音楽の聴き方と、理想の世界へ ハッタリスト
- 2011.06.30 Thursday
- 23:54
2011.05.16 音楽の聴き方(reprise)1〜4 Mr.ホワイト
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2011.03.21 音楽の聴き方(上・中・下) Mr.ホワイト
はじめに
Mr.ホワイトの言う通り、僕の主張は「反感を買うような言い方じゃあ、みんなそっぽを向くよ」でした。
一方、Mr.ホワイトの主張は「そっぽを向くならそれまで」でした。
この主張そのものに反論はありません。
今回の主張は、
「音楽のレベルの向上のためにとるべき方法はいろいろあるが、Mr.ホワイトのそれは少なくとも書評という役割においては適当なものであったかどうかに疑問がある」
です。
目次
1.音楽にはレベルがある
2.レベルの分布
3.理想のレベル分布
3補足.「衰退」という理想
4.底上げと二極化
5.『音楽の聴き方』とその書評
6.再び結論
7.おまけ
1.音楽にはレベルがある
Mr.ホワイトの言う通り、音楽にはレベルがあると僕も思います。
これを当たり前だと思う人に対してこれを強く主張しても意味はありませんが、「音楽にレベルなどない」と思う人に対してこれを主張するのは、音楽のレベル向上のための第一歩であると思います。
その意味において、Mr.ホワイトの方法に異論はありません。
(ただし、
"2011.06.25 レベルの低い音楽とは何か ハッタリスト"
にあるような話も合わせて考えるべきだとは思います)
2.レベルの分布
音楽を聴く人、あるいは音楽を作る人、演奏する人であってもかまいませんが、どういうレベルの人が多くてどういうレベルの人が少ないのでしょうか。
このことを指して、「レベルの分布」と呼ぶことにします。
特に根拠なく書きますが、レベルの高い人が少なくてレベルの低い人が多いピラミッド型分布を僕は想像しています。
(そんな一元的な基準で考える必要はないかもしれませんが、考えやすいので今回はこれで行きます。)
分布を音楽以外の何か、例えば絵画の鑑賞と比べてみましょう。
絵画はどこにでもあるわけではないので、わざわざ探して見に行かなければなりません。無料であることも少ないでしょう。
一方、音楽はどこにでも溢れています。
有料であることもありますが、無料で聞くことができることも非常に多いです。
特に意識しなくても聞くことができて、何かをしながら聞くことも容易です。
このため、音楽のレベル分布は他と比べて、低い部分により多く偏った分布となっているのではないかという気がします。
音楽の「利用しやすさ」は、音楽の長所でも短所でもありえると思います。
3.理想のレベル分布
産業としての音楽は、レベル分布に則したものであると考えるのが自然であると思います。
つまり、多数派であるレベルの低い人々へ向けた音楽が多数派であり、少数派であるレベルの高い人々へ向けた音楽は少数派である、という状態が自然であると思います。
(自然な状態が良いという意味ではありません。そこが出発点だということです。)
多数派は特に不満を持っていませんが、少数派は自らが少数派であることのデメリットに不満があってもおかしくありません。
「音楽のレベルが(理想と比べて)低すぎる」あるいは「自分好みの音楽が(理想と比べて)少なすぎる」という不満です。
この不満が解消されるシナリオは、2種類(またはそれらの混合)がありえると思います。
1つは絶対数の増加、つまり少数派が相対的に少数派である状態を保ちながら、絶対的には数が増えるという変化です。
もう1つは多数派への転化、つまり少数派と多数派の逆転です。ただし、絶対数の増減は問題にしません。
これら2つが完全に達成された理想の分布は、レベルの高い人だけが存在し、レベルの低い人は存在しない、という極端な分布です。
3補足.「衰退」という理想
シューティングゲームは衰退したジャンルである、と
"2011.03.25 おごれるゲーマーは久しからず ハッタリスト"
で書きました。
シューティングゲームは、かつて日本国内だけで1タイトルが100万本を売り上げたほどの強力なジャンルでした。今では、売れてもせいぜい数万本です。
しかし、ある人はこう言います。
「シューティングゲームは衰退することによって初めて、洗練され進化することができた」と。
100万人を対象にしているときにはできないことが、ごく少数の「マニア」向けならばできる、ということがあります。
ある種のシューティングゲームは、そういった方向へ進化しました。
この状態は、「理想の分布」に近いものです。
そのような意味で、「衰退」を肯定的に評価する人もいます。
4.底上げと二極化
「3」で理想のレベル分布へ近づけるための2つのシナリオを提示しました。
音楽のレベルの向上を望む人は、これらのシナリオのいずれか、あるいは両方を実現するための方法を考えることになると思います。
1つ目、絶対数の増加を望むなら、ピラミッド型分布を維持したままでピラミッド全体を大きくする、「底上げ」が手段となります。
レベルが低い人も増える代わりに、それらの人々がよりレベルの高い状態に移行することに期待して、全体に対して働きかける方法です。
2つ目、相対数の逆転を望むなら、ピラミッド型分布を変化させて逆ピラミッド型へ近づけることになり、その過程として「二極化」が手段となります。
現状で多数派であるレベルが低い人の増加を拒み、レベルが高い人の増加のみを求める方法です。
もちろん、両者に善悪はありません。
長い目で見れば、同時に実現することも可能です。
しかし少なくとも一時的には、互いに相反する方法になることもありえると思います。
5.『音楽の聴き方』とその書評
僕も、岡田暁生著『音楽の聴き方』を読みましたが、Mr.ホワイトが紹介した通り、より良い音楽の聴き方を求めることを主旨とする内容です。
「音楽のレベル」という表現こそしていませんが、それに近い意味の主張は多くあります。
しかし、「そっぽを向くならそれまで」とまでの直接的な表現はありません。
僕の解釈ですが、『音楽の聴き方』は「二極化」を求めることを明確に意図していると言うことはできない内容であると思います。
一方、Mr.ホワイトの書評は、Mr.ホワイトの意図はどうあれ「二極化」を求めるものであると僕に感じさせるものでした。
つまり、あの書評は『音楽の聴き方』の意図に反して「二極化」を求める内容になっている可能性がある、と僕は思ったのです。
仮にそうであるなら、人の本の前で他人が門前払いをしている構図であるように思います。望ましくありません。
Mr.ホワイトがああいう書き方をしたからこそ、僕は意見を書きたいと考えましたし、そのためには『音楽の聴き方』を読まなければならないと思い、結果『音楽の聴き方』を購入しました。この点では、書評は完全に成功していると言えるでしょう。
しかしこのことは、ああいう書評でなければ僕に『音楽の聴き方』を読ませることはできなかった、ということを意味しません。
違う書き方であれば、僕に本を読ませて、かつ「そっぽを向く」人にも本を読ませることができた可能性がある、と僕は考えます。
その人は『音楽の聴き方』を読んだ結果、「そっぽを向く」ことを選ぶかもしれません。しかし、その人を書評の段階で選り分けることになるなら、それは書評の役割ではない、と僕は考えました。
6.再び結論
「音楽のレベルの向上のためにとるべき方法はいろいろあるが、Mr.ホワイトのそれは少なくとも書評という役割においては適当なものであったかどうかに疑問がある」
それでもあの書評はあの形が望ましい、という主張があってはならないとは思いません。
ただしその方法は、音楽のレベルの向上のために他の誰か(その本の著者以外の人であっても)が選んだ方法を阻害するものである可能性に留意するべきだ、と僕は思います。
もっと単純に言うなら、「そっぽ向かないでみんな音楽聴こうよ」という方針で努力している人もいるはずで、その人とお互いに邪魔をしあうことになってはいないか、ということです。
今回はこういう書き方をしましたが、別に言葉尻を捕えて非難したいのではないです。
話はこれで終わりですが、本当に言いたいことは実は「おまけ」に書いてあるかもしれません。
おまけ.音楽以外のレベル分布
音楽では特にピラミッド型分布が偏った形になっている、のようなことを書きましたが、多かれ少なかれ、人々の知識や興味はそういう形になっているのではないかと思います。
つまり、大いに興味のある人は少なく、少しだけ興味のある人が多い。
世の中のおおよそを動かしているのが、多数派である「少ししか興味のない人々」であるとしたら、彼らが最も良い方法を選ぶのは難しいのではないか。
(ただ、選択は最も良い選択である必要はなくて、悪い選択でさえなければ十分なのかもしれませんが…)
そういうことを考えています。