昼下がりの情景 Mr.violet

  • 2008.09.30 Tuesday
  • 23:41
見上げると海が広がっていた。
目の前には空があった。
そして足元にはただ刻があるだけだった。 

気がついた。
あれは何なのか?
光はあった。
闇が見えた。
慧が見えた。
ただ光がなかった。
淡く遥かな望みが聴こえる。
枯れる花が蕾になった。
羽化した蛹は卵だ。
整然とした視界に混沌が割り込んできた。
水が低い方へ流れたのだ!
まさか、そんなことがあるだろうか?
熱い氷で喉を潤す。
足元をみた。
時がどの向きに向っているか確認するためだ。
どうやら無に向っているようだ。
とすれば勘違いか。
終末の嵐がきた。
地に這う意志は、まだ見ぬ希みに託された。
精研の綾。
先天に昇り群がる魂。
破られた殻が修復する。
偶々の必然。
朝が明け、夜が暮れる。

見上げると海が広がっていた。
目の前には空があった。
そして足元にはただ刻があるだけだった。

騒がしいな。
静寂が身を苛む。
辺りには何もいない。
空には雲が沈んでいる。
とても良い匂いだ。
雪が火になり、その火がいつの間にか闇に戻った。

草原には、死が広がっている。
いつの間にか昼が過ぎて春になった。
迷いは一人歩き出し、裾野に沈黙が響く。
明日が遠ざかって行き、過去がやってくる。
足を止めて、進むことだけ考えた。
新しいことにももう飽きた。
死から憐れみをかけられる。
なんと言う甘美か!
寒さと身がやかれ、心はどんどん冷たくなる。
諦めが手前で姿を消した。
どういうことだ?
光に続く闇が並んだ。
従容の櫂を打つ。
規して、華燭、紫火、虚なる幻影。

衝動が走り、期せずして、落ち着きが訪れる。
どんなことにも、構うものか。
軌跡が奇跡を信じ、音を立てる。
湧出の調べが集まる。
地を翔る旋転の夜も、泣き、躍る。
鈍い激痛がしつこく纏わる。
祝黙の馨りにより傾いでいる。
疏を深とも羅ともなす。
役目が終わる。
それは束縛だろうか、解放だろうか?
時が、右と虚空から集束を怖れて宙に弾かれる。
関わりと契りに似た転換が訪れる。
生命はまた、終わりへと映える。

そしてまた、鮮烈なる沈黙が世界を支配する。
純白に響く新しい光を見つけた。
過去の絶望が、やがて漆黒を纏う希望の未来へと道を拓く。

見上げると海が広がっていた。
目の前には空があった。
そして足元にはただ時があるだけだった。

ビルヂングの中 Mr.ホワイト

  • 2008.09.30 Tuesday
  • 23:35
仕事がグジャグジャしてきたから、ちょっと空でも見ようと思って、
オフィスのブラインドをガラガラとあげると、
夕方の黒く染まっていくちょうどその前の藍色の空で、
頭の中の黒い霧がスッと晴れて、自分はふうっとため息をもらした。
見下ろすと、正面の大通りは仕事帰りの人が行き交い、
一方通行の6車線道路には車がひしめきあって走っていた。
風の音と、エンジンの音と、クラクションの音が混ざり合う。
信号は赤と緑に煌々と灯り、何十ものテールランプがゆらめいている。
オフィス街の夕方はよいねえ、と思って、ふと、通りを挟んで向かいのビルに目が留まった。
あたりは暗く、向かいのビルの部屋には電気がついているから、
部屋の中の様子が昼間よりハッキリ見える。
4階、5階、6階は真っ暗で、7階。
4階の窓際にはデスクがあって、グレーの背広の男が電話をかけている。
5階の窓際には観葉植物が置いてあり、その隣のデスクで男がPCのキーボードを叩いている。
7階では水色の制服姿の女性が部屋の中をテケテケ歩いている。
ビルヂングの中。
人の上に人がいて、人の下に人がいる。
上の人は足元の人のことを考えることなく、
下の人は頭上の人のことを考えることなく、
それぞれがそれぞれで違う部屋にいて同じ建物にいる。
朝は、地下鉄の駅から人がワラワラと出てきて、この石の中へ吸い込まれ、
夜は、石の中から人がワラワラと出てきて、地下鉄の駅へと吸い込まれていく。
人口集中と機能集中と建築技術の進歩が生んだビルの群れは、
のっぺりとして愛想もなく、だからといってシンプルな美しさもなく、
あまりに大きな墓石として、末期へ向かう近代都市の死にゆく姿を象徴している。
ビルヂングの中、墓標の中。
階層化された墓石の中で、人はすれちがうことすらせず、ただせかせかと働いている。
「なんか蟻ンコみたいだな」と思った。
思った刹那、ふっと気付いた。
自分の足元には誰かがいて、自分の頭上には誰かがいる。
もうひとりの自分が、向かいのビルから自分を見ていた。
「お前もやっぱり蟻みたいだな」と、もうひとりの自分がつぶやいた。

ノンフィクション Mr.グレー

  • 2008.09.29 Monday
  • 01:50
僕は阪急電車で梅田から石橋に向かっていた。
いつものようにドアの横に立ち、車内広告を見ていた。
目の前には人の良さそうな丸メガネの外人が立っていた。

十三で僕の近くに座っていたおばさんが電車を降りた。
僕はその外人に目配せして座るように促した。
しかしその外人もどうぞと僕を促した。
お互いに促しあい、結局どちらも促されぬまま立ち続けた。

急行だったので豊中まで電車は止まらない。
ちょうど曽根あたりだろうか、外人が話しかけてきた。
「スイマセン、コレ宝塚行キマスカ?宝塚線ニ乗リタイノデスガ」
僕は、これが宝塚線ですと答えた。
外人は「ソウデスカ」と言ってお辞儀をした。
その時である。
さっき十三で降りたおばさんの隣に座っている黒服のババアが外人に話しかけてきたのだ。

「ウェアーユゴー?」

どうやら僕と外人が話しているのを聞いて、英語で話しかけてきたのだ。
しかし僕達は普通に日本語で話していた。英語で話す必要なんてこれっぽっちも無い。
「ア、日本語デダイジョブデス」
心優しい外人は、そのババアのヘタクソな英語に配慮してそう答えた。
こんなに空気の読める外人は世界広しと言えどもなかなか居ないだろう。
しかしババアは引かない。

「オーケー。ウェアーユゴー? ドゥユースピークイングリッシュ?」

愚かなババアは外人に向かって愚かな質問をしている。死ねばいいのに。
僕はこのババアを窓から岡町に放り投げようかと思った。
空気の読める外人は、その英語に英語で答えてあげた。
しかもゆっくり。分かりやすく。

そんなやり取りを繰り返しながら、その外人が箕面線に乗り換えたいのだということが分かった。
電車は蛍池を出発したところだ。
するとそのババアはとんでもないことを言い出した。

「ユーシュッドリターン豊中 アンド チェンジトレイン」

なぜか豊中に戻れと言い出した。
英語がヘタクソな上に情報すら間違っている。
早くこのババアの息の根を止めないと!

そのとき車内アナウンスが流れた。

『箕面線はここでお乗り換えです』

空気の読める外人は僕のほうをチラッと見て、「ナルホドナルホド」と言って笑った。
この外人が必要としている情報は、全て僕が与えていたのだ。
それを分かっているので二人でニヤニヤ笑った。

結局外人は先ほどのババアに付きまとわれて箕面線に乗り換えていった。
運悪く、ババアも箕面線だったのだ。
死ねばいいのに。

テン・ドウ・トロワ ハッタリスト

  • 2008.09.28 Sunday
  • 21:00
天童ってなんでしたっけ?

はい、山形県山形市の北に位置する将棋の駒作りで有名な街、それが天童市です。
ひょんなことから山形に行った僕は、なんの予備知識もなく天童に足を伸ばしました。
さすがです、天童駅の建物の中に早くも「天童市将棋資料館」が!
大きい資料館というわけではありませんが、わずか300円で将棋の歴史や駒作りの工程、昔の文献を見学することができてステキにリーズナブルです。
江戸時代の棋譜を見てみると、初手が三四歩と書いてあるではありませんか!
そういったものが複数あったので、棋譜の書き方も時代によって変化してきたのだな、と感慨深いものがありました。

後日そのことを人に話したところ、「駒落ちだったんじゃないのか」と問われました。
はい、確認していませんでした!
僕の目はフシアナでした!
本当に申し訳ありませんでした!

よって棋譜の書き方の真相は藪の中です。
それはそうと、外をふらふら歩いてみると歩道に写真のようなものが!
<img src="http://atuhqw.blu.livefilestore.com/y1p-qd6WVE_rvA9yVe5S8blrwG0wXRzBa91LLH7IGjueFUPdD4LsQluSucX_tSNnszVR2ogHf0dXCTqcJWQ83HsVg/tendo01.jpg">
<img src="http://atuhqw.blu.livefilestore.com/y1p3PRK9d0giLZS41Bv4EoPXNQiGhS8JOONM1P3gBKXh_wY83FKu5VSVOliVALVXslzW71J23DtJku8BTQYC0Whhw/tendo02.jpg">
見にくいかと思って2枚用意しましたが、両者は同じものを写した写真です。
いやあ、すごいですね、さすがですね。
この後、毎年恒例の「人間将棋」の会場である天童公園も歩きました。
でっかい将棋盤が地面に敷きっぱなしでした。うひょー。
 
 
さて、今回の天童行きで僕が落としたお金は、電車賃を除くと
資料館の観覧券300円
昼食の「板そば(ざるそばのざるが横に長いだけにしか見えない)」900円
喫茶店のケーキセット500円
で、合計1700円でした。
天童の印象は、観光資源の1つとして将棋を利用してがんばっている街、といったところですが、僕の1700円は足しになったのでしょうか?
駅のおみやげ屋で20万円の駒を売っていたところで、誰が買うというのでしょうか?
観光というのはどうもいろいろ考えさせられます。
僕が無知なだけです、気にしないでください。

マイ・スウィート・ロード Mr.ホワイト

  • 2008.09.27 Saturday
  • 12:18
朝からパソコンとにらめっこしていた自分の脳味噌は夕方5時に腐りきった。
頭が動かない。体も動かない。おれ、ビクともしねえ。地蔵のごとく。
はあっと一息ついたら、無性にシュークリームが食べたくなった。
脳味噌がシュークリームを欲している!腐りきったクソ脳味噌が!
夕方6時、仕事場Aから仕事場Bへ移動。徒歩15分。
その途中、コンビニでシュークリーム買って食べ歩き。
脳味噌の言うことには体は逆らえない。
脳味噌がコンビニへ入れと言えば、おれの体はコンビニへ直行する。
超従順。肉体はやはり理性を凌駕しない。あれ、逆か?まあいい。
シュークリームを食べながら中央大通りをトコトコ歩いていて異変に気付いた。
大失敗だ。やはり頭が動いていない。
シュークリームを半分食って回復した頭で、落ち着いて考えてみよう。
Q.今、何時か?
A.ちょうど仕事が終わる時間帯である。
Q.ここはどこか?
A.オフィス街のど真ん中である。
Q.路上でシュークリームを食うのに適した環境か?
A.No, No, No! 否、断固として否。
仕事帰りの大勢のOL・サラリーマンが帰宅途上にある中で、
ズタボロの背広姿のあんちゃんが、歩きながらシュークリームを一心不乱に食っているのである。
これはマズイ、マズイよー、なんかチラチラ見られてる気がするよー、
いま笑い声聞こえたの、おれのことじゃないの、勘弁してよー、見るな、おれを見るな!
大混乱。
おれにもわずかながらの誇りというものがある。
頭の弱いかわいそうな若年男性と見られることは潔しとしない。
とりうる手段は2つ。
一、シュークリームを食べるのをやめてとりあえずカバンに入れる。
一、とにかく早くシュークリームを食べてしまう。
後者を選ばないほうがよいという勘が働いたが、
おれは、後者を・・後者を選んでしまった・・。
やはり脳味噌が・・脳味噌が言うことをきかねえ。このクソ脳味噌が!
こうして、帰宅ラッシュの夕方6時、大阪のど真ん中、オフィス街の大通りにおいて、
信号待ち時間にシュークリームを早食いするさらにかわいそうな若年男性が現出したのです。
自分の人生の甘いひととき、マイ・スウィート・タイム(僕の甘いもの食べる時間)は一瞬で、
しかも満たされない心のまま、大いなる恥ずかしさとともに終わってしまった。
ああ・・。

案ずるよりも by NIKE

  • 2008.09.26 Friday
  • 20:37
「犬山君、今日の午後の会議の資料、全部目を通しておいてくれた?」
猿川課長が、部下の犬山と行きつけの蕎麦屋『雉田そば』から昼食をとって出てきたところで、犬山に尋ねた。
「はい、一応目を通しました。」
「そうか、今日の主題の件だけどね…」
猿川は、犬山に自分の意見を語り始めた。
話が長くなりそうだな、と少々げんなりしつつも、犬山は真剣そうに相槌を打つ。
案の定、猿川は自社ビル前の交差点を渡りながら、持論を滔々と語りはじめた。
犬山は相槌を打ちつつもふと猿川の顔を見て唖然とした。
今しがた食べたばかりの蕎麦が少々猿川の口元についたままになっているのである。

これから会議もあることだし、このままいくと恥ずかしい思いをさせ申し訳ない気がするのは確かである。しかし、正面切ってそのような指摘をするのは、上司の体面を傷つけそうであり、何やら気まずい。
何とか上司の面目を保ちつつもうまく気づいてもらう方法はないだろうか、と考えた犬山は、とりあえず自分の口元をさりげなく手で拭うような仕草をしてみた。
しかし、猿川課長は微塵も気づく気配はなく、話を続けながら社内のエレベーターに乗る。
「猫井君はああいうんだけど、僕は違うと思うんだよね…」
こうなると、もはや猿川の話は上の空である。
(やはり言うべきは言っておかないと、かえってこちらが悪いように思われるんじゃないか。いや、せっかく熱心に話している上司を前に、口に蕎麦がついているなどと指摘するのは話の腰どころか肋骨までバキバキと折ってしまいそうな気もする。)
頭の中で色々と葛藤を繰り返しながら、エレベーターを降りたときである。

「…で、君はどう考えてるの?」
悶々としている犬山に、猿川課長から突然質問が投げかけられた。
「え?えー…」
話をまるで聞いてないのだから、答えようがない。
「そ、そうですね。猫井さんより課長の意見の方が筋が通っていると思いますが…」
適当にごまかして切り抜けようとするが、猿川は黙ったまま次を促している。

もうここは蕎麦のことを指摘して話を逸らしてから話を聞き直すほかない、と思ったとき、
「ちょっと失礼」
猿川はトイレへ入って行った。
しばらくして戻ってきた猿川の顔には、蕎麦はついていなかった。鏡を見て発見したものらしい。
「…で、君はどう考えるの?」
猿川は再び尋ねた。
犬山は下痢を装ってトイレの方に向かい、始業時刻まで籠城した。

着脱式の世界 その0 byミッチー

  • 2008.09.26 Friday
  • 00:01
こんにちは。ミッチーです。
僕はこの頃、現代社会は着脱式の社会、あるいは着脱式化する社会だと感じるようになってきました。
あまりにも抽象的で曖昧なアイデアだったので、これまでどこにも書くことなく暖めてきました。
そうするうちに多少は具体的に、論理的に、そして体系的に叙述できるような気がしてきたので、この場を借りてそのアイデアを披露させて頂こうと思います。

どうしてこの場なのかというと、それはこの場の他に相応しい場所が見当たらないからです。
僕の専門は哲学ですが、これからご紹介するアイデアは社会評論に近いものです。だからゼミで発表するわけにはいきません。
この雑兵日記プレミエールは「日記」を冠しているとは言え、基本的には何でもありの真剣勝負です。つまりヴァーリ・トゥードのセメントです。
社会評論も当然アリでしょう。まさかイノキではないと思います。

読者の皆さんも様々な好みをお持ちだと思いますし、大変ありがたいことに、僕の余りイケてない文章に期待して下さる方もいらっしゃるようです。
そうした方々には、あるいは喜んでいただけるかとも思います。僕がこれから書こうとしているものは、正直かなりイケてません。

まずは目次です。

1. 据え置き型と携帯式・簡易式
2. 着脱性とモード
3. 着脱化と社会
4. 着脱化の起原
5. 重層化する着脱性

1では、据え置き型と携帯式・簡易式という2つの一般的な形態を対比的に描きます。前者については洗濯機、後者については電話などを想像して頂ければ結構です。
2では、身の回りのものが着脱式になっていくことで我々はどのような影響を受け、我々の生活や自己意識はどのように変化するのかについて考察します。
3では、個人の生活が着脱式になっていくことで、社会がどのように変貌してゆくのかについて考察します。現在、取りざたされている社会問題のいくつかを具体例として採り上げる予定です。
4では、着脱式という概念や着脱式という形態の導入そのものの起原について生活史的に考察します。
5では、着脱式であることが重層化してゆくという現象について考察します。モノ(の価値)→貨幣→電子マネーといった流れをご想像下さい。

こんな感じです。
書いているうちに収拾がつかなくなって冗長あるいは散漫になったりするかも知れませんがご了承下さい。
それでは、次回より始めたいと思います。

さがしもの Mr.violet

  • 2008.09.25 Thursday
  • 07:01
「眠れる分度器」という作品を知っているだろうか。
山田詠美の代表作である「僕は勉強ができない」の最後に番外編として載っている作品だ。
センター試験にも出題された文章なので、読んだことがある人もいるかもしれない。
私もこの文章を高校生の時に過去問で読み、この文章に魅かれ、予備校の近くのジュンク堂書店で、立ち読みした(買わなくてごめんなさい)という記憶がある。
この文章は、いわゆる昭和の小学校を舞台に、大人の価値観を押し付けられずに育っている秀美という少年を主人公として書かれた、教育に関する文章だ。

なぜこの文章に魅かれたのか?
まずはその題名だ。

「眠れる分度器」

なぜ分度器なのか?
またどうして「眠れる」なのか?

脱線するが、文章の題名というのは面白い。
その作品を一言で表し、一番初めに読まれるものであるのに、文章の種類によって題名のつけ方が違うからだ。
例えば、週刊誌、新聞の見出しは、インパクトのあるものが多い。
また、社会事象を扱う本、自己啓発本の類は、題名で、書いてある内容が一発でわかる。
そして、物語、小説は、ほとんどの場合、題名から作品のあらすじを知ることはできない。せいぜい時代背景や、場面などを知ることができるだけである。
題名のつけ方がこれほど違うのは、その読者に合わせているからだ。
新聞などは、情報の新鮮さと同時に他社との競争だからインパクトを、自己啓発本などは、読者の求める回答の内容を、小説は、作者の伝えたいことを一言でという風に(この意味を知るために読者は買う)。

さて、「眠れる分度器」である。
分度器はおそらく最もよく知られた文房具の一つであり、最も使用時期を限られる文房具だろう。
これほどポピュラーで、後に使用されなくなる文房具も他にないだろう。
私が思うに、人がその存在の正当性を疑わないもので、不当に扱われているものが多く存在していることに警鐘を鳴らすという作者の意図があるのではないだろうか。
それは、人や物といったものだけでなく、自分自身の性格や特徴、その行動でさえも。

最後にこの文章の中で印象に残っている箇所を一つ。
「生きてる人間の血には、味がある。おまけに、あったかい。」
という部分だ。
この時初めて、ただ漠然と生活しているだけでは本当の意味で生きていることにはならないということを眼前に突きつけられたように思う。

今の自分には味のある血が流れているだろうか?
それを日々問い続けている。

もっともっと遠いところへ がりは

  • 2008.09.24 Wednesday
  • 00:16
「逃げ出すことにしたんだ。もっと遠いところへ、誰もいないところへ。」
俺は一言もそんな類のことを訊いていないのに、お前はそう言った。
「へえ。」
俺はわざと気のない返事をした。
止めても意固地になって止まらないだろうし、興味を持つだけ持って盛り上げてしまうと、お前の頭の中で逃走劇が始まって、大体終りまで見えちゃって、テンション下がるわー、となってこの店すら出ることなく終わってしまうだろう。
大体、俺はこのような気の回し方をしてきた。
感謝されたことはまだない。
「へえ、じゃねえよ。もっと訊くことあるだろうが!」
「いや、ないよ。本気で逃げる奴は遠い所になんか行きやしない。誰もいない所になんか行きやしない。見つかりやすいからな。ありとあらゆる街でよそ者は浮いてしまう。街でなければ、人間=お前なわけだから一目でわかっちまう。そんなところに逃げていくなんて、いろんな意味で可哀そうで掛ける言葉も見つからないよ。」
「とか言ってすげーしゃべってるじゃん。」
必死に言い返しているものの、ダメージを与えることには成功したようだ。
「行けよ。さっさと。」
「うるせーよ!俺は俺のタイミングで行くっつーの!」
「お前、あれだろ、ゴール前ですげーボール呼んでるのに、いざボール来ると緊張してシュートできないタイプだろ。」
「はあ?」
「そんな顔してもわかるって。代打で出せととか言っといて一回もバット振らないで帰ってきちゃう口だろうが。」
「はああ?」
「代打で出れないとすげー文句言うんだけど、どっかで安心しちゃう感じだろ。わかるよ。」
「勝手に了解するんじゃねえ。」
「まあ、いじめるのもかわいそうだ。聞いてやるよ。どこに逃げるんだ?」
「ここではないどこか。」
「聞いて欲しいんじゃねえのかよ。」
「うーん、そこじゃないんだよね。」
「ほう。じゃあ誰から逃げるんだよ。」
「まあ、ポリス?」
「ここはアテナイからもシラクスからもどのポリスからも十分遠いぞ。」
「警察だよ。」
「わかってるよ。で、何をしたんだ。」
「まだ、してない。これからするんだ。」
「何か知らねえけど、やめとけよ。今ならまだ何もしてないんだからさ。」
薄気味悪くなって俺は止めた。
「でも、するんだ。俺は俺のタイミングでやるんだ。」
お前は俺と目を合わせもしない。
「まあ、落ちつけよ。な?」
「俺は、俺のタイミングで」
黒光りするものがお前のカバンから出てきて、それが銃だと気づいたのは大きな音がした後だった。

不幸な者、ミッチー がりは

  • 2008.09.22 Monday
  • 23:19
足りねえな、全然足りねえ。
ミッチーの付けたコピーは秀にして逸である。
ストロングスタイルをこれだけ簡潔に表現したコピーもない。

足りない、足りないと嘆くのは強欲な人だ、と一般に言われる。
何を隠そう、強欲の鎌足、いや塊と恐れられたこの俺である。
人のだろうと自分のだろうととにかくハードルを上げ続け、上げたハードルを決して下げない俺は、将棋を指せば相手の言うなりになるのを嫌い序盤から積極的に動き、相手の心がぽっきり折れてしまうほどの大差を築こうとするし、麻雀をすれば一人を飛ばすだけでなく、卓に着いた全員を同時に飛ばすことを目標にラス親で上がり続けるのである。
強欲な人、と眉をひそめる人もあっただろう。
特に同卓してた人。
違うのである。
ただ、ストイックなだけなんだ。
ただ、自分に厳しいだけなんだ。
真を追究しているだけなんだ。

ミッチーの日記のタイトル「求めよ、与えられるかどうかに関わらず」も正鵠を射たタイトルである。
どっかのひげもじゃのうつぼ野郎のように「求めよ、されば与えられん」としてしまうとそれは道徳命題ではなく、ただの快楽主義者、何かと引き換えにしか行動できない豚野郎の合言葉になってしまう。
そんなものは我々ストイックな求道者には必要ない。
道徳律は仮言命法ではなく、定言命法で語られるべきだ、とカント兄さんは言った。
いついかなる時もどんなことがあろうとも足りねえと言え。
それが道徳であり、善だ。

思えば日本の美学というのは足りなさの美学とも言える。
双葉山が69連勝を止められた時、「我未だ木鶏たりえず」
我らがスーパーヒーロー、マスは将棋界初の三冠を達成して「たどり来ていまだ山麓」
現代のヒーロー、柔道の石井慧は金メダルを取って「これからが石井の快進撃です。」
どうだ、これが美学である。
どんなに満ち足りた瞬間でも、満ち足りた豚野郎と罵られてもよい、満たされないソクラテスなんかよりずっとよいと心の底から思えるそんな瞬間でも、「足りねえな、全然足りねえ。」と呟いてみよう。
それが美である。

期せずして「真・善・美」が揃ってしまったが、これこそがプラトニズムであり、ソクラテスを陰で操っていた男の必殺技であるところに、ミッチーの暗い復讐を見ることができなくはない。

追いかけても手が届かないもの=イデア、を求めて我々は幸せになれない旅に出ます。
それが、プロとしての覚悟です。

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