無関心

  • 2010.10.31 Sunday
  • 00:36

無関心というのは、関心がないということで、関心というのは「関わる」「気持ち」だ。
一般的に使われる「関心」というのは方向性を持った好奇心のような意味だと思うが、僕が嘆いている無「関心」はもう少し踏み込んだ意味で、「関わる」「覚悟」を持った好奇心に近い。
前者の意味では関心の幅や深さは昔と比べものにならないほど拡大していると思う。
ペルーのプロサッカー2部リーグの試合結果だってわかる。
ペルーの2部なんて想像すらしたことがなかった。
情報を提供する側がインターネットに適切な形で情報を提供していれば、インターネットに触れている人はその情報にアクセスすることができる。
ペルーの2部を日本からウォッチしている人は関心の幅が広いし深いと言われそうだ。
今はいろんな見られたがりが一生懸命情報をあげているおかげで、関心をもった事柄について簡単に情報が手に入るようになった。
そしてそれでドヤ顔をするようになった。

僕が関心について考えるのは、たとえば街中でだ。
明らかに道を探している人がいる。
助けてあげたいと思い、声をかける。
これが関心を持つということだと思う。
彼がすでにケータイで道を検索し終えていたとしても。

明らかに道を探してる奴がいたよ、という段階では関心を持ったとは言えない。
いろんな奴が「あっちに道に迷ってる奴がいたよ。」と教えてくれる世の中になった。
それを教えるのに忙しくて声をかける暇がない状態なのかもしれない。
道を教えてやれよ、と言うと「うざい」「めんどくさい」などと言う。
もう少し屈折した奴だと「道を教えようとしたらうざがられるかも。」などと言う。
人に関わらないで生きていてなにが楽しいんだい、うざがられて何が困るんだい。
「そういうところがうざいんですよ。」
これは僕が何度も言われてきたことで、これからも何度も言われることだろう。

関わるというのは確かに労力がかかるし、報われない時のストレスもある。
でも僕らはそんなに忙しいんだろうか。
葉山悟が書いていた「自分が生きていくのがやっとで、他人様に興味をもつなんてとてもとても」という生活だろうか。
「関わる」といってもおおげさな話ではない。
たかだか暇な僕らの時間の一部を惜しみなく捧げるくらいのこと。
困っている人がいたら迷わず助け、困ったら迷わず助けを呼ぶだけでも、無関心から抜け出せるんじゃないだろうか。
どうせ人生なんて長い暇つぶし。
暇つぶしの友は真の友、と誰かが言ってたよ。

むかんしん

  • 2010.10.31 Sunday
  • 00:27

競馬界で「最強の1勝馬」という表現がある。
といっても、少し前に一時的に流行っただけという気がしないでもないが。
ちょうどシックスセンスやローレルゲレイロが、まだ2勝目を挙げれなかった頃の話である。その2頭は、G1レースで勝ち負けしたりもするのに、なかなか勝ちきれずに2勝目を挙げることができないでいた。
往年の競馬ファンであれば、ナイスネイチャやステイゴールドを思い浮かべるのであろうか。ナイスネイチャの有馬記念3年連続3着や、ステイゴールドの「主な勝ち鞍、阿寒湖特別」という逸話は私でも知っている有名な話なのだろうと思う。

人間がそうであるように、馬にだって性格がある。
入厩する前の牧場で同い年の中でリーダー格だった、という話はよく聞くものである。
前にいる馬に何とか食らいついていこう抜いてやろうとする負けず嫌いな仔もいれば、逆に馬が近くにくると「どうぞどうぞ」ってな具合で力を抜いてしまう仔もいるのだという。
そういった癖の中でレースに悪影響を及ぼすものは何とか治そうとするらしいのだが、そう簡単には治るモノではなくて。
きっと、人間の場合と同じことなのでしょう。

馬券を買っている立場からすれば、いつも3着の仔というのは逆にありがたいと感じるかもしれない。今の時代、ブロンズコレクターであれば、そういう馬券の買い方ができるのだから。
ディアデラノビアなんて仔もいたなあ。

そういった仔たちの中で、現役馬ですぐに思い浮かんだのはトウショウシロッコ、サンライズベガの2頭。どちらもアドマイヤベガ産駒。
重賞で掲示板は確保するけれど、4着5着が多いというイメージ。
それでも、馬券を中心にして考えると非常に買いにくい仔たちだが、勝てないまでもいつも一生懸命ながんばり屋さんということは言えるのかもしれない。
勝てないのは悔しいことかもしれないけれど、一生懸命にがんばっているんだろうから仕方のないこと。

G1戦線でバリバリに活躍する仔たちじゃなくっても、そういった仔たちは応援したいなあという気になる。
重賞勝ちがないまま無冠のままでも、それでも重賞でがんばり続ける姿を応援したくなる。
到底、無関心にはなれそうにない。

浦島太郎〜日本むかんしん話〜

  • 2010.10.31 Sunday
  • 00:25

むかんしん、むかんしんのこと。
浦島太郎が浜辺を歩いていると、近所の悪ガキどもが大きな亀に寄ってたかって蹴りを入れていた。
亀も大きいものになると子供の蹴りくらいではビクともしない。
力量的に相手にならないものに対して暴力を振るうのを嫌う亀はされるがままになっていたが、そのむなしさから涙がぽろりこぼれた。
浦島はちらりとその光景を見たが、スルーした。
悪ガキをこらしめるのも趣味じゃないし、竜宮城的な所で歓待を受けるのもそんなに好きではなかった。
早く帰って一人でもそもそ飯を食い、酒を飲んで寝たかったのだ。
ちらりと見た時に海亀と目があった。
泣いていた。
海亀が泣くのは産卵の時だけだと思ったがな、と浦島太郎は思った。
ガキどもに蹴られながら産卵してたのかもしれん、と思うと妙におかしかった。
亀の目は真っ黒で濡れていた。

浦島太郎は無関心な男であった。

工場の食堂で隣の男のトレーに載っていた牛乳瓶が倒れた。
本人や周りはあたふたとし、
「なんか拭くもんおまへんか」
などと騒いで事態は収束したのだが、浦島太郎は悠々とカツカレーを食べ続け、収束を見届けることなく近所の川へ短い昼休みを惜しむように釣りに出かけたのだった。

浦島太郎がアパートで酒を飲みながらプロ野球を見ていると、ドアを叩く音がする。
無関心な男なので放っておき、尻をかいたり屁を垂れたりしていたが、ノックが重く長く続いたのでだんだん気になってきた。
のぞき穴からのぞこうとしたがふさがれて見えなかった。
「誰や」
「亀や」
「そんな奴しらん」
「今日、目ぇ合うたやないか」
「知るか」
「あけ」
「嫌じゃ」
「あけ」
「嫌じゃあほらしい」
「ああいうの見たら助けるんが普通とちゃうんか」
「めんどくさいねん」
「助けんかったらもっとめんどくさなるっちゅうことを教えたるわ!」

亀は大きな声を出したあと立ち去った。
浦島太郎は亀の背中をのぞき穴から見送りながらため息をついた。
野球を見る気が失せ、もう一杯呑んでから浦島太郎は寝た。

浦島太郎は二ヶ月後絞殺体で発見された。
遺体の喉に若布のようなものが巻き付いており、殺人事件として捜査が始まった。
隣人を含め誰も浦島太郎のことを知らず、工場の同僚も彼がいてもいなくても仕事が順調に回っていたことから対して気にかけていなかったことが、事件の発見の遅れにつながったと見られる。

むかんしんむかんしんのことであった。

僕は髪型に無関心だという話

  • 2010.10.30 Saturday
  • 00:07

中学生のときの話です。
ある日、女子の一人が髪型を変えてきました。
(「女子」とか「男子」とかいう言葉に何とも言えない響きが感じられることは間々ありますが、この場合はまさにその何とも言えない意味を込めて「女子」と呼ばせてほしいところです)
僕はそれを見て、変わったな、とは思いましたが、良いとも悪いとも思いませんでしたし、「髪型変えた?」とか「その髪型、イイネ!」などという言葉を口にすることもありませんでした。
一方、女子たちの反応はと言えば。
当該の女子を女子たちが取り囲み、「カワイイ」だの「似合ってる」だのと口々に褒めそやしていました。
その後も女子の誰かが髪型を変えるたびに同様の「儀式」が執り行われるのですが、決して「前の方が良かった」という判決が下ることはありません。
中学生のハッタリスト少年は「これこそが文化である」という感慨を持ちました。
というか、今でもそう思います。

そのような人間である僕でも、他人の髪型が変わったとき、まれに「前の方が良かった」と思うことはあります、が、言いません。
やはりまれに、「前よりも良くなった」と思うこともありますが、これも言いません。
良くなったときに良くなったと述べることは、悪くなったときに悪くなったと述べないことの意味を失わせるものだと思うからです。
両方言えばいいという意見はもっともです。
しかし、髪型が良いとか悪いとか考えること自体が面倒で、髪型を話題にすることはもっと面倒なのです。
だから、積極的に無関心であろうとしているわけです。

ミッチーさんが以前書いたように、我々は「身だしなみゲーム」のプレイヤーであることから脱出することはできません。
髪型というものはこんなにも人の印象を左右する重要な要素であるとか、そのような理由で以て僕を説得するのはおそらく簡単です。
すぐにでも、そうだね髪型って大事だね、と同意するかもしれません。
ただそれは、「髪型ゲーム」のプレイヤーとして上達することを僕に促すことはないのではないかと想像します。

今回の書き方は少々大げさであり、僕もそれほど髪型の話題を毛嫌いしているわけではありません。
が、嫌いなことを嫌いであると声高に表明するよりは、無関心であることを貫く方が良い場合もあるのではないか、と思っています。
 
 
 
とか考えててごめんなさい、Mr.イエローさん。
ほんとすみません。

むかんしん〜ネグレクトの心理〜(1) Mr.イエロー

  • 2010.10.30 Saturday
  • 00:06

最近、よくニュースで親による子への虐待が取り上げられるが、虐待の一つにネグレクトがある。
数年前の私の教え子に、ネグレクトの家庭の子がいた。
その子の場合、母親が働かず、電気・ガスが止められていた。これも、育児環境を整えていないということで、ネグレクトになる。
最終的に市役所の専門職員と連携し、母子分離を行った。
母親が安定して働き始めるまで、その子は数ヶ月、児童相談所に預けられた。もちろん、その間学校にも通えない。
何度か面談に行ったが、最初の面談では、部屋に入ってきた瞬間にその子は泣き始めてしまった。
おそらく一生癒えることのない、深い寂しさを経験してしまっただろう。

世間的には、「ネグレクト=育児放棄=子に冷淡」という図式で認知されているように思う。
しかし、その母親の場合、子どもをすごくかわいがっていたし(子どものほしがるものをすぐ買って与えていた)、勉強面でも期待をかけていた。
少なくとも、私の想像していた、ずさんで適当な親のイメージとはだいぶ違っていた。
家も手作りのパッチワークが壁を飾る、小奇麗な部屋だった。

しかし、やはりある面ではその母親の特殊性は際立った。
母親は、生活保護を受け取るためにものすごく巧妙な手口を使っていたのだ。
詳細は避けるが、この母親のタフさは聞いた誰もが閉口した。
市役所ベテラン職員の、「また、やられた・・・」というセリフが忘れられない。

集金の話をするとき以外はとても感じがいい母親の、心の奥底まで感じ取ることはできなかったが、少なくとも世間の認知「ネグレクト=子に無関心」はだいぶ実情と離れていると思った。

むかんしん〜ネグレクトの心理〜(2) Mr.イエロー

  • 2010.10.30 Saturday
  • 00:05

ネグレクトの親の心理を知りたい。
そこで、書籍を探した。
ずばり、タイトルは『ネグレクト』。
3歳の娘の世話をせず死なせてしまった親、祖母たち、ネグレクトを認知していながら救えなかった市の職員など、子を取り囲んでいた大人たちの心情の詳細なルポだ。
読んでみて、やはり、と思った。
親は、子に無関心なのではない。感じることができないのだ。感じる能力がない。
子がどんなに親に抱かれたいと思っているか。どんなにおなかがすいているか。家に帰れなくてどんなにさびしいか。
子の様子に変化があっても、ま、大丈夫だろう、で済ませてしまう。
娘が骨と皮になってやばいかも、と思っても向き合えない。
正常に育てられた人からは信じがたいが、自分が同じような育てられ方をして、ここまでたまたま生きてこられてしまったことに原因があるようだ。
祖母も世話に来ないなど、いろいろな悪条件が重なった結果、その3歳の子は亡くなってしまった。

心に残ったのは、「○○ちゃんの死を無駄にしないように、がんばって明るく生きていこうと思う。○○ちゃんは私にいろんなことをおしえてくれた」という、子どもの死から3ヶ月の時の母親の日記だ。
子を死なせた親と思えない、ぞっとするような無邪気さ。
作者も言っていたが、これが「嫌なものから徹底的に目を背ける」姿勢なのだ。
この母親の場合、それが骨の髄まで染み渡っており、まったく悪気がない。

「無関心」は関心を持たないという消極的な行動ではなく、対象から目を背けるという、むしろ積極的な行動でありうる。
積極的な無関心は、本来なら向き合わなくてはいけないものに対して向けられ、たいてい、悲劇的な結末につながる。
関心を持つことは人間が社会で生きていく基盤で、それをいちばん最初の社会である家庭で経験できないことは、間違いなくこの世でいちばんの悲劇だ。

ダイアローグ38 がりは

  • 2010.10.30 Saturday
  • 00:02

「ねえ、宇宙にあいた穴は真っ暗かなあ。」
普段は教室の窓側で外ばかり見ている、少し取っつきにくくて針金みたいに細い手足の女の子がいきなり僕に話しかけてきた。

「はい?」
「だから、宇宙にあいた穴は真っ暗かなあ。」
考えてみるまでもなく、彼女と僕が話したのはこれが初めてで、同じクラスになってもう半年が過ぎたのにそんな不思議なことになっているのは、彼女がとっつきにくいせいと、僕が引っ込み思案に見えるせいだ。

「へ?」
「悪いの?耳。うちゅうに、あいた、あなは、まっくらかなあ、と聞いたんだけど。」
彼女のとっつきにくさはこういうところにあると思う。
妙に相手を緊張させるというか、追いつめるところがあるのだ。
大きくて吸い込まれそうな目を真っ直ぐに向けてくる。
宇宙に空いた穴があるとすればそれは彼女の瞳なのではないか。
ちょっとでも油断すると思考力を奪われてしまいそうだ。

「申し訳ない。ぼくは、そのしつもんに、まったく、きょうみが、もてないということを、なまへんじに、たくした。」
「どのへんに興味がもてないわけ?宇宙一般?」

確かに僕のこの返事もひどいけれど、彼女の追及の仕方はもっとひどいように思う。
突然宇宙に空いた穴の話を振られても、それについて僕にしっかりした知見があるわけじゃない。
僕は厳密さを愛する性格なのだ。
しかし、僕は大人だ。
クラスの誰よりも成熟している。
大人には不躾で人を追いつめてくる彼女を教育する義務がある。
引っ込み思案に見えて、僕は言うべき時に言える男なのだ。

「どこもかしこもだよ。宇宙も、そこにあいた穴も、色も。それから、倒置法にも、語尾が「だけど」で終わることにも、ゴビ砂漠にも、東京砂漠にも、ニモにも興味がない。」
「へー。それって面白いんだ。なんだっけ、ニモにもだっけ。あと、東京砂漠だっけ。」

お仕置きするつもりがお仕置きされてる。
なんでゴビとかニモとか言っちゃったんだろう。
いつものクールな僕のペースじゃない。

「わかった。私に興味がないんだね。わかってたよ。仕方がないね。」

彼女はおおげさにため息をついて、僕に背中を向けた。
でも立ち去らない。
それはまだ、なだけで、今すぐにでも、であった。
僕は決めなくてはならない。
彼女に関心があるかどうかを。
できるだけ早く。

日本むかんしん噺

  • 2010.10.30 Saturday
  • 00:01

むかんしん、むかんしん、日本全国津々浦々にとてもたくさんの赤ちゃんが誕生しました。

今から六十年以上も昔の事です。
昭和二二年二六七万人、同二三年二六八万人、同二四年二六九万人と毎年の出生数は二百万人を超え、それは昭和二七年まで六年間も続きました。
彼ら彼女達は団塊世代とよばれ、とてもユニークな生き方を強いられることになりました。

何しろ中学校の一学年のクラスが二十を超え、生徒数は一学年だけで軽く千人を突破。
あふれる生徒を収容するためにプレハブの教室が出現しました。
また授業を二部に分けたりもしました。
彼らの集うところを上から見ると、まさに「芋の子を洗う」ゴッタ煮状態で、そこでは個人の我儘などもっての他で、著しく個性が抑えつけられました。
目立つ事や他人と異なる事は抑制され、他方で高校・大学の激烈な受験戦争がありました。

この団塊世代の人々の耳にタコが出来るほど浴びせられた言葉の一つに「無関心」というものがあったのです。
これは「三無主義」と卑下されたものの一つで、他の二つは「無感動」「無責任」いや「無秩序」だったかな。
いやいや「無個性」、いや「無利息」がぴったりする感じもなきにしもあらず。

権威や権力、そして欲望や本能を表す言葉に「無」をつけたらそれが団塊世代のキャッチフレーズになりました。
もちろん否定的な意味においてです。

だから「無関心」と聞くと本能的に背筋がシャキッと伸びる気がするのです。
思わず姿勢を正してしまいます。
自分がどう生きのびる事が出来るか、で精一杯なのに、他人様に何か関心を持つことなんてできない話でした。

最近テレビのクルマのCMで「ウェブで辞表」新しい。
「職場で不倫」新しい。
新発売のクルマに「興味ない」。
つまり「関心ない」ことを「新しい」と表現していました。
現代社会において「無関心」は新しい事なんだと何だか新発見したような気持ちになりました。
同時に「無関心」世代の先輩として、ちょっぴり誇らしいような、恥ずかしいような気持ちになりました。

蛇足ながら小生のペンネーム「葉山悟」ははやまさとると読み、頭に「人生」や「世の中」をくっつけていただければその意味するところが御理解いただけると思います。
つまり「人生を早まあ悟る」「世の中を早まあ悟る」ということで、これも団塊世代の負の後遺症なのかもしれません。
「葉山悟の謂れなんかに興味ない」とお怒りの読者諸君、あなた達は間違いなく「新しいネェ」。

カンシン、カンシン、ムカンシン

  • 2010.10.29 Friday
  • 00:00

A「だいたいおまえは注意力ってもんが足りないんだよ」
B「申し訳ありません…」
A「何かひとつのことに集中するってのは誰でもできるんだよ、問題はそういう時にそれ以外のことを見てるかどうかってことだ」
B「はあ…」
A「部分を見るのと同時に全体を見る、意識するんだよ、意識」
B「なるほど…」
A「こうやって話をしてるときもだな、話の内容を理解するってのは当然として、それに加えて周りを見る」
B「周りを…」
A「歩きながら話してるんだから、人や物にぶつからないように注意するってのは最低限できてるはずだ」
B「確かに…」
A「俺くらいになるとな、どこにどんな店があるとか、どんな人とすれ違ったとか、そういうことも頭の中に入ってくるわけよ」
B「ははあ…」
A「しかもそれを記憶する、一流ってのはそういうものなんだよな」
B「さすが…」
A「例えばだな、いま通り過ぎた車、何だったか言ってみな」
B「何だったかと申しますと…?」
A「車種だよ、車種、見てたろ?」
B「いいえ、全く分かりません…」
A「ほら、これだからな。注意力がないってのはそういうことを言うんだよ」
B「…」
A「もう一台通り過ぎたろ、今度は何だ?」
B「ええと…プリウス…」
A「インサイトだよ。どこ見てんだ」
B「う…く…」
A「?」
B「うおおおおおおおおおおお!!」
A「わっ、どうした」
B「私の注意が足りないっていうのは認めますよ、でも車種が分かるか分からないかは関係ないでしょう!?車の名前なんて目の前でじっくり見たって分かりませんよ、知らないんだからそれが当然じゃないですか。あなたは車が好きだから車種なんて見れば分かるのが当たり前かもしれませんが、自動車なんかに何の興味もない人間だっていくらでもいるんですよ。全体を見て記憶してるっていうんなら昨日の日経新聞の夕刊の将棋欄で誰と誰が対局してたか覚えてますか?私は覚えててもあなたはそんなところ見てない。同じものを見ていても見えている景色は人によって違うんですよ、それくらい想像してください」
A「そ、その通りだ、す、すまんかった」
B「また一台通りましたね?」
A「う、うん」
B「ホンダのCBRです」
A「バイクは分かるのかよ!」

夢競馬の人々(22)

  • 2010.10.27 Wednesday
  • 23:59

髪束さんの話ではない。
僕が通う競馬場にも随分ホームレス、いや家を持たない人々、いや家を持とうとしない人々、いや、やはり家を持てない人々が増えている。

その競馬場で実際の競馬が開催されるのは一カ月の内五日あまりで、後はすべて場外発売。
当然その時は入場が無料である。
冷暖房完備で、スタンドには座席があって、お茶や冷水が飲み放題となっている。
開場して給湯前を通ると、そこは持参した空ペットボトルにお茶や冷水を貯めている人で占められている。

押しボタンひとつで紙コップに一回ごとにお茶を注ぐ仕組みだからペットボトルが満たされるまでに給湯場所は彼らによって独占されることになる。
彼らは大抵ズタブクロや大きくふくらんだスーパーのビニール袋を複数個抱えていて、近くにある座席もそれらの袋で占拠されてしまっている。

夏は冷房で涼しく、冬は暖房で暖かい。一レースから最終レースまでいると、丁度サラリーマンが一日仕事をしたのと同じぐらいの時間を費やすことになる。
ありあまる時間をいかに体力を消耗させず、かつ快適に過ごすことが出来るか、という切実なテーマを持つ彼らにとって競馬場はまさに天国である。

現実にとんでもない僥倖にありつく事も。
いつだったか、馬主と呼ばれる竹内さんが、青白い顔をしてぼやいていた。

「間違って当たり馬券を棄てちゃった。馬券を機械に何度入れても、的中してませんって返ってくる。よく見たらハズレ馬券と当たり馬券間違えてゴミ箱に棄てちゃっているんだ。皆が協力してそのゴミ箱ひっくり返して探してくれたけど見つからなかった。六十八万円パーだよ。」

何でもその馬券をせしめたのがホームレスの一人だったという。
彼はゴミ箱に捨てられている馬券を集めては払い戻しの機械に通していたのです。
何十回いや何百回もの「この投票権は適中していません」のテープ音声後、六十八万円もの大金に巡り合ったのだ。

これほど金額が大きいものではなく、数千円単位の払い戻し馬券は何度もあるという。
出走取り消しが生じた時の馬券、又、マークシートの数字の塗り間違いや、レース番号、開催場名の間違いなど、人間は間違える動物であるという事を証明するのに競馬場ほど似つかわしいところはない。

又、自動式の機械で投票した場合の馬券や釣り銭の取り忘れ。
気付いた時、あわてて戻ってももう遅い。

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