それから  たりき

  • 2010.01.31 Sunday
  • 20:11

僕が今あなたのためにできることは、ただあなたの幸せを願うことだけです。

ただ願い祈るだけなら誰にでもできることかもしれません。しかしながら、僕にはそれ以外にするべきことが見あたらないのです。僕があなたのために何か力添えできることがあれば何でもしたいとは思うのですが、今の僕にできることはそんなに多くないのではないかと、そう思うのです。

高校の卒業式からはもう随分と長い月日が流れました。
その間に僕は、遠回りをしながらも何とか大学を卒業しました。就職しました。入社してまだ3年目ではありますが、自分なりに責任をもって仕事に励んでいる毎日です。

そんな中、特に最近は仕事が忙しいからでしょうか、昔のことを懐かしく思い出すことが多くなってきました。
もちろん、大学時代のことが大半です。授業にも出ずに遊んでばかりいた頃や、後輩たちを集めてよくお酒を飲みに行ったなどが思い出されます。
高校時代のときを思い出すこともあります。当時聞いていた音楽などを聞くと特に懐かしく思い出されます。ただし、僕が思い出すのは断片的な記憶のみで、その頃僕が何を考えていたのかなどはほとんど思い出されないのです。
その頃の僕は、あなたの目にどう映っていたのでしょうか。興味はありますが、聞きたくないような気もします。

当然のことかもしれませんが、あの頃から比べると落ち着いて物事を考えられるようになったと思います。今でもまだ間違ったり惑ったりすることはありますけどね。
今になってたまに考えることは、望むべくもないことですが、あの頃の僕が今のままの心でもっていたのならどうなったのだろうということです。二人の関係は、今ある記憶とは違ったものになっていたでしょうか。
本当に考える必要もないような馬鹿げた考えですけどね。

はじめにも言いましたが、僕が願うことはただ一つ、あなたが幸せであってほしいということです。あなたにいつも笑顔でいてほしいということです。あなたがあなたらしく元気で前向きに日々を過ごしていてほしいということです。
それだけです。
この声はあなたに届いているでしょうか。
この想いは、あなたに伝わるでしょうか。

サウナキング(第20幕)

  • 2010.01.31 Sunday
  • 20:10
何が起こったか理解ができなかった。
目の前でパンパンに膨れ上がった中年男が右へ崩れていった。
「ぬー。」と言いながら。

少し遅れて俺の全身に下から突き上げるような衝撃が走る。

平均台が壊れたのだ。
真ん中から真っ二つに折れた。
中年が左足を踏み込んだ衝撃で折れ、踏み込んだ分だけ中年は先に崩れてしまった。

「仕方がないな。DENCHの勝ちー。」
その場に似つかわしくないほど明るい口調でパイナップルは裁定した。
ご丁寧に俺に近寄ってきて俺の右手を上げようとする。
俺の右手は先程の打撃によってまったく使い物にならない。
しかしパイナップルは俺の手首をつかみ、信じがたい力でそれを持ち上げた。
ぐきぐきごきごきぼき、と複雑な音がして俺の腕は上に持ち上がった。
声が出ないほど痛かった。

「よかったなあ。だらしない勝ち方だけど勝ちは勝ちだ。」
「ありがとな。お前のおかげで手ごわかったよ。」
「はは。手ごわかったか、これが。」
声もなくうずくまっている中年の化け物にすっと寄っていくと右足を鞭のように振るった。
中年の左側頭部にしばらくパイナップルの足がめり込んで、その後ゆっくりと離れた。
中年は前に崩れ落ちた。

「ゆる、ゆるしてください。」
崩れ落ちた態勢で中年は腕を伸ばし、パイナップルの両足首にすがった。
「もう一度だけ、ゆるしてください。」
「もう女房も子供もいねえだろ。センター分けから七三にしたろ。こんなにでっかくなっちゃったら番台にも座れねえだろ。なーんにもできねえな、お前。」
「ゆーるーしーてーくれい!!」
中年が思いっきり足を引っ張った。

正確には引っ張ろうとした。
パイナップルの後ろにいた俺からは指に力が入ったことが確認できた。
その向こうで白いものが右から左に円運動した。
パイナップルはゴルフの素振りのように何かを振ったのだ。
一瞬の間があって辺りは血の海になった。
パイナップルが頭にタオルを巻きなおした。
彼が振ったものがタオルだったのだ。
彼は俺の方に向き直り、両足首に食い込んだ中年の腕をポンポンとこっちに投げてよこした。
俺の体は動かなかったからそれは腰辺りにずんずんとぶつかってぼとぼと落ちた。
中年の両腕は肘のところで切られていた。
そのまま標本になりそうなくらい美しい断面だった。
向き直ったパイナップルは返り血をたっぷり浴びて、赤鬼のようだった。

静寂と間違えてしまう程の轟音が、中年の口から発せられていた。

365日のラブレター

  • 2010.01.30 Saturday
  • 20:09
僕の不朽の名作『トレイン・キング』が12月度の最優秀作品賞を頂きました。
投票してくださった方、本当にありがとうございました。

MVP、最優秀賞で「うべべ」への投票が11票もありました。
レギュラーからの投票が色分けされていたので少し分析してみましょう。
その11票のうち、1票がレギュラーからの投票でした。
・・・ナニコレ。
これはもはや異様とも言ってよい結果だと思います。
11票のうち10票はレギュラーでない方々からのありがたい票です。
これはレギュラー陣の嗜好が世間からずれてきていることを示すのかもしれません。
作者自身が評価すると、より玄人好みに走ってしまうのは仕方ない面もあるでしょう。
これはお笑い芸人が作った映画に似ているかもしれません。
お笑いを極めし者が、お笑いを極めし者達と作った映画が
実際は全然客にウケない・・・など。
こういう場合、「客に見る目が無い」とさらに閉じこもってしまう傾向にあります。

逆にレギュラー受けしていた代表がハッタリストさんでした。
ハッタリストさんは雑兵日記を長い間支えてきたいわば重鎮です。
常に質の良い作品を生み出していくのが特徴です。
しかしなぜか最近はなかなか最優秀賞が取れずにいるようです。
この半年で唯一『官能小説の「か」の字も知らないあなたへ』で受賞しています。
こうなってくると『無農薬有機小倉アンパンマン』と似たり寄ったりな気がします。
何はともあれ、ハッタリストさんは偉大な作家です。
1月度はきっと最優秀作品賞を獲ってくれると思います。

最後にアンケートに答えてみたいと思います。
上・中・下の三部作の長編・・・前に長編を書いたときに評価が悪かったので、なかなか書く気になれませんが、要望があるならまた書いてみたいと思います。
「2010」で・・・次回あたりに書いてみます。
セメントでプリミエールのモニュメント・・・もう作ってます。

うべべを支えてくださった読者の皆様、読者の皆様の兄弟姉妹、読者の皆様の隣の家の人、読者の皆様の隣の人の愛人などに感謝したいと思います。
これからも頑張るので応援宜しくお願いします。

FOREVER FRIENDS

  • 2010.01.29 Friday
  • 20:08
先日、センター試験へ向かう受験生を見かけた。
満員バスの中、友達と談笑したり、参考書を広げたり、思い思いに過ごしている。
バスを降りれば、予備校の関係者とおぼしき人がマスクを配っている。
受験生に紛れて前を通りかかった僕には、さすがにマスクはくれなかった。

この季節になると思いだすことがある。
浪人時代のことだ。
センター試験も終わり、国公立試験まで直前。
しかも、タイミング悪く、風邪をひいて寝込んでしまう。
少なからず不安である。
そんな中で、高校の友人3人から1通の封筒が届いた。
一足先に京都の大学に通っている3人からである。
中には、北野天満宮のお守りと1通の便せんが入っていた。
便せんを開いて読んでみると、
「NIKE元気か。センターも終わっていよいよ勝負どころに来たね。センターどうだった?なんて今さら聞くまい。あとは二次試験頑張るのみ。俺たち京都にいて何もすることができないけど、せめての励みと思って、北野天満宮の御守を送ることにしました。これを身につけているだけで、合格間違いなし!(以下略)」
彼らも大学生活で忙しい中で、わざわざ手間をかけて便りを送ってきてくれたことが嬉しかったし、孤独に頑張っていく心の支えにもなった。
御守だけで合格するものではないのだが、この軽く背中を押してくれる感じが、気持ちの上でどんなに励みになることか。

後で聞いたことだが、御守というものは返さなくてはいけないらしい。
北野天満宮に行く機会はあったけれど、たとえその時にそれが分かっていたとしても、返すことはなかっただろうと思う。
北野天満宮の御利益が尽きていたとしても、彼ら3人の思いと僕の決意はそこに変わらず形として残っている。
つらくなった時は、それを手にとって見る。
他のどんないい縁起物よりも、その手紙と御守の方がいい。
僕にとっての神様は、その中にこそ存在するのだ。
僕の自慢の友達の証であり、僕がそんな関係を築いてきた証だからである。

十数年経った今も、年に1,2回は集まって、昔を振り返り、今を語る。
これからも、いつまでもよろしくお願いします。

「『等式のはなし』を読んで」を読んで

  • 2010.01.27 Wednesday
  • 20:07
僕はあなたのことが好きですが、それって一体どういう意味なのだろう、と昔からよく考えることがあります。

例えば、僕はあなたに出会ってから自分が変わっていくのを感じています。それまでの自分には無かったものがどんどん自分の中に入り込んできたからです。
そしてそれは正しい変化だと思います。
ありがとう。

あなたの全てを知りたいと僕は願いますが、あなたと僕が関わっている限り、あなたもどんどん変わっていくでしょうし、少なくともあなたの中の僕は変わり続けていくわけで、それをひっくるめてあなたの全てを理解したとしても、その僕を取り込んだあなたにいつまでも追いつけないでしょう。
これは無限に続く螺旋階段です。

どんなに深く愛し合うふたりでも、ひとつにはなれないと言われます。物質的にもそうですし、心が溶け合ってひとつになるということも、お互いがお互いを十全に理解するということもあり得ません。

しかし愛というのはそういうものではないでしょうか。つまり、突き詰めればひとつになれないと解っていてもなお、それを求めることが愛なのではないでしょうか。

部分的にそれが実現することは、ままあることだと言えるでしょう。
僕とあなたは同じことを考えている、と確信している時、僕はふたりがひとつに近づいたのを感じます。
同じ鼻歌を同時に歌ってしまった時、同じタイミングでお互いにメールを送ってしまった時、綱渡りをしていて向こうから綱を渡ってくるあなたと目が合った時、ステージが爆発的に上がったと感じます。

これは確かに大きな一歩です。
けれども僕とあなたの間を流れる大河は容易く割れてはくれないでしょうね。
なぜなら、確信を共有しているということもまた、僕一人の確信ではなくて、あなたと共有されていなくてはならないからです。
気がつけばまたこの階段です。
無限に続く螺旋階段で鬼ごっこをしているのです。

変わり続ける僕たちにとって、二人の関係は追いつくことのない鬼ごっこなのかもしれません。
しかし二人で無限の螺旋階段を上っていくという、その関係だけはきっと変わらない。
それが好きだということだ。
僕はそう思います。

今度あなたの意見を聞かせてください。
あなたの答えが僕の答えと違っても、僕はあなたと螺旋階段を昇っていきます。

P.S.
疲れたら同じ段に座って、下を眺めて笑いましょう。

P.S.2.
螺旋階段を後ろ向きに昇るあなたは大変だと思いますが、よろしくお願いします。

「等式のはなし」を読んで

  • 2010.01.25 Monday
  • 20:06

■2009/10/03 (土) 等式のはなし ハッタリスト


僕はあなたのことが好きですが、それって一体どういう意味なのだろう、とたまに考えることがあります。

例えば、僕はあなたに出会ってから自分が変わっていくのを感じています。それまでの自分には無かったものが自分の中に入り込んできたからです。
あなたの全てを知りたいと僕は願いますが、もしも実際にあなたの全てを知ったなら、どうなるのでしょう。僕は変化しなくなるのでしょうか。
そして、もしあなたも、僕を知ったことで変わっていっているのだとしたら。僕の全てを知ったとき、あなたは変化をやめるのでしょうか。

そのとき、僕とあなたは完全にひとつになっているのかも知れません。
もっとも、そんなことは実現しない話でしょうが。

どんなに深く愛し合うふたりでも、ひとつにはなれないと言われます。物質的にもそうですし、心が溶け合ってひとつになるということもあり得ません。
しかし愛というのはそういうものではないでしょうか。つまり、突き詰めればひとつになれないと解っていてもなお、それを求めることが愛なのではないでしょうか。

部分的にそれが実現することは、ままあることだと言えるでしょう。
僕とあなたは同じことを考えている、と確信しているとき、僕はふたりがひとつに近づいたのを感じます。
でも、あなたが本当にそう考えているかどうかは分かりません。あなたも同じような不安を抱いてはいませんか。
よりひとつに近づくためには、同じ考えを共有していることについての確信もまた共有していなくてはならない。そう思いませんか。

これは確かに大きな一歩です。けれども僕とあなたの間を流れる大河は容易く割れてはくれないでしょうね。
なぜなら、確信を共有しているということもまた、僕一人の確信ではなくて、あなたと共有されていなくてはならないからです。
この階段は数段上れば終わるようなものではありません。無限に続く螺旋階段のようなものだとは思いませんか。

それでも、僕はあなたとひとつになりたいと願うし、むしろひとつでありたいと願うのです。
もともとひとつのものが持つふたつの側面が再会しただけだと考えるのは、おかしいでしょうか。むしろキモいでしょうか。キモいですね。

でも、それが僕の正直な思いなのです。

Mr. M様へ
Mr. Mより

サイコロコロコロ

  • 2010.01.24 Sunday
  • 20:05
BくんとカリスマのUくんが遊んでいます。
Bくんは言いました。
「この投げ方でサイコロを投げると、より大きい数字が出るんだ」
Bくんが片目をつぶって、口をへの字にしてサイコロを投げようとしています。
『より大きいっていうのは、何と比べてより大きいのかな?』
「きっとこの投げ方以外のときってことだと思うよ。まぁとにかくやってみるね」
Bくんがサイコロを投げると、4の目が出ました。
「ほら、大きい数字」
僕にもやらせてよ、とUくん。
Uくんは両目をつぶって口をあんぐり開けてサイコロを投げました。
5の目が出ました。
『この投げ方だと5の目が出たけど』
「いやいや、それはただ運が良かったというだけで何の教訓もないよ」
もう一度やってみました。
Bくんは6、Uくんは3の目が出ました。
「ほら、やっぱりこの投げ方だと大きい目が出るんだ」
もう一度やってみました。
Bくんは1、Uくんは6の目が出ました。
『また勝っちゃったけど』
「いやいや、それはただ運が良かったというだけで何の教訓もないよ」

「とにかく。こんな偶然の一例だけで、僕の投げ方よりUくんの投げ方の方が優れていると言える理由はないね」
『僕もそう思うよ。でも、僕の投げ方よりBくんの投げ方の方が優れていると言える理由もないね』
「・・・」
『僕のはただの思いつきの投げ方だし、他にもっと画期的な投げ方があるかもしれないね。ところで何でBくんはその投げ方だとより大きい数字が出ると思ったの?』
「色々試してみて、これがより大きい数字が出たんだ」
『なるほど。“Bくんが実際に試した手法”という枠の中で、そう思い込んだんだね。それは“不要な枠”かな』
「そうみたいだね」
『ちなみに、僕の両目をつぶって口をあんぐり開ける投げ方は試した?』
「いや、試してなかったよ・・・」

『“不要な枠”というワードが出てきたら、とにかく恐れおののいてほしいんだ。最低でも2週間はおののいてほしい。おののき続けてほしい』
「分かったよ。でも、おののくって何?」

心のオリ

  • 2010.01.24 Sunday
  • 20:04
なぜ小説を読むのかと聞かれて答えに窮することがよくある。
自分でもよくわからない。読みたいからだと答えるしかない。
だが、くだらない本とおもしろい本の違いは何かと問われると、
僕は「自分の中に何かが残ったかどうか」と答えると思う。
それなりに読ませる本でも僕の中に何かが残らなければ、僕にとってその本は価値がない。
そしてその「何か」は、それがいったい何なのかがわからないものであればあるほど良い。

ビジネス本や自己啓発本の多くは、何かを残すように見えて何も残さない。
僕の経験から言えば、「役に立つ」「金になる」本は教科書と専門書だけだ。
これに対して、おもしろい小説は何も残さないように見えて何かを残す。
それも、決定的にわけのわからない何かを。

僕はこのわけのわからない何かを「澱(おり)」と呼んでいる。
おもしろい本は、僕の心に何かを沈殿してゆく。まったく無意識のうちに。
読んだ本の内容なんて忘れてしまうけれど、心に積もった澱は消えない。
その澱は僕の年収アップにはまったく貢献しないけれど、
それがなければ、僕は僕でなくなってしまうような気がする。

だがこれは、本を読むことだけによって心に沈殿するものではない。
見て、聴いて、読んで、思って、考えて、悩んだこと。
さわって、味わって、においをかいで、感じたこと。
誰かと会って、話して、聞いて、笑って、泣いたこと。
そう、僕が経験するすべてのことは、僕のからだを通り抜けて、僕の中に何かを残していく。
生まれた街の風景も、太宰治もビートルズも、伊丹十三の映画も、
親の思いも、兄弟のつながりも、友情も、ひとりよがりの懊悩も。
ぜんぶ、僕のからだを通り過ぎる。
通り過ぎるときに、ポトンとひとつのしずくを落とす。しずくは濁って澱となる。

いや、むしろ、僕の中にそれらの澱が残っているのではなく、
この僕の中に残った澱こそがまさに「僕」そのものなのではないか?
だとすれば、「僕」はつまり、僕が見てきた風景であり、僕が読んできた本であり、
僕が聴いてきた音楽であり、僕が出会ってきた数多くの人たちだということになる。
ぜんぶ、僕の一部なのだ。
そして逆に、僕は誰かの一部でありうる。
誰かは僕の一部となり、僕は誰かの一部となって、僕らは互いの中で生き続けている。

枠と数字当てクイズについて

  • 2010.01.23 Saturday
  • 20:03
関連があるかもしれない文章
■2009/10/18 (日) 枠(ワク)なんだよ粋(イキ)じゃないんだよ ハッタリスト
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関連がある文章
■2010/01/21 (木) 枠(ワク)に酔(ヨ)わされて うべべ

Uくんは、Aくんが想定する正解について何らかの予想を持っていたように見えます。
そうでないなら、例えば正解が350である可能性もあるのにわざわざ負の数を探すように進言した意図がわかりません。
Uくんが何の予想もなくあのような結果を導いたのなら、ただ運が良かったというだけで何の教訓もありません。
Uくんは、人間は絶対値の小さい整数を思い浮かべやすいのではないかという仮説、AくんやBくんの性格、Aくんがこのクイズを行おうとした意図に関する推察などを前提として、「正解は絶対値の小さい負の数である」などと予想したように思われます。

数字当てクイズを行うためにはどのような数を言うべきかという方針が必要であり、それが「枠」と呼ばれているものです。
「正の整数」という枠内では全ての整数の半分しか探すことができない、と言いたかったのかもしれませんが、整数は無限に存在するので半分も何もありません。
いかなる方針で探そうとも全ての整数を言いつくすことはできないので、あのような問題設定をした以上、答えを得られない可能性は当然あります。
前述したUくんの予想のように、問題を出している人などに関して問題の外の枠を設定しない限り、Uくんの方針が優れていると言える理由はありません。

まとめると、

・Uくんは正解についてある予想、すなわち枠を設けていた
・Uくんは自らが設けた枠について語っていない
・にもかかわらず、設定する枠が妥当かどうかを吟味することが肝心であると結論している

という話の流れです。

結論そのものには僕も同意しますが、今回のようなルールの数字当てクイズはその結論を得るための例として極めて不適当であると思います。

お手紙も募集中!!

  • 2010.01.22 Friday
  • 20:02
拝啓

いまだ寒さも厳しく雪の舞う日も見られる今日この頃、お変わりなくお過ごしでしょうか。

こちらは日々お叱りの言葉を受けながらも、心身ともに健康に暮らしております。
 
 
 
 
 
ウフ…
 
 
ウフフフ…
 
 
 
 
私ですよ、ワ・タ・シ。
ミスターピンクでございます。

あなたが私を忘れていても、私はあなたを忘れていないんですわよ?
あなたへの溢れる愛を伝えたくて、この手紙をしたためることにいたしました。

そんなことを書いてみたのはいいものの、愛っていったいなんでしたっけ?
誰かが教えてくれまいかとて、新約聖書を手にとってみれば。
 
 
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」

コリントの信徒への手紙一 / 13章 3節・4節
 
 
あらやだ、ちょうどそれを言おうとしていたところだったのよ?
愛は我慢強くて?世のため人のため?そして、おお、すばらしいものなんですのよ!

でも!
ちーがーうーの!

伝えたいのはそういうことじゃないんです。
そういうこともあるけど、そういうことじゃないんです。

切ろうと思えばいつでも簡単に切れちゃう細い糸、私とあなたをつないでいるのはそういうもの。
だけど、手を離さずにそれを持ってくれている、あなたに感じているものは感謝だけではなくて。

そういう気持ちを、愛って呼ぶこともあるんじゃないかしら?
この愛が、私の手紙の行間から、他の皆さんの文章よりちょっと隙間の多い行間から、伝わっていると嬉しいのですけれど。

それでは、いつかお会いできる日までどうかお元気で。

                             敬具

平成22年1月22日

                  あなたのミスターピンクより

読者様
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
追伸 今あなたの後ろにいるの。だけど振り向かないでkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk

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