神も仏も・・・(四―一)

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:51

みーんな何もかも流されてしまった。
家も自転車もラジオもテレビも。
これで失ったのは三軒目か四軒目になるかな。
家、つまりマイハウスのこと。

今回は基礎を打ってしっかり作った家なのに、その基礎だけ遺してすべて水の泡と消えてしまった。

だけど、こんなのどうってことないよ。
命が助かったんだから。
漏れ聞くところによると、老いも若きも関係なくものすごい数の人々がこの震災・津波によって亡くなられていて、本当のところ言葉が出てこないくらい衝撃を受けている。
ただただ失語症、失読症、失書症に陥った状態である。

悲しい、哀しい、泣きたい、怒りなどという感情は、まだ心のどこかに余裕があるから生まれるものだと思う。
本当に悲しみの針が振り切れるところまで突き落とされたら、人って言葉を発することもできないだろうし、涙も出てこないのかも知れない。
意味もなく笑うしかないのか、どこかをさ迷っているか、ただただ一点を見つめているかのどれかだろう。

だけど俺にはそうした感情・無感情に陥っている心の隙間はない。
同じく生き残った伴侶のミミの生活や今後の問題がある。
今、俺の胸でずぶ濡れの躰を細かくふるわせているのは、襲いかかってきた津波の恐怖を拭い去ることが出来ないせいだろうか。

問題は山積だが喫緊の課題は隣近所に住んでいた人達のことだ。
時々パックに入ったシューマイやパン、それに釣ってきた魚などを差し入れてくれた人々である。
名前は知らない。
いや知ろうともしなかった。
誰が呼ぶのか隣家は「メ―」さんであり、二軒隣は「アー」さんであった。
その人達は一体どうなったのだろう。

とりあえず避難所になっている中学校の体育館に行き、おにぎり、水、牛乳をいただき、家のあった河口附近に戻ってきた。
周り一帯残骸の山である。
かろうじて姿形を残しているのは廃墟と化したビルの三階や四階の窓に天地逆さまに突き刺さっている車だけである。

体育館では避難民として登録することを勧められたが、お礼だけ述べて後にした。
俺がやらなければならないことは何かにメモしなければいけないくらい多くて覚えきれないほどだ。
とりあえず急を要すること、生命に関わることからとりかからねばならない。

神も仏も・・・(四―二)

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:50

ミミは段ボールはこの穴から時々愛くるしい瞳をのぞかせる。
俺は河口附近の残骸の間をくまなく歩いて隣人たちの行方を探し求めた。

その度に救助や捜索に当たっている自衛隊員や警察官、消防隊員達とすれ違う。
そして決まったように「ここは危険だから立ち入り禁止です」と何度も追い返されてしまう。

名前さえ知らない隣人たちを探すのは容易なことではない。
同様に住民票も持たない俺がこの被災地に住んでいたということを証明するのは難しい。
そんな人間が被災地をさ迷っているとしたら誰だって怪しいと感じるに違いない。
火事場泥棒と間違えられても仕方がない。

途中、瓦礫の山の中を身内を捜す人だろうか。
三人グループの人達が東側の海岸に三百余りの遺体が流れ着いていると教えてくれた。

俺は市内に四カ所あるという中学校の遺体安置所を訪ねることにした。

入口を入ったすぐの所に掲示板があり、それぞれの遺体の特徴について書き出されてある。
それをチェックして該当しそうな遺体の番号を用紙に書いて警官に渡す。
その後、対面できるのである。

『性別・男、年齢六十歳から七十歳ぐらい。黒いデニムのズボン。白髪、右頬にアズキ大のほくろ』簡単に遺体の特徴が書かれていて所持品があればそれも掲示してある。
個人を特定できるものがあれば確認は容易だが、氏名すら定かでない人物をどう探せばいいのだろう。

俺は「メ―さん」を仮に「目黒新治郎」と名付け、義弟にした。
「アーさん」は「足立建二」とよび、従兄にした。

確かメ―さんの左手くすり指には指輪があった。
いや指輪を模した刺青だった。

「いや若かりし頃はよ、やんちゃばかりしていて、紋紋はこの指だけじゃないよ。俺の背中にびっしりさ」

カップ酒を嘗めながらメ―さんが俺に話したことがあった。
さすがに警官には背中一面に刺青がある遺体とは言えなかった。

「アーさん」は坊主頭。
顔中に広がるしわが特徴で、身長が150センチぐらいの小柄な男だった。

薄暗い中に遺体袋や棺に納められた遺体四、五十体が並んでいた。
奥の方から絞り出すような悲鳴とも嗚咽ともつかない声がしている。
遺体を確認した家族達の絶望の叫びだ。

神も仏も・・・(四―三)

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:49

俺は「メ―さん」「アーさん」とおぼしき遺体を数体見たが、全く判断がつかなかった。
死者はそれぞれ津波などで受けた泥などがきれいに拭われていて、白髪のそれなどは人間の尊厳すら感じさせた。
名前すら知る由もなく、人として生まれ人として死んでいく、その最後の姿を何の縁か俺が立ち会うことになった。
ただただ安らかにお眠り下さいと心の中で何度も何度も祈り続けた。

しかし思わずそこを全力で逃げ出したいと思ったのは、警官が年齢不詳の坊主頭の小柄な遺体を示した時だった。
何とそれはまだあどけなさが残る小学生か中学生の遺体ではないか。

俺はよろめくように床に手をついてしまった。
係員が思わず捜し求めていた遺体と対面したと判断したぐらいだ。

「もう結構です。出ます!!出ます!!」

少しぐらいのことでは驚かない。
それなりの覚悟もある。
しかしこの少年の遺体には耐えられなかった。

交通事故や修羅場における切った張ったの遺体、それこそ血まみれのそれであってもこの少年の亡骸に比べれば救いはある。

もしこの世に神や仏が存在するとしたら、何が理由でこんなに幼気(いたいけ)な少年の命を召し上げられたのか。

生きていれば彼はおそらく辛いこと、哀しいこと、寂しいことをその後の人生でいっぱい経験したに違いない。
しかしそれをはるかに凌駕する喜びや感動、楽しさ、面白さが彼を包んだに違いない。

俺は最大の親不孝は、親より先に子供が死去することだと思っている。
と同時に、若さとは何かと聞かれたら「可能性」だと答える。

今回の大震災はありとあらゆる可能性を収奪してしまった。
この世には神も仏もあるものか。
俺みたいな人間を生かして、可能性に満ち満ちた少年の命を奪うなんて…。
もし神や仏を信じる人がいたらこれをどう説明するのか。

俺みたいなホームレスが生意気に神の存在を問うなんて、ほんとおかしいと思うけど、そういう気持ちが日本中に充満していると実感する。
だけどそれを問い直したところで答えは返ってこないし、死んだ人も生き返ってはこない。
生き残った我々がこれからの人生をどう生きるか―といっても生き方なんてものはそんなに簡単に変えられない。

神も仏も・・・(四―四)

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:48

廻りは瓦礫の山。
食料、水、電気すべて不足。
こんな状況は今に始まった事ではない。
俺のようなホームレスにすれば毎日がこの状況、これが日常。
いやむしろ被災後の現在の方が生きやすい。
なぜなら生きていくのに必要な物は必ず手に入るから。

俺は瓦礫に埋もれている自転車を集めて洗う作業を始めた。
メ―さんやアーさんがいつ戻ってきてもすぐに活動できるように。
そして住まいを三軒続きの長屋仕立てで作り始めた。
当面は野宿だが、寒さと雨さえしのげればどこでも眠ることが出来る。

誰もが言葉を失うほどこの被災は大変な状況を作り出したけれど、俺たちホームレスにすればどうってことないさ。
家が流されたといっても、今までガキに放火されたり、酔っ払いに叩き壊されたり、強制執行で立退きを余儀なくされたりで同じような悲惨な目に遭っている。
でも家が無くなれば又作ればいいさ。
俺の家はトカゲの尾っぽみたいなものだから。
倒壊しても、流されても、放火で焼けてしまってもまたすぐに出来上がる。

人体はトカゲの尾っぽのように再生できないかもしれないが、人間の生活や暮らしはいくらでも蘇生させることはできる。
ただし生きていればの話しだよ。
ホント、ご家族や身内を亡くされたものすごい数の人々に、俺みたいな人間が助かって申し訳ないっていうか、この世の不条理みたいなものを痛感させられる。
こうなりゃとことん生きて生きて生き抜いてやろうと思う。

メ―さんもアーさんもおそらくどこかの避難所にちゃっかり居据わったりして、再生のチャンスを窺っているのかも知れない。

しかし一万人を遥かに超える行方不明者の数。
これどうにかならないものかね。
この中に仲間の二人も入っているのかもしれない。

あるとき、ひょこっと新築の三軒長屋を見つけて「いいね、いいね」とヤドカリが新しい貝殻を発見したかのようにその身体をもぐらせるような気もする。

俺はその時が来るまで、少しずつ家具や調度を揃えていくつもりだ。

そして彼らが乗り廻すであろう自転車もピッカピッカに磨いておこう。
夕闇の向こうからミミの鳴き声が喧しい。
あっ彼女の食料も調達しなければいけない。.

桜の思い出

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:47

桜の散ってしまったが、桜というのはいいものである。
俺が21、22、27、28の年に住んでいた場所の近くには1km足らずの桜並木があり、毎夜毎夜提灯が下げられビニールシートを敷いた花見の宴会が繰り広げられていた。

俺がその場所に住むことにしたのは経済的理由(2回ともかなり安い物件を見つけられた。)もさることながら、高校の時の思い出が大きい。

中学の同級生がバイクの中免を取って自慢しにきて、そいつの背中に掴まって夜のツーリングに行った。
2気筒の乗り味の良いバイクで、一回一緒に派手にこけたことがあったが(俺が「後輪がぐにぐに滑ってるぞ。」と再三言ったのに走り続け、結局パンクしててカーブで滑ってこけた。山倉ダム。)、他は我々は割によいコンビであった。
俺は後ろに乗るのが好きだったし、タピというあだ名だったそいつがいつもカーブに遅れ気味に入るのに合わせて体を倒していたので、彼も運転しやすかったのだろうと思う。
俺はバイクを運転することに興味がなかったのでそれもよかったのかもしれない。

そのタピが高校の時に話があると言って、四月の夜にインターフォンで呼びにきた。
当時は家の電話しかなかった。
インターフォンは10時頃鳴ったので母は嫌な顔をしたはずだが、なんとかして外へ出たらヘルメットを放ってきて、俺はシートにまたがった。
着くまでしゃべらなかった。
バイクだと10分足らずの場所なのだが、かなりの坂を上がっていくし、中学までの俺たちにとってはよその縄張りだった場所だったせいで、初めて行くところだった。
坂を上りきったところで、エンジン音がすっと抜けて、桜がわーっと見えた。
その角をついっと曲がって桜並木に入り、無数の野球ボールが降ってきているような中を進み、並木から奥に入った公園で止まった。

そこでなにを話したかは覚えていない。
高校の時に男二人で話すことなんてろくでもないに決まっている。
その公園には並木の桜なんか相手にならない長老みたいな桜がぐわああと枝を伸ばしており、俺は幹にぺたぺたとさわりながら話を聞いていた。

タピとは夜の357をお台場に向かってトラックの間を縫いながら走り、ドアを開けられて死にそうになったり、茜浜に夕焼けを見に行ったりなんだかんだ楽しかったのだが、25を越えたあたりからふっつり合わなくなった。
桜の長老もしばらくみていない。

テレビゲーム「ピクミン」を語る (1/3)

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:47

「今までで一番心に残っているゲームについて書いて下さい」
とお願いされたので、「ピクミン」(2001年、任天堂)について書きます。
比較的新しいゲームを選んだつもりですけど、それでももう10年前になりますね。
あまり人にわからない話を書いてもどうかと思いますが、でもお願いされたら仕方ないですよね、いやあ参ったなあ。

ピクミンと言えば、「愛の歌」というCMソングが少しだけ有名だったので、聞いたら思い出す人もいるのではないでしょうか。
http://www.youtube.com/watch?v=Pm199r3Kxdc
歌詞の一部を書いてみると、
 引っこ抜かれて、あなただけについて行く
 今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる
こんな感じで、ゲームの内容もこんな感じです。むごいです。
主人公オリマーは不時着した星で不思議生物ピクミンの力を借り、邪魔する敵を倒してピクミンの数を増やし、バラバラになった宇宙船のパーツを集めます。
アリの集団が大きな物を運ぶようなイメージです。
今日はこのゲームを「システム」と「飾り」という視点で見てみたいと思います。

ここで僕が「システム」と呼ぶのは、ゲームから絵や音や演出を除いたプログラムの骨格部分のことです。システムに「飾り」として演出を乗せたものが完成品のゲームです。
システムにとってはキャラクターが何者であるかは関係ありません。丸や三角で描かれていても同じです。
「ピクミン」のシステムは、○がたくさんあるところに×が近づいてきたら○の数が減った、とか、たくさんの○が△の周りに集まって一緒に移動してある場所へ来たら△が消えた、といったものになります。
多くのゲームの場合、遊んで面白いのはシステムであって飾りではありません。
例えば囲碁のように、飾り抜きでむき出しのシステムのみを遊んでも十分に面白くできているゲームもあります。

テレビゲーム「ピクミン」を語る (2/3)

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:46

それでは、飾りの役割は何なのでしょうか。
上述の例では、○が減ったというのはピクミンが敵に食べられたという失敗であり、△が消えたというのは宇宙船のパーツを回収したという成功です。
しかしシステムだけではそれが成功か失敗か、プレイヤーにとってはわかりにくいのです。
ルールを十分に理解すれば問題ないのですが、直感的な演出によってルールや目的の理解を助けることで、プレイヤーがシステムを遊びやすくすることができます。
それが飾りの役割です。

「ピクミン」のシステムが目指しているのは、集団を操る面白さです。
それは、少数では倒せなかった敵を大勢でやっつけたり、集団を複数に分けて作業を効率的に行ったりといった、自分の戦略が結果を直接左右することの面白さです。
この面白さをとことん遊びつくすために、全ての飾りがデザインされています。

「ピクミン」のシステムにとって、集団の数が増えることは成功です。増えて嬉しいような飾りをする必要があります。だからピクミンはかわいいのです。
○が増えても、ただ○が増えたとしか認識されません。その成功を最大限喜ばせてプレイヤーの目的を感情的な部分で強化するために、ピクミンは愛着の湧く姿かたちでなければならないのです。
また、あまりにかわいすぎると戦わせるのがかわいそうになります。よってピクミンは、愛嬌はあるけれど見方によっては不気味な不思議生物となりました。

逆に、集団の数が減るのは失敗です。減って悲しいような演出をする必要があります。
ピクミンを減らそうとする敵がいて、その敵はピクミンを食べます。悲しいです。
せっかく増やしたピクミンになんてことをするんだと怒らせることにより、敵を倒す動機をシステムが求める以上に強く与えられるのです。
また、プレイヤーのミスによってピクミンを死なせてはならないと気を引き締めさせる理由にもなります。

テレビゲーム「ピクミン」を語る (3/3)

  • 2011.04.30 Saturday
  • 14:45

さて、そんなことをしているとプレイヤーは少し悩まされることになります。
主人公の命がかかっているとはいえ、自分の都合でピクミンを死なせてよいのだろうか、と。
悪者が敵キャラクターである間はよいのですが、悪いのは自分じゃないかという気がしてくるのです。
そんなとき、敵に主人公がやられてしまうゲームオーバーの演出が強烈な解答になります。
ピクミン達は敵に倒された主人公を巣に持ち帰り、ピクミンを増やすための栄養として容赦なく消費するのです。

つまり、ピクミンはけなげに主人公に従うだけの弱者ではなく、仲間を増やすための頭脳として主人公を利用していたに過ぎないのです。
ここに至って主人公とピクミンの利害は完全に一致し、それぞれがそれぞれの目的のために最善を尽くせばよいという一つの納得ができます。
同時にプレイヤー自身も、これはゲームだからという割り切りではなく、ピクミンや敵となる生物に遠慮することなくゲームの目的に専念すればよいという確信が得られます。
これこそが、ピクミンの世界が飾りとして果たす最大の機能です。

「ピクミン」は集団を操るゲームです。
全ての飾りは、やたらと画面をきれいにするためではなく、徹頭徹尾システムの面白さを追求するために用意された機能です。
にもかかわらず、「ピクミン」は生命の大切さを伝えるためのゲームだと言われても納得してしまいそうなほどに、その飾りは一つの独立した世界として存在しているように見えます。
システムがピクミンの世界を要求し、ピクミンの世界がそれに応えた。そのようにしか見えないほどのバランスで、ゲームとして調和していると僕は感じます。
また、記号ではなく命あるものとしてその世界を表現することができるだけのゲームキューブという強力なハードがあって初めて、「ピクミン」は作られることができました。
この調和と必然こそが美しい。

以上の御託も「ピクミン」がゲームとして面白いからこそ、語りたくなった話です。
「ピクミン」はとっても面白いゲームです。いちプレイヤーにとっては、それで十分なのです。
それに飽き足らず語りたくなったその時は、ゲーマーの世界へようこそ。

THE 反則

  • 2011.04.29 Friday
  • 14:44

「こんにちは、将棋名人戦の第1局、白桃名人と挑戦者・黄桃八段の対局を、生放送でお送りいたします。それでは解説のピンクさん、よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

「夕食休憩が終わって既に対局は終盤戦にさしかかっているところですが、この局面をどのようにご覧になりますか」

「はい、現在のところはですね、後手の白桃名人がはっきり優勢ですがね、近年の将棋はですね、実は終盤に革命的な変化が見られるようになって、ここからが難しいんですね」

「なるほど、まだまだ油断はできないと。さてそれでは挑戦者の黄桃八段の次の一手に注目ですが、ああーーーーーっ!?」

「まずは逆水平チョップで様子見といったところですね」

「ええっ!?名人の胸にクリーンヒットしましたけど、今のは反則じゃないんですか!?」

「いえ、逆水平が禁じ手だとは、将棋のルールには一言も書いていませんね」

「ああっ!名人もチョップで応戦しています!!」

「劣勢に立たされても決して勝負をあきらめていないからこそ、こういった戦術が生まれたんですね」

「挑戦者の腕ひしぎ逆十字固めが極まったあ!名人ピンチ!!」

記録係:投了?投了?

名人:ノー!!

「それよりも、盤上が難しくなってますね」

「名人の腕と持ち時間、どちらもこれ以上は持たない!しかし無情にも秒読みは止まらない!!」

40秒、…、50秒、ワン!ツー!スリー!フォー!ファイブ!シックス!

「テンカウントで切れ負けですね、当然、将棋のルールですから」

「ここで白桃名人3二玉!からくもピンチを逃れた!」

「おや、黄桃八段が脇息を持ち上げましたね」

「凶器攻撃です!これは明らかに反則だ!!」

「いやいや、プロレスなら反則かもしれないですけどね、将棋にはそんな反則はありませんね」

「名人流血!それでも指し手は止めない、止まらない!!」

「さて、盤面は終局が近いですが、どうですかね」

「挑戦者、持ち駒を握って…投げつける!名人がひるんだ隙に後ろへ回って、引っこ抜いた!!」

「ああ、あれはいけない」

「え?ここで挑戦者投了?なんでですか?」

「持ち駒を手で握るのは反則です、相手から駒が見えなくなりますからね。将棋のルールです」

「なるほど、ルールを正しく守ってこその将棋ですね!ありがとうございました!!」

放射線と知識のギャップについて(前編)

  • 2011.04.26 Tuesday
  • 14:43

関連のある文章
■2011/04/02 (土) 「直ちに健康に影響はない」 ハッタリスト
■2011/04/16 (土) 放射性物質の経口摂取について ハッタリスト

僕は「放射性物質の経口摂取について」の内容を地震の前から知っていたわけではありません。
わからないことがあったので、Googleで30分くらいかけて調べたのです。それである程度納得しました。
しかし同じことを他の誰かがしようとする場合、何時間かけてもやっぱりわからなかった、ということはありえると思います。
調べようとしている対象について知らないという条件が同じであったとしても、僕には関連分野の予備知識があるという点が異なります。
その知識は、Googleで調べた時間よりもはるかに長い時間を費やして得られたものです。

テレビ等での専門家の話はわかりにくいと言われることもあるようですが、それは仕方ないと僕は思っています。
小学生に微分積分をわかりやすく説明するのが不可能であるように、何をどう工夫してもわかりやすくならないことはあります。
短時間で説明しなければならないのであれば、どうとでも解釈できる例え話をするのではなく、わかりにくくても正確な説明をするのがマスメディアにおける専門家の役割であると思います。
5分や10分の解説を聞いて「わからない、説明が悪い」としか思わないような態度であれば、何も理解できるはずがありません。
「もっとわかりやすく」と求め続ける限り、行き着く先は「安全です」の一言にしかならないのではないでしょうか。
そのような態度へのいらだちが僕にはあります。

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