やら何やらに触れることは時々あったので、ふなっしーがどのようなものなのか少しずつ全体像がつかめてきます。
その結果、想像されるふなっしーと実物のふなっしーがどのくらい一致するかを紅白で確認する、という遊びが楽しめました。

今は、吸引力の変わらないただひとつの云々というやつを見てみたいと思っています。
皆さんも僕と一緒に、情報の断片から全体像を予想するゲームを楽しみましょう。


そしてもうひとつ、報道の価値に影響を与える、という話です。
世の中、もっと報道されるべきということと、むしろ報道されすぎているということがあるように思います。
これはなぜかというと、おそらく消費者である我々の需要に沿った結果なのではないでしょうか。
ならば、その需要を変化させることが報道の価値に働きかける方法のひとつであろうと、そう考えています。

テレビをつけっぱなしにするとどうしても何でもかんでも情報が入ってしまいますが、テレビなし生活によってもっと選択的に報道に触れます。
すると、過剰だと自分が考える報道を避けて、知りたいことに集中することができます。 この状態で人と話すと、あるトピックについて僕と話そうとしたときに僕がその話題を全然知らないということが起こります。
めんどくさいのでその話はもうしない、ということになれば、そのトピックについて報道としての価値を減じさせることができている、と言えるのではないでしょうか。

素晴らしい方法というわけでもないのでそんなに強くは言いませんが、しかし僕個人の方針としては、テレビがないことをアドバンテージとしてテレビ以外からの情報をより重視したいと思っています。

そんなわけで、テレビなし生活、いいと思いますよ。

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