「不作為犯 上」 byアフリカの精霊

  • 2014.05.31 Saturday
  • 00:03
韓国の船の事故に関して船長に殺人罪が適用されるかもしれないと報道されています。
人を積極的に殺したわけでもないのに殺人罪が適用されることに疑問をお持ちの方もいるかもしれません。
お国違えば法律も違うでしょうが、日本ならどうなるでしょうか?検討してみましょう。

まず殺人罪は刑法199条で「人を殺したものは…死刑…無期…懲役…」と規定されています。
一般的に「人を殺す」っていう行為は包丁で刺したり、銃で撃ったりと能動的な行動によりもたらされるものですが、この船長は「何もしなかったから乗客が死んだ」だけで積極的に殺したわけではないのに殺人罪に問われています。
法律を少し知っている方なら保護責任者遺棄致死罪なんていう罪名を思い浮かぶ人もいるでしょうが、今回は殺人罪の適用が問題となっています。
見捨てたことで殺人罪?
じゃ、池で溺れた子供を助けなかったら殺人?ひき逃げも見捨てることだから殺人?同然出てくる疑問だと思います。

まず日本でも不作為による殺人罪は適用されています。
つまり何にもしなかったことにより人が死んだ場合にもその人が保護責任者遺棄致死罪ではなく殺人罪に問われるケースがあるのです。
ただ、見捨てただけなのに積極的に殺した場合と同じ殺人罪が適用するには無理があるため見捨てた行為に殺人罪が適用されるには少し厳しい要件が判例上要求されています。

不作為による殺人罪が認められるのは簡単に書くと
1 作為義務のある人が
2 助けることができる立場にありそれをすることは難しくないのに(作為の容易性)
3 助けないばかりか敢えて放置した(作為との同価値性)
場合に殺人罪が適用されます。
あと、過失致死とを区別するため4番目の要素として故意があったことが必要になります。

1(作為義務)とは助ける義務がある人でないと殺人罪に問われないということです。
池に溺れた子供を助けなかった事例を想定してみましょう。
たまたま通りかかっただけの人が助けなかっただけで殺人罪に問われることになってはダメですよね。
殺人罪に問うにはやはり助ける義務のある人、この場合は親もしくは子供を池に落としてしまった人が敢えて助けなかった場合ということが必要です。
たまたま通りかかっただけの人や野次馬は助ける義務があるとまでは言えないでしょうから、これらの人に殺人罪が適用されることはまずないでしょう。

2(作為の容易性)についても、いくら助ける義務のある人だからといって泳げない人に助けることを望むのは酷というものでしょう。
つまり助ける義務のあるしかもそれを簡単にできるはずだった人が敢えてしなかった場合でないと殺人罪の適用は難しいです。

「不作為犯  下」 byアフリカの精霊

  • 2014.05.31 Saturday
  • 00:01
3については「作為との同価値性」という言葉を使いますが、通常の殺人と匹敵するくらいの危険な放置をしてしまったってことです。
ひき逃げで放置した結果被害者が死んだ場合、自動車運転過失致死罪であり殺人罪ではありません。
轢いてしまった人は助ける義務のある人ですし、救急車を呼ぶなど助けようとすることは簡単であり、上記の要件の1と2は満たすのです。
しかし言い方はまずいですが、そのまま放置しても誰かに助けられる可能性がある以上殺人罪ではないのです。
殺人罪は元々重大な罪ですから、放置することが即死亡へ繋がる危険性のある行為でないと放置したこと自体に殺人罪は適用されません。
裁判例でも、轢いた人を一旦自分の車に乗せその後車道に捨てた場合には助かる可能性があったので保護責任者遺棄致死罪、人気のない山奥に捨てた場合は助かる見込みがないとして殺人罪となっているようです。

赤ちゃんを何か月も自宅に放置した結果死亡させた件についても保護責任者…ではなく殺人罪が適用されている事例があるのは
1(作為義務) 赤ちゃんを育てる義務のある親が
2(作為の容易性)ご飯をあげるのは簡単にも関わらず
3(作為との同価値性)家に帰らずご飯を与えない、そして鍵をかけているため誰も入れず、助かる見込みはかなり少なかったと言える。
からなのです。

最後に4番目の要素の故意についてですが、これはいわゆる未必の故意で足ります。
死ぬかもしれないけど、別にそれでいいって思っていることです。
上記の例でいうと、こんな山奥に引いた人間を放置したら死んでしまう、私がご飯をあげないまま何か月も帰らなかったら赤ちゃんは死ぬかもしれないけどそれでいいやという気持ちです。

ということで冒頭に戻り、今回の件を日本の法律で考えてみましょう。
まず、1(作為義務)に関してはこういう場合には船長は避難を指示する義務は法律上ありそうで船長は助ける義務のある人だったと言えるでしょう。

確かにいえることはここまでで、2〜4が当てはまるかはみなさんで考えてみてください。
結局、裁判には価値判断が入ってくるのである程度の基準は決まっているとは言え、個人の価値判断で評価は変わってくると思います。
さてみなさんが裁判長なら2〜4をどう判断するでしょうか。

2(作為の容易性)は船長として助けを呼んだり必要な行為(救命ボートの用意など)をすることが簡単だったと言えるかですね。

問題は3(作為との同価値性)で、この船長の放置は殺人と同価値と言えるでしょうか?
放置=即死亡っていうくらい危険な行為だったかですね。
放置しても助かる見込みはあった=殺人罪不適用
放置したから助かる見込みはなくなった=適用
この判定はもし日本の裁判官でも判断がわかれるかもしれません。

4の未必の故意に関してはどうでしょう?
みなさんが裁判官なら、船長は船長である自分が逃げたら乗客は死ぬかもしれないけどそれでいいと思っていたと判断するでしょうか。

今回の件について日本の法律で考えるなら以上のようになります。
とりあえず、不作為(何もしないこと)が殺人罪になる場合があるということ、そして日本の刑法ではその要件が判例上定まっているということを今日は紹介させていただきました。

明るい悩み相談室PREMIER(132)〜春色〜 がりは

  • 2014.05.29 Thursday
  • 07:33
明るい悩み相談室PREMIER、本日の担当医がりはです。
こんばんは。
今日はどうされましたか?

「黄色とオレンジ色、どちらが春らしいですか?」

ほうほう、それはお困りですね。
何がと言って、すでに春というよりは夏に近付いていることですよね。
回答が遅くなり申し訳ございません。
私、色については少しうるさいんです。

どちらが春らしいですか?と問われた背景を考えましょう。
1.友達とささいなことから論争になった。
2.スプリングコートを買おうとお店に行ったら黄色とオレンジが甲乙つけがたかった。

1だった場合、仲良くしてください。
あなたがどっち派の主張をしているのかはわからないですが、それは争うところではないと思います。
わかってやってます?
ああ、あえてですね。
わかります。
私も仕事柄そういう役割をせねばならぬことがままあります。

2だった場合、これは難しい。
街には春だから春めいた色、という安直なみなさんがたくさんいます。
私は白黒灰色の無彩色でコーディネートするのが嫌いだし(そんなもんコーディネートと呼べるか!)、そんな格好の人が何万人と歩いている品川駅で嘔吐しそうになったことがあります。
春だから春めいた色を着るという風潮は無彩色から脱却しているという面で評価できますがモノトーンであるという面では不満です。
街にあふれる色は雑多な方が豊かな世界だと思うのです。
春だからこの色、というのはお花に任せて別の理由で色を選んでほしい、どちらでもいいから買ってください、私からのお願いです。


さて、黄色とオレンジの話です。
春らしさで言うならば黄色ということになるでしょうか。
私は土手沿いの桜並木を歩きながら、土手を埋め尽くす菜の花を見るのが好きで、春というと空の青、桜のピンク、菜の花の黄色が頭に浮かびます。
また、黄色はひまわりの色でもあり、空の青、木々の緑、ひまわりの黄色、夏ですね。
井上陽水の「少年時代」がかかってきそうです。
また、黄色は銀杏の色でも良く実った稲穂の色でもありますから、秋の色ということもできますね。
ここまで来たら冬に母さんが作ってくれたかぼちゃのシチューの色ということで冬の色ということも可能かもしれません。


オレンジ、というと冬のイメージです。
部屋の壁のクリーム色、炬燵の天板の茶色、みかんのオレンジ。
みかんを剥いても中はオレンジ、袋をやぶってもオレンジ、絞ってもオレンジ。
天板を叩き割り炬燵の中を覗いてもオレンジ。
子供の頃はよく頭から炬燵に入って遊んでいました。
炬燵の中で本を読んで怒られたものです。

しかし「ゆず」という人たち(ゆずは黄色ですが。)の「夏色」という曲では大きな五時半の夕焼けが象徴的に使われており、これはオレンジとみていいでしょうから、夏色=オレンジということもできます。
夕焼けは年中見れるんですけどね。
五時半の夕焼けも四季を通じてチャンスがありそうですが。
それでも夏色と言い切るところに勢いを感じます。

話が段々難しくなってきました。
黄色とオレンジを比較してどちらがより春らしいかと問われると黄色ですが、黄色が春を象徴しているかというと難しいところです。
ライバルにピンクがいますからね。
ゆずのような勢いであなたにとっての春色を、来年の春までに決めておかれたらいかがでしょうか。


※明るい悩み相談室PREMIERではあなたのお悩みを受け付けております。
ブログにコメント、投票時にコメント、ハッガリーニにメール、電話、伝書鳩、のろし、などの手段でどうぞ。
ちなみに投票時のコメントでのお悩みには必ず回答いたします。

多足類の話 その3 多足亜門の4綱(中)  Mr.X

  • 2014.05.27 Tuesday
  • 01:42
ムカデはコオロギなんかを捕食する、と前回書いたけど、それができるくらいムカデは機敏である。

『「絶対に後ろに下がらない(後退しない)」という俗信から』甲冑や旗指物のデザインに取り入れられたという( ウィキ )。
しかし、ムカデを飼育してみて、彼らほど後退のうまい動物もいない、と確信している。
すんごい普通な感想だけど、よくあんなに足があってこんがらがらんもんだなあ、と思う。
むしろ、体の節々(体節といいます)を一つの部隊に見立てて、
「部隊が連なってムカデのように機敏に連動して動くことが出来れば、敵を包囲して殲滅することができるのになー」
などと昔の兵法家で考えた人がいるのではないだろうか?


一方、ヤスデはあんまり動かない。
「ムカデは知ってるけど、ヤスデ? なにそれ?」とこれまでに思われた方もあるいはいるかもしれない。
ムカデっぽいけど足がもっと多くて、ムカデよりゆっくり動くムシ、という感じです。

ムカデは一つの体節に一対(計2本)だけど、ヤスデは二対(計4本)の足を持つ。

リヤカーを引くことを想像してほしい(小学校に荷車とかありませんでした?)。
一つの車体に一対の車輪、というのは案外、左右に動きやすい。
しかし、一つの車体に対して自動車のように二対の車輪をつけると、むしろ車輪が邪魔くさくなる。
同じように、ヤスデはムカデのように機敏に動けないのだろう、たぶん(そんな論文読んだこと無い..)

ただ、四輪駆動車が急な坂道も進めるように、ヤスデは土中を突き進むことができる。

アマビコヤスデ(Riukiaria sp.)というヤスデを落ち葉と土の中で飼ったことがあるが、
気がつくと、容器は糞まみれに。糞といってもにおいも無いし、完全に、泥。
彼らが土中や朽木の中を突き進み、食べて分解することで地上は落葉や倒木でいっぱいにならない、
と言っても過言ではないだろう。


ムカデとヤスデについては一旦おしまい。

「多足類はムカデやヤスデなどから成る」と専門書に書かれたりする。
「多足類 = ムカデ + ヤスデ + α 」というわけである。
αにまとめられてしまう、残念なエダヒゲムシ綱(Class Pauropoda)とコムカデ(Class Symphyla)については
また次回。

(参考文献)
全部自分の思ったまま書いたので、無し。

フットブレーキ たりき

  • 2014.05.26 Monday
  • 22:19
自分の車を持ってちょうど5年くらいになる。
そのうち約2年半は通勤に使っていたのだが、今では電車通勤となったために週末に乗るか乗らないかといった具合なのだが、さすがに車なしとなると不便すぎるので手放すつもりはない。
この5年間で3万kmも走っていなくて、一般的には1年で1万kmが目安だと聞くので随分と少ない方ということになる。

これまでもちょいちょい書いてきていると思うのだが、ぼくは昔から車好きだった。
それも、車の種類とかそういうことにはまったく興味はなくて、ただ車に乗るのが好きだったように記憶している。助手席は譲らない、みたいな。
まあ電車に乗るのも好きだったから、単なる乗り物好きだった言えなくもないのだが。
とはいえ、大学卒業間際に合宿で教習所に通うまでは自分が車を運転するということがまったく想像できていなかった。というより、車を持つまでそうだったと言えよう。
それが、今では自分が運転しないと気が済まないくらいになっている。
 
 
さて、ぼくの運転にはちょっと変なところがあって、それはブレーキを踏む足についてである。
よく、左足でブレーキを踏むのだ。
教習所に通ったときの時間のなさと、後は資金の問題でぼくはオートマ限定でしか免許を取っていない。すなわち、左足を使ってクラッチを踏むという操作を教習所では習わなかったわけだ。
そんなこんなで、今では、ブレーキを右足で踏むこともあれば左足で踏むこともあるという変な癖がついてしまった。

しかし、この間その癖があだとなる出来事に遭遇してしまった。
フットブレーキである。
フットブレーキとは、駐車するときなどに使用するサイドブレーキの代わりになるものである。
オートマ限定車ではクラッチの部分のスペースが開くわけで、そこの部分にサイドブレーキを置いたというのはなるほど合理的な考えであるなあと思う。
サイドブレーキがあった運転席と助手席の間のスペースが開くので、そこに物を置いたりすることができるなど本当に有用である。
しかし、左足でブレーキを踏む癖があるぼくにとって、サイドブレーキの代わりとなるフットブレーキがクラッチの部分にあるというのは非常に厄介なのである。
信号などで長く待つとき、これまでならサイドブレーキをかければいいわけなのだが、フットブレーキをかけるとなると、ややもすると左足で踏んだブレーキを右足に踏みかえるということをしなければならない。
先日、たまたまフットブレーキ付きの車を運転したときに非常に難儀したのだ。

これは、人類の進歩がこれまでの生活に弊害をもたらすことがある身近な例と言えよう。
あ、大げさすぎるか。

月と迷路 by Mr.ヤマブキ

  • 2014.05.25 Sunday
  • 23:30
 団地は現代の迷路だなんて言った作家もいたのですから、家に帰る道中、迷ってしまったって不思議ではありません。ぼくは時々迷うのです。アパートだらけの似たような風景が続いて、急に何が何だか分からなくなって、自分がどこにいるのか分からなくなってしまって、そして、今日もぼくは迷ったのです。
 こんな真夜中でも団地にはいくらか人がいて、その誰もが迷っています。だから誰に道を聞いても何も分からないのです。真っ白な迷路の壁に砂のような月明かりが照らし出されています。

「あなたも迷っているんですね」

 カーニバルで使うような仮面を被った男が宙に浮いていました。驚いてノミみたいに飛びあがってしまいました。男の左胸には服を飛び出して、鉄の心臓が脈打っていました。気にする風もなく、男は静かに尋ねるのです。

「あなたも、迷っているんですね」
「そうです」
「それは花のせいです」
「花のせいですか?」

 男はそれには答えませんでした。

「家とはなんでしょう」

 ぼくの家はこの広大な迷路の、均質に区切られた空間の一つです。

「あなたの家は、快適に一人で過ごすための空間ではないでしょうか」
「その通りです」
「では無理に帰ることもありません」

 ぼくは、家には必ず帰るものだと思っていましたから、家に帰らなくてもよいという考えに驚き、惹かれました。家に帰る必要がないとしたら。ああ、なんて自由なんでしょう!

「でもぼくはどこへ行けばよいのでしょう。今は家で休みたいのです」
「誰もが一人になれる所があります」
「どこですか」
「月です」

 よく見れば、団地をさまよういくらかの人々も月に向かって歩いているのでした。仮面の男は僕の手を取って言うのです。

「何も考えずに歩いてみなさい」

 ええいままよ、と踏み出した足は月の光を確かに踏みしめて一歩、また一歩と月へと向かうのです。嬉しさと、団地を離れる寂しいような怖さを感じました。そのとき、団地に植えられたツツジの花が香ったような気がしたのです。名残惜しさがそうさせたのでしょうか。ぼくはもう月へと行ってしまうのですから。

「誰もが月を目指しています。誰もが一人で、誰もが長く休めるのです」

 ぼくが知りたいのはそれではありませんでした。

「月に花はありますか」
「残念ながら、花はありません」
「そうですか」

 ぼくはもう迷ってはいません。夜空を渡って月へ向かうのです。それだけが迷わない唯一確実な道なのですから。

授業参観  Mr.イエロー

  • 2014.05.25 Sunday
  • 02:02
授業参観というと、保護者が教室の後ろにずらっと並んでいる様子を想像すると思います。
入りきらなくて、廊下にはみ出ていたり。
来られなかった保護者の子供はさびしそうにしていたり。

中学校の場合ですが、8年間勤めていてそういう光景は一度もありませんでした。
授業参観に来る保護者の数は、1クラスにつき多くても6、7人くらい。
1人ということも結構ありました。
1人しか来なかった場合、来た保護者の子供は授業が終わった後「はずかしかったー!」などと言うのです。

参観を行う日が平日であるとか、授業や学校に興味を持ってもらえていないとしたら、学校側にも問題があると思います。
が、それにしても、少ない。
そのあとの学級懇談会など、井戸端会議状態です。

先日、ネットのニュースサイトで「中学校教諭が授業参観の日に有給を取ってのど自慢に参加」という記事を見ました。
ニュースにするほどのこと?と驚きました。
その事件(?)の前座として、担任が、職場の入学式より自身の子供の入学式を優先させた件があったからかもしれません。
しかし、入学式と授業参観は行事の重みが違います。
入学式は式典です。
授業参観は、上記のとおり。
どこかの教授が、「保護者が来校する大事な日に有給などとんでもない」と、この件についてコメントしていましたが、実情を知っているのでしょうか。

行事がある日に有給を取るのはもちろん気軽にできることではありません。
この教諭はかなり前から校長に相談し、承諾を得ています。おそらく真面目な人なのではないでしょうか。
保護者の学校への関心の薄さのほうがよほど問題だと思うのですが、どうなんでしょう。

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ところで、私は3月で教員を退職しました。
その後、私の後釜で入った先生は、配置されて2週間で療休に入ってしまいました。
初任というプレッシャーもあったのか、その人は朝の5時から夜の11時まで職場にいたそうです。
おそらく背景にはいろいろあったと思いますが、こういう過酷な職場環境とか、教育現場についてはもっと知ってほしいことがたくさんあります。
ということで、また書きます。

天上天下唯我独尊  Mr.Violet

  • 2014.05.22 Thursday
  • 23:07
 大衆小説や一般的な文章ではあまりお目にかかることはないが、漫画やアニメで時々出てくるので大半の人はこの言葉を聞いたことがあるのではないかと思う。では、この言葉の意味を知っているだろうか?
かく言う私も本当の意味は知らない。ただ字面のままに天上天下で私が唯一尊いのだと読めるから、有名な漫画の主人公(ラオウとか)のセリフなのかなと思うくらいで深く考えたこともなかった。最近、この言葉が仏教用語だと気づき、そうだとすると自分だけが尊いというような解釈は当てはまらないような気がしたので調べてみる気になった。
ググってみると、「この世の中で自分が一番尊い」というのが間違いであり、正しくは「ひとりひとりの人間が一番尊い」としている解説が多いようだ。ちょっと、しっくりこない気がするのでさらに調べてみると、そもそもお釈迦様の教えではないという説もある。それ以前の過去七仏の一人がおっしゃられた言葉であるということだ。そんな中に「天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、この命のままに尊い。」という解釈があり、この解釈が一番、腑に落ちた。
 恐らく、「自分はそのような尊いものではない、自分はたいしたことの無い人間だ。」と言う人が多いと思う。だが、この考え方は非常に謙虚なように見えて、大変な危険性をはらんではいないだろうか。なぜなら、自分がたいしたことのない人間だと思う背景には、人には、上下があって、尊い人、尊くない人の区別があるということだからだ。自分の上に人がいると考える人は必ず、自分の下にも人がいるとの考えが根底にあるだろう。そこに、差別が生まれ、劣等感とともに、優越感を感じることとなり、負の感情や争い事が生まれる要因となる。
では、上記解釈通りだとすれば争いは生まれないのだろうか。恐らくは生まれないだろう。つまり、自分自身は唯一無二のものであって、非常に尊いのだということは、同じように唯一無二の存在である、他人も、他の生き物たちも、左右の別なく、上下の別なく、種の別なく、非常に尊いのだという結論へと導かれるからだ。これこそが「天上天下唯我独尊」という言葉の教えではないだろうか。
 この教えに従えば、何事においても互いを尊重しあい、争いごとも生まれないのだろうが、そうできないところにひとの業の深さがあるのかもしれない。

アナ雪の歌について  Mr.イエロー

  • 2014.05.21 Wednesday
  • 23:13
(内容についての記述があります)

「アナ雪」こと『アナと雪の女王』を見てきた。主人公が歌う「ありの〜ままの〜♪」があまりに印象深い作品だが、見た人は一様に「おもしろかった」というので、内容にも何か深みがあるのだろうと期待していた。しかし、ある点でひっかかり、内容に入れず。

 どこにひっかかったかというと、「ありのままの〜自分〜見せるのよ〜♪」とやった結果、たくさんの人に不幸が訪れたという展開のしかたである。あの歌はクライマックスではなく、けっこう序盤に登場し、エルサが国を離れ、一人雪の城を作って籠城してしまう場面であった。その結果、エルサの魔法が国全体を凍りつかせてしまった。「ありのまま」やったら、たいてい良い出来事が引き起こされるものじゃないの?という軽い混乱は、映画の最後まで頭を支配してしまった。

 なぜこのようなことが起きたのか。 日本語で「ありのまま」というのは、どちらかというと良い意味で使われることが多い。日本のように互いに気を使い合うことの多い文化では、「自分を作らず、素の自分でいる」という考え方にあこがれる人も多い。なので、主人公が「ありのままの自分を見つける」というのは、度々物語の主題にもなる。そのため、私は「ありの〜ままで〜」が序盤に早々と登場し、しかもその後不幸が訪れるという流れについていけなかったのである。

 一方、元の英語 ’Let it go’ は、どちらかというと「どうでもいいや」「どうにでもなれ」「ほっとけ」という意味。「ありのまま」と比べると、かなり投げやりなニュアンスなのである。これなら、国が凍り付いてもストーリーとして流れが自然。

 そうかと言って、「どうに〜でもなれ〜」と歌ったら、ここまでサントラは売れないだろう。日本人は「ありのまま」が好き。ということを踏まえた戦略的な訳なのか。それにしても、かなり意味が違うと思うんだけど・・・。私の混乱を返してほしい。

多足類の話 その2 多足亜門の4綱(上)  Mr.X

  • 2014.05.19 Monday
  • 23:27
(筆者注:今回の日記は、ムシ嫌いの人にとっては、多分、ひじょうに不快だと思います。。。)

前回の日記では節足動物(ムシと甲殻類)の説明をしたが、現在の分類体系では、「節足動物門 (Phylum Arthropoda)」となっている。
この"門"、初めて見る方は「なんじゃそら」と思われるかもしれないが、生物の分類で用いられる用語である。
住所が「県>市>町」となるように、生物の分類は「界>門>綱>目>科>属>種」となる。
多足類については、一応、「動物界 節足動物門 多足亜門 (Subphylum Myriapoda)」と表現される(石川, 2008)。
(この"亜"、「~に次ぐ」という意味。項羽が范増を「亜父」と呼んだのと同じ感じです)

少し古い本だと「節足動物門 多足綱」と書かれたりしている。
どうして変わったのか、ということは色々ややこしいので、また、いつか。


多足類の中では有名なゲジとオオムカデ。彼らは共に「ムカデ綱 (Class Chilopoda)」というグループに属する。

多足類の中では例外的に肉食性で、他のムシを捕食する。「捕まえて食べる」がポイントらしくて、死体は食べない。
生きたコオロギやゴキブリなんかをやらないと死んでしまうので、飼育するには少しめんどかったりもする。


「ヤスデ綱 (Class Diplopoda)」の中には、繁殖能力が強く、大発生する種がいくつかある。

電車が好きな人なら、大発生して電車を止める「キシャヤスデ」をご存知かもしれない。
この中でキシャヤスデ(Parafontaria laminata)は山の中で大発生し、山中の線路にも広がる。
これを電車が踏んでしまい、その体液で車輪が滑ることがあるのだという。なんとおぞましい光景か..。

沖縄や鹿児島で猛威をふるっているのが、ヤンバルトサカヤスデ(Chamberlinius hualienensis)。
以前、沖縄の山で少し土を掘り返したら、何百匹ものヤンバルトサカヤスデが、うじゃうじゃうじゃうじゃ..。
ヤスデに慣れているはずなのだが、さすがにギョッとしたことを覚えている..。
最近は観葉植物の土と一緒に運ばれるらしく、静岡県で大発生して問題になっているらしい。やれやれです。

書いてて少し気持ち悪くなってしまった。次回はそうならないよう努めます...。

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