「桜」 前編 by Mr.ヤマブキ
- 2013.03.31 Sunday
- 23:59
齋藤大河と九条洋子はこじんまりとした和食バーの隅で向かい合っていた。淡い間接照明の中に洋子の白い肌が浮かび上がる。洋子の口へとフキノトウのおひたしが運ばれる。それを大河の切れ長の目が見つめる。何も言わない。ただ、その目に宿した決意の硬質の色彩が残り少ないワイングラスに映し出されていた。
「寂しいと思いませんか?」
スーツの若い男が目を細める。温く甘い風が沈黙を埋める。
「一年のほとんどは枯れ枝なんですよ。その間は誰にも見向きされない。あのたった数日、本当に美しいと言えるあの数日のために、何本の桜が植えられているか分からない」
話しかけられた作業衣の老人は両岸に桜の植えられた川の流れをどこともなしに見つめ、沈黙を貫いている。
「ラクさん、やっぱり無理ですよ」
ラクさん、と呼ばれた男がビクッと体を震わせる。
「交流のある市からの贈り物として、ソメイヨシノが植えられてるんです。簡単に植え変えたりできるものじゃないんですよ。それに、これは受け取れません」
そう言ってスーツの男は封筒を老人に差し出した。彼は手を伸ばそうともしなかった。
「困ります。お願いしますよ」
雨上がりの濁流に白い斑点が鮮やかに流れて行く。
「好きって、何なのかしら」
これが洋子の口癖だった。大河に会うと、よくこの話になった。そしてそのまま、少女みたいなこと言って、と自嘲気味にはにかんで宙へと視線を投げる。大河はそんな彼女の扱いを心得ていて、つまり、聞いてやればいいのだ。同じ会話を繰り返して。
「人間として好きな人って、たくさんいるでしょう?」
「うん」
「でも異性で好きな人は一人しかいないの?」
「そうは言い切れない」
「だから社会は私に、男の人にランキングをつけて、一番上の人を選ぶことを要求してくるわけでしょ。でも、そんなことできるのかなって思う」
「できるのかなってどういうこと?」
「お寿司かステーキかってこと」
「僕が寿司で、彼がステーキってわけか」
だがもう洋子は、この話はしない。この関係になって、普通取る態度は二つある。一つは野暮だと思ってその話は避けるタイプ、もう一つはそれを口にすることで裏切りの共犯関係を築こうとするタイプ。洋子は前者だった。「彼」を傷つける欲望に欠けていたからだろう。
「考えるほどに分からなくなるの」
そう言って赤ワインを一口飲んで、当たり障りのない洋子の友人の話が始まった。
「寂しいと思いませんか?」
スーツの若い男が目を細める。温く甘い風が沈黙を埋める。
「一年のほとんどは枯れ枝なんですよ。その間は誰にも見向きされない。あのたった数日、本当に美しいと言えるあの数日のために、何本の桜が植えられているか分からない」
話しかけられた作業衣の老人は両岸に桜の植えられた川の流れをどこともなしに見つめ、沈黙を貫いている。
「ラクさん、やっぱり無理ですよ」
ラクさん、と呼ばれた男がビクッと体を震わせる。
「交流のある市からの贈り物として、ソメイヨシノが植えられてるんです。簡単に植え変えたりできるものじゃないんですよ。それに、これは受け取れません」
そう言ってスーツの男は封筒を老人に差し出した。彼は手を伸ばそうともしなかった。
「困ります。お願いしますよ」
雨上がりの濁流に白い斑点が鮮やかに流れて行く。
「好きって、何なのかしら」
これが洋子の口癖だった。大河に会うと、よくこの話になった。そしてそのまま、少女みたいなこと言って、と自嘲気味にはにかんで宙へと視線を投げる。大河はそんな彼女の扱いを心得ていて、つまり、聞いてやればいいのだ。同じ会話を繰り返して。
「人間として好きな人って、たくさんいるでしょう?」
「うん」
「でも異性で好きな人は一人しかいないの?」
「そうは言い切れない」
「だから社会は私に、男の人にランキングをつけて、一番上の人を選ぶことを要求してくるわけでしょ。でも、そんなことできるのかなって思う」
「できるのかなってどういうこと?」
「お寿司かステーキかってこと」
「僕が寿司で、彼がステーキってわけか」
だがもう洋子は、この話はしない。この関係になって、普通取る態度は二つある。一つは野暮だと思ってその話は避けるタイプ、もう一つはそれを口にすることで裏切りの共犯関係を築こうとするタイプ。洋子は前者だった。「彼」を傷つける欲望に欠けていたからだろう。
「考えるほどに分からなくなるの」
そう言って赤ワインを一口飲んで、当たり障りのない洋子の友人の話が始まった。