「始末書」を読んで
- 2010.05.31 Monday
- 21:46
これはコンテンツを形成している内容についても、またその媒体についても言えるでしょう。
媒体の方が分かりやすいので先に例を挙げると、映画は常に実在する風景と実在する俳優の映像を通して、まだ見ぬ物語を紡いでいくものです。
アニメ映画、CG映画であっても、登場人物が動いているそのアニメーションそのもの、CGそのものは実在しているわけです。
内容について言えば、例えば文学賞の選考委員が「人間を描けていない」と言って候補作をバッサリ斬るなんてことがあります。
特に純文学では、人間の現実というものを描くことが求められているのだと分かります。
とんでもない出来事が連続するようなアクション映画であっても、それに対する登場人物の感情の動きなどは我々現実の住人のそれをトレースしたものです。
ただし問題は人間の描き方ではなく世界の描き方だということには注意が必要でしょう。
さて、話がややこしくなっていますが、ここには一つのねじれがあるように思えないでしょうか。
つまりこうです。
我々は現実のかけらを拾い集め、それを現実とは違った風に組み合わせることによって芸術作品を作ります。
その一方で、ぶっ飛んだ言動を繰り返す登場人物や、とんでもない出来事の連続といった非現実的な要素を組み合わせることによって、現実を描くことが求められたりする。
これではまるでぐるぐる回る循環運動か、あるいは鶏が先かタマゴが先か、という話のようです。
けれども、よく考えてみればそうではありません。
非現実的な要素というのはすべて、現実的な要素の組合せでできた化合物にすぎません。
シャツのボタンを掛け違えるように、現実のかけらを敢えて違った風に組み合わせることで、非現実的な要素が出来上がります。
そのようにして出来た非現実の塊たちを、今度は現実的に組み合わせてみる。
このような複雑な工程を経て、ひとつの芸術作品は誕生しているのではないでしょうか。
だから、個々のフレーズは普通だけど、それらを繋ぎ合わせると何ともおかしな文になり、それが全体としてはまた現実的な文章に仕上がる、ということもまた、あり得るのだと思います。
■2009/12/23 (水) 始末書 by Mr.シルバー