無駄なんかじゃないんだ

  • 2010.07.31 Saturday
  • 17:45

ゴビ砂漠の遺跡にキャンプを張ってもう2週間になる。
ひたすら地中から獣の骨を掘り出し、岩に叩きつける毎日だ。
数えてみると、昨日までにマイケルが折った骨は820本、私は1000本を超えていた。

25年余りもの間、世界各地を渡り歩きながらこんなことを続けてきた。
途中仲違いしたこともあったし、そもそも2人の見解は真っ向から対立しているが、今では互いを良きパートナーとしてリスペクトしている。

家族以上の信頼関係で結ばれた私たちが追っているのは、太古の幻獣ヒポポタマタマだ。
標本も詳細な記録も存在しないヒポポタマタマだが、その足の骨は黄金の輝きを持ち、ダイヤモンドをも凌ぐ強度を誇ると言われている。
とはいえ掘り出した骨からいちいち泥を洗い落として黄金色かどうか確かめるのは効率が悪い。
だから、掘り出した骨はとにかく叩きつけて折る。
ポッキリ折れるならそれはヒポポタマタマの骨ではない、というわけだ。そのような骨はこの業界では「無駄骨」と呼ばれる。

気の遠くなるような作業だということは分かっている。
しかしこの灼熱の大地に立つ私たちの決意は揺るがないし、ほんの少しずつでも真理に接近していると思うと勇気がとめどなく溢れてくるのだ。

面白いことに、ヒポポタマタマに関して私とマイケルの見解は全く噛み合わない。正反対だと言っても良い。
例えどれだけ多くとも、地球上に存在する獣の骨には限りがある。
だから、折った無駄骨の数が大きくなればなるほど、次に掘り出す骨がヒポポタマタマのものである可能性が大きくなる。
私は一貫してそう信じてきたし、そうでなくてはこの気が遠くなるような作業を続けてこれたはずもない。

ところがマイケルは違うことを考えているようなのだ。
折った無駄骨の数が大きくなればなるほど、次に掘り出す骨がヒポポタマタマのものである可能性は小さくなる、と彼は言う。

彼が何を考えてそのように言うのか私には全く分からないが、しかし2人とも、折った無駄骨の数が大きくなればなるほど、この作業の、そして次の1本の価値が増してゆくという点では一致している。

そんなわけで、私たちは日々競うように地面を掘り返し、無駄骨を岩に叩きつけてはスコアをノートに付けているのだ。
単調だが充実した毎日。
この作業が永遠に終わらなければ良いのに……と埒もない空想に浸ることすらある。
今もそうだ。

私としたことが、手が止まってしまっていた。
さあ、大事なのは次の1本だ。

準備

  • 2010.07.31 Saturday
  • 17:45

サッカーのワールドカップ終了後のドキュメンタリーで、一躍時の人となった本田選手を特集していた。
出張先のホテルではじめは何とはなしに見ていたのだが、その内容が気になったので見入ってしまった。その内容というのは、本田選手がよく使い実践している言葉に「準備」というものがあるというものだった。
ひとつ覚えている例としては、今年に入ってからのクラブチームでの大きな大会で、「ワールドカップならもっと緊張するだろう」とか「ここで点に絡めないようではワールドカップじゃあ通用しない」などと考え自分にプレッシャーをかけてすべてのプレーに望んでいたというものがあった。
その他にも様々な場面で「準備」ということを心がけており、それこそがすべてであるというようなことを言っていた。

「なるほど、たしかに」と思った。
僕自身は「準備」という言葉を使ったことはなかったが、それと同じようなことを考えたりすることがある。
仕事の場面ではまだそういった状況に出くわしたことは少ないのではないかとは思うが、何かにつけて自分を追い込んでその上で結果を出そうという気持ちでいる。
よく言えば向上心ということになるだろうか。自分のあるべき姿、もっと素晴らしいはずの自分を目指して。

そしてまた、僕は無駄な時間というのはないのではないかと考えていて、普段無駄と感じてしまう時間であっても、将来の何かに向けての「準備」なのではないかと思っている。

矛盾するかもしれないが、仕事だったり作業だったりをするときに僕はいつも、合理的に無駄な動きはなるべく少なくと考えてやるようにしたいと考えている。
もちろん、なかなかうまくいかないのだが。いつも、あー頭悪いと思いながら、ときには口にしながら作業をこなす日々だ。
それでも、そうやって無駄な動きが多いようであっても、結局は何かのために役立つというか、まったく無駄なことにはならないんだろうと考えている。

時計の針を止めても時間は止まらない。
何をしていても時間は過ぎるけれど、無駄な時間なんてものはない。
無駄な時間はないけれど、有効に使おうとすることは悪いことであるはずはない。
それなら僕は、「準備」を心がけたいとそう思う。

W杯に寄せる想い

  • 2010.07.31 Saturday
  • 17:44

俺がワールドカップを見てた理由は大体百個くらいある。
一つ目はサッカーが好きだから。
よくいるじゃないですか、麻雀が好きだから人が打ってるとじーっと見てる人。
ああいうのは一種のオタクだ、別の競技の人だ(麻雀ウォッチング)と思っていたけれど、案外わかりあえるのかもしれない。

二つ目はそんなに忙しくないから。
好きなサッカーを見るためなら本気を出せば調整できる程度のスケジュールで生きとるわけです。
生活に追われているわけでもなく、幸せに暮らしているというわけです。

三つ目は勝負事が好きだから。
ワールドカップを楽しむのはサッカーのみならず勝負を楽しんでるんですよ。
あれが64試合のフレンドリーマッチなら見るのはやめていただろう。
「強いんだ星人」たちが戦う様を見ている俺は「どっちが強いんだ」星人なのかもしれない。

四つ目は戦略系ゲームが好きだから。
今や現代サッカーを語る上でシステムとディシプリンをはずすことはできなくなった。
どんな思想とどんな思想がぶつかりあって結果どうなるのか、つまり試合が始まるまでにかなりの部分楽しめている。
予想をいろいろして、試合が始まるときに裏切られ、結果を見てうなる。

五つ目はドラマが好きだから。
人間対人間で、世界中のいろんな事情を背負ったいろんな人間が一つのピッチの上で戦っている。
右サイドから鋭いカーブのかかったクロスが上がる時、そこには誰かと誰かの人生がクロスしてくるのである。

六つ目はサッカーを見るのが好きだから。
一つ目とかぶっているようでかぶっていない。
あっちはプレーヤー、こっちはファンとして。
監督っぽい立場で見るのが好きなんです。
アルゼンチンの試合が面白かったのは、「ここをこうした方がいい」という突っ込み所が満載だったからかもしれません。

七つ目は信じられないようなプレー、奇跡を見たいから。
極度の緊張状態から産み出されるスーパープレー、それが歴史的経緯や文化的な相違によってより生まれやすくなっているのがW杯だと思う。
スーパーちょんぼも生まれますけれども。
そういうのを見たいですよね。

八つ目は、て書いていきたいけどこのへんで。

色んな国の色んな事情を抱えた色んな人達が、とにもかくにも一生懸命一つの目的に向かって頑張っているのを見ると、俺もちょっと頑張らなあかんな、まずは部屋の片づけから!という気になるじゃないか。

通信簿は相手を見てつけるもの

  • 2010.07.31 Saturday
  • 17:43

関連のある文章
■2010/07/29 (木) 神は通信簿をつけない? byミッチー

ミッチーさんの問い
将棋のルールに内在する評価値を想定することはできるか?

僕の答え
できない、または、恣意的な基準を導入しなければできない
 
 
ここではミッチーさんと同じ意味で「神」という言葉を使います。
将棋の神様とはどういう人格で何を知っているか、などは今回の関心事ではないのでご了承ください。

神の視点では、あらゆる局面は勝ちか負けか(あるいは引き分け、すなわち持将棋か千日手)にしか分類できず、ある勝ちの局面と別の勝ちの局面にはルール上の優劣は存在しません。
短手数で勝つのが良い、持ち駒が多い勝ち方が良い、などの恣意的な基準を導入しない限り、神の評価値は0か1かの二拓でしょう。
そのような恣意的な基準を導入すれば「ルールに内在する評価値」を定義することは可能ですが、その評価値そのものは人間が将棋で勝つための手段としての直接的な利用価値はない、というのが僕の主張です。

通常使われる意味での評価値という概念は、人間や将棋ソフトにとってあまりにも難解である神の将棋に対して近似的に勝ち負けの判断を与えようとする便宜的な手段です。
手段である以上、目的から乖離した評価値には意味がありません。
ルールに内在する要素を恣意的に組み合わせることによって、人間による評価値(評価関数)に近いものを意図して作り出すことはできるでしょう。
しかし、それは神の将棋の探求というよりは、人間の考え方の探求であると思います。
人間である自分が人間である対戦相手にいかにして勝つかという問題にとっては「人間の考え方の探求」は本質的に重要であり、現在の将棋ソフトもまた対人間用に特化して作られています(対将棋ソフトで時間切れを狙うという例外的ソフトもあるそうですが)。
たとえ将棋の神であっても、不利な局面からの逆転を狙ったり駒落ちの上手を持ったりするためには、対戦相手の用いる評価関数を知ることが不可欠です。

ある定義による「ルールに内在する評価値」が偶然ある人間による評価値に一致することはあってよいでしょうが、それは偶然以上のものではありません。
例えば、矢倉では無敵だけれどもそれ以外の形は初心者並み、というプレイヤーがいてもいいのですから。

旅を楽しむということ

  • 2010.07.30 Friday
  • 17:43

以前、岩手の中尊寺へ行ったときのことである。
一通り観光を終えて帰ってくる途中、ビデオ撮影しながら坂を上ってくる観光客のおばさんとすれ違った。
歩いている足元まで撮影していて、子供でも撮影しているのかと思ったが、そういうわけでもなかった。
察するに、これは全てをビデオに収めておこうとしているものらしい。

撮影スポットや自分の気に入った場所を軽く撮るというのならまだ分かるが、一部始終を撮るとなると、理解の範囲を超えている。
なるべく多くのものを残せるようにという気持ちがあるのだろうが、撮影に夢中になるあまり、ベースとなるべき旅の生の感動を損ねてしまっては、無駄骨であって本末転倒なのではないか。
中尊寺といっても、お馴染みの金色堂だけではなく、その手前の坂道を囲む竹薮や紅葉など色々と味わうところはあるし、その場の雰囲気を満喫したい。

かくいう僕も、カメラは持っているので、写真を撮る方に気が行ってしまうこともある。
ビデオのように継続して撮影するのではない分だけマシなのかも知れないが、あれこれ撮り始めると似たようなものだろう。
ネットで見てみると、ビデオで軽く撮影して、後で気に入ったところだけ写真として残すという人もいるらしい。
モノは使いようなのである。

とはいえ、カメラもビデオも一切持たずに旅行に行くのも物足りなさがある。
生の感動といっても、いつまでも覚えているものでもないし、後で写真などを見返したとき、色々と思い出すことも多いだろう。
そもそも、旅行の目的は楽しく過ごす点にあるのだから、その場を満喫するためとはいえ、あえてカメラを持たずに物足りない思いで過ごすのも倒錯した話に思える。

結局は、それぞれの人に合ったスタイルが一番、というありきたりな結論に帰着するのかも知れない。
全てを楽しまなければとかその場をできるだけ満喫すべきとか、強迫観念的に思いつめて考えるくらいなら、自分の思うがままに。
あれこれ考えてきた自分が一番無駄骨だったような気もするけれども。

神は通信簿をつけない?

  • 2010.07.29 Thursday
  • 17:42

1年ほど前にハッタリストさんとうべべの間で交わされた「将棋論争(または最善手論争)」を、改めて読んでみました。
リンクを貼るのは面倒だし皆さんが読み返すのも面倒でしょうから、簡単にまとめておきましょう。細かい表現は僕が勝手に改変しています。

《ハッタリスト的将棋観》
「将棋」と一口に言っても以下の2つは区別されるべきだ。
神の将棋……純粋に数学的な考察の対象としての、ルールの集合体
人間の将棋……持ち時間などの追加ルール、人間の能力的制約、その場の状況といった文脈込みの勝負

《うべべの疑問》
ハッタリストは「最善手」という概念を人間の将棋に属するものと考えているが、果たしてそうだろうか。

《うべべの主張》
1. 詰将棋同様、勝ちの側にとっては終局までの手数が最短となる手が最善手であり、負けの側はその逆だ。
2. この最善手は人間の将棋に適用することもできるが、神の将棋に属する概念だ。従って、1を採用すれば「最善手は人間の将棋に属する」という見解を否定できる。

以上です。
なお、この論争の途中でがりはさんの乱入がありましたが、ハッタリストさん同様、僕もそれに対する応答は回避します。

ハッタリストさんがこぼしていた通り、この論争がこじれた主な原因は、うべべが主張1の根拠をなかなか示さなかったことにあると思います。
最終的には「それが『最善』な気がするから」だと説明されましたが、それを踏まえての総括に至るまで、僕は一貫してハッタリスト派です。
とは言え、うべべの独創性は我々にとって得難いインスピレーションだと感じています。

さて、一連のやり取りに対して僕は次のような質問を投げかけたいと思います。
「評価値という概念をどう考えますか?」

ハッタリストさんが指摘しているように、手数の長短にこだわる必然性は感じられません。
むしろ、一般に形勢判断では「駒の損得」「駒効率」「玉の安全度」「手番」といった概念が使われています。
将棋ソフトでは、これらを総合した「評価値」という概念が使われています。
ソフトにとっての最善手は「予想の範囲内で最終的に評価値が最も高くなる手」でしょう。

将棋の神様にとってはどうか。
ハッタリスト的将棋観では、神は評価値の算出方法を知らないとされそうです。
しかし、人間では知り得ない評価基準まで含めた、「ルールに内在する」評価値を想定することもできそうに思えるのです。
いかがでしょう?

贅沢な骨2(前篇)

  • 2010.07.28 Wednesday
  • 17:41

米沢牛の中でも生産者が市場に出さず庭先で取引する最上級の肉がある。
都内の超高級料亭と個別で契約しているもので、超高級料亭で食べようとしても一見さんではもちろん食べられず、ここも個別に契約しているような上得意にしか提供されないそんな肉。
俺は人から人へとその肉を求めて訪ね歩いて一年、ようやくある生産者が肉を出荷する現場で交渉がまとまった。

出来れば初めは生で食べてくださいと言われ、口の中に一切れ入れると淡雪のようにどこかに消えてしまい、濃厚な甘みが舌の上にじわっと残る。
その時点で俺は残りを調理してもらうのをやめ、材料のまま頂いて帰ることにした。
180グラム。
世界でもほとんど手に入らない最高級品だ。
ようやく巡り合えたこの逸品に思わず涙が出そうになったが、まだなにも終わっていない、始まったばかりだと気を引き締めた。

全体の構想は出来ていた。

・関鯖〜醤油ジュレがけ〜
・富士山菜の素揚げ〜ウユニ塩湖の塩を添えて〜
・仏跳垣〜あえて柚子庵で少しだけ〜
・世界一の肉
・鯛茶〜仏跳垣をかけて〜
・西瓜のグラッパ

全ては世界一の肉のために。
控え目の展開で物足りなさを感じさせ、肉で強烈なエクスタシーを与えられるように。

肉を追って彷徨う合間に、合わせるソースの材料を揃えた。
トゥール・ダルジャンに頼んで取り寄せたフォアグラ、発情を抑えた雌豚が探し出したという南仏産のトリュフ、和歌山の枯れ木にぽつんとなった青い蜜柑、銚子の漁師に代々伝わるたまり醤油、シチリアンケッパー。
どれもこれも普通には手に入らない。
みかんを手に入れるために山を一つ買った、と言えばその苦労がわかってもらえるだろうか。
肉がうまいのでソースは本当に少量でよい。
しかしそのソースでうまさが倍増したり、食べられなくなったりするものだから手は抜けない。
最高の肉には最高のソースを。
最高のソースには最高の材料を。

俺はメインの肉に注力することとし、前菜からグラッパまでチームを組んで当たってもらった。

贅沢な骨2(後篇)

  • 2010.07.28 Wednesday
  • 17:41

どれも本当に手間がかかっているが、一例として仏跳垣を紹介しよう。
これは福建省の料理で一週間かけて味わう満漢全席のメインなのだが、干し鮑、ふかひれ、月下美人の花、干し貝柱、ウミガメの涙、金華ハム、雀の舌等の材料をそれぞれ一流のものを用意した。
もちろん一人では用意できないので、手分けして集めてもらった。
ウミガメの涙はどうやって集めたのかすら見当もつかない。
レシピがわかるものが中国本土にもほとんどいないところを探しだし招聘した。
材料を冬瓜の中をくりぬいたものに詰め、蒸すのであるが、冬瓜の外側にメッセージを掘り込み、冬瓜の上部はバラの形に彫ってもらった。
そしてサーブする時は柚子で作った器に移して上澄みだけ飲んでもらうのだ。

関鯖だって獲るとこから始めているし、塩はペルーにまで採りに行った。
ここまでこれたのもみんなのおかげだ。

「ハッタリスト、MVPおめでとう!!」

一年前の月間MVPを祝われることに戸惑いを見せるハッタリスト。
「今日は思う存分食べてくれよな。」

順調に箸が進む。
メガネを曇らせながら時折「うめー。」「ふおおおお。」などと言っている。

メインだ。
素材を殺さぬよう火はほとんど通さず、ソースを少しつけて食べてもらう趣向。
濃厚な中にみかんの酸味がアクセントとなって死ぬほどうまいはずだ。
マフィアをだまして手に入れたケッパーも全体を支えているはずだ。

滂沱の涙に溺れながらハッタリストが
「僕はMVPを取ってよかった!あれから一回も取れないけど、本当に取れて良かった。」
と告白するのをじっと待った。

ハッタリストは一切れつまむと箸を置き、俺に言った。

「これは何ですか?」
「世界最高級の肉です。どうぞお召し上がりください。」
「嫌です。ちゃんと火が通っていないじゃないですか。」
「そんなこと言わずに。素材の味を最大限引き立てていますから。本当においしいんですから。」
「・・・・・。」

「そうは言っても肉が赤いじゃないかああああ!!」
ハッタリストは立ち上がり、皿をひっくり返して叫んだ。
そして滂沱の涙を流す我々を残してのしのしと去っていったのだった。

我々は床に溢れた涙を拭きながら、無心に掃除を続けた。

Camera!Camera!Camera!

  • 2010.07.27 Tuesday
  • 17:40

1.

旅行に行くとよく「写真を撮ってくれ」と言われる。
修学旅行で団体で動いているときもなぜか僕だけが声をかけられるし、
海外に行っても現地の人が明らかに外人である僕に声をかける。
なんでなの。

というわけで僕は、いろんな見知らぬ人たちをいろんなカメラで撮ってきた。
奈良では、寄り添うように立つ老夫婦を撮った。
北海道では、社内旅行でスキーに来たOLらしき人たちを撮った。
中国では、現地のおばちゃんを撮ってあげたらお礼もされなかった。
いろんな人がいるものです。

撮ってくれと言われたなかで一番記憶に残っているのは、
バルセロナのグエル公園で撮ってあげた二人組の男だ。
渡されたカメラはデジカメではなく、いまどきインスタントカメラだった。
若い白人の2人の男で、ひとりは車椅子に乗っていた。
車椅子の男は脚が悪いのではなく、病気なんじゃないかと僕は直感的に思った。
痩せすぎていたし、どうやらしゃべることもできないようだった。
これが、彼が死ぬ前の最後の旅行になるかもしれない。
そう思ってカメラを彼らに向けると、ふたりはニコリと笑った。
その笑顔に僕は泣きそうになりながら、パシャリとシャッターを切った。

2.

ある秋の日の夕方。
僕が住んでいるのはど田舎で何もないところだが、夕日がきれいなことだけは自慢できる。
世界に赤のフィルターがかかったようなあの光景は、
僕はいまだに自分が住んでいるところでしか見たことがない。
その日も空気が真っ赤に染まるような、たまらない夕焼けだった。
外に出て見ると、遠くでマフラーを巻いた女の子が夕日に向かってカメラを構えていた。
美しい夕日と、それを写真に撮る女の子。
僕はその光景を写真に撮りたかったが、手元にはカメラがなかった。

3.

夏の日、快晴、午前7時。
原付に乗ってまだ静かなベッドタウンの中を行く。
5歳くらいの子供3人が朝早くから遊んでいる。
半袖半ズボンの彼らの肌は真っ黒だ。
キャハキャハ笑っとるなあ、楽しそうやな、危ねえなあ、
と思ってスピードを落として横を通り過ぎようとすると、
子供のうちの1人がおもちゃのカメラを僕に向けた。
いっちょまえにカメラマンっぽく構えて。
仕様が無いのでニッコリ笑ってピースサインを送ったら、ワアッと飛び跳ねて喜んだ。
通り過ぎたあとバックミラーを見ると、2人はバイバイと手を振り、
1人は相変わらずカメラのシャッターを切り続けていた。

「お前ら(略)」と「ヒャッハー(略)」を読んで

  • 2010.07.26 Monday
  • 17:39


■2008/07/18 (金) お前らMVPじゃない俺様のいうことは聞かなくていい

■2008/07/19 (土) ヒャッハー、俺様には一票しか入ってないぜ! ハッタリスト


ここしばらく「誰が作品のメッセージや価値を決めるのか」という話をしてきました。
が、「それを決めるのは表現者の側ではない」ということに話がやや偏っていたかも知れません。
言うまでもありませんが、逆もまた然りなのです。
つまり、ある芸術作品が持つメッセージや価値は、鑑賞者がひとりで決めることもできないのです。

表現者は芸術作品によって「何か」を表現します。そして鑑賞者は芸術作品から「何か」を感じます。
それは必ずしも言葉で明確に表すことができるとは限りません。ジャンルと個々の作品によってまちまちです。

文学や歌詞など、コトバを媒体にした芸術の場合、ある程度ダイレクトにメッセージが伝わっていると思われます。
例えば「愛こそが君たちに必要な全てだ」という歌詞を、これといったヒントや文脈も無しに「皮肉の利いた戦争賛美だ」と理解するのは無理がありそうです。

一方で、抽象画や前衛芸術のように、一見しただけでは何を表現しているのか分からないケースも少なくありません。
例えば何の予備知識も持たずにピカソの『ゲルニカ』を見て、「これは戦争の悲惨さなどを表現している」と感じる人が一体どれだけいるでしょうか。
しかしメッセージが伝わりにくいからと言って、作者が何も表現していないことにはなりません。
ピカソは確かに何かを訴えているのです。

それゆえこのように言えるでしょう。
多くの芸術作品は、生み出された瞬間から「誤解」と隣り合わせなのだと。

表現者と鑑賞者たちの作品理解に食い違いがある場合、表現者の意見が通るケースは稀でしょう。
なぜなら前回書いた通り、作品への評価は社会的に構成されるものだからです。

社会からの反応を想像しながら作品を創ることはできるし、実際に多くの表現者がそのような手法を採っているでしょう。
しかし、逆算よりも自分の作品理解を重視するタイプの表現者もいます。
それは良くないことなのか。
表現者の視点から見た芸術を、もう少し考えてみます。

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