親切論補足 がりは
- 2007.12.31 Monday
- 19:06
親切とおせっかいの違いも非常に難しいです。
同じことをしたとしても、受け取り側が「余計なことを!」と思えばすでにおせっかいになってしまいます。
親切を施す際には「おせっかいだと言われてもかまわない」「自分のためにやってます」というような覚悟を決めてやるくらいじゃないといらんいさかいとやり場のない思いを生むことになります。
この問題については非常に多くの実例、悲喜劇が報告されてます。
電車の中でおじいさんに席を譲ったにも関わらず固辞され、こっちも一度譲った席にまた座るような弱い尻をしてないからいやいやいやいやともう一度勧めると「わしはそんなに年をとっておらん!!」と激怒されたりしてますますその場に居づらくなる、という例や、公園を歩いていると野球ボールが転がってきたので拾って、向こうで手を挙げている少年に好返球したところ、それが実は右中間を真っ二つにした打球で攻撃側の子供から猛抗議を受ける、という例など、枚挙に暇がありません。
もっと踏み込むなら、女の子が近くにいる男前に拾ってほしくてわざとペンを落としたのに、少し離れたところにいたその女に気のある器量のよくない男がささっと拾ってしまい、ほめてもらえると思ってキラキラとした眼で顔を上げるとものすごい怒られた、という例もあります。
類似の問題としてはセクハラ問題「男前がいうかわいいねはセクハラにならないのに俺がいうとセクハラと言われる」があります。
自分のなす行為が世界にどのような影響を及ぼすかを斟酌しているうちに、状況は刻々と動いていって、結局なにもできなくなってしまいます。
本当の得を追求するにあたって、それが結局狭義の独我論に陥っていないかを検証するだけで一生が過ぎてしまうでしょう。
そのような一生の過ごし方もありかな、と思いますが、全員が全員そんなことをし始めたならみんな食べていけなくなるでしょう。
それは高等遊民にしか許されていない遊びです。
私は本編でも申しましたように、親切は「考えなくても体が動く、名もない人からのささやかなボーナス」だと考えています。
親切だらけで非効率な星が出来上がったなら、私はそれをとても面白いと思います。
自分のことをほっぽり投げて親切をしてしまう世界は、「あのペンから一番近い所にいるのは3mm差で私だ。だから私はあのペンを拾うべきだ。」と考えてから拾う世界より幸せな世界だと思います。
同じことをしたとしても、受け取り側が「余計なことを!」と思えばすでにおせっかいになってしまいます。
親切を施す際には「おせっかいだと言われてもかまわない」「自分のためにやってます」というような覚悟を決めてやるくらいじゃないといらんいさかいとやり場のない思いを生むことになります。
この問題については非常に多くの実例、悲喜劇が報告されてます。
電車の中でおじいさんに席を譲ったにも関わらず固辞され、こっちも一度譲った席にまた座るような弱い尻をしてないからいやいやいやいやともう一度勧めると「わしはそんなに年をとっておらん!!」と激怒されたりしてますますその場に居づらくなる、という例や、公園を歩いていると野球ボールが転がってきたので拾って、向こうで手を挙げている少年に好返球したところ、それが実は右中間を真っ二つにした打球で攻撃側の子供から猛抗議を受ける、という例など、枚挙に暇がありません。
もっと踏み込むなら、女の子が近くにいる男前に拾ってほしくてわざとペンを落としたのに、少し離れたところにいたその女に気のある器量のよくない男がささっと拾ってしまい、ほめてもらえると思ってキラキラとした眼で顔を上げるとものすごい怒られた、という例もあります。
類似の問題としてはセクハラ問題「男前がいうかわいいねはセクハラにならないのに俺がいうとセクハラと言われる」があります。
自分のなす行為が世界にどのような影響を及ぼすかを斟酌しているうちに、状況は刻々と動いていって、結局なにもできなくなってしまいます。
本当の得を追求するにあたって、それが結局狭義の独我論に陥っていないかを検証するだけで一生が過ぎてしまうでしょう。
そのような一生の過ごし方もありかな、と思いますが、全員が全員そんなことをし始めたならみんな食べていけなくなるでしょう。
それは高等遊民にしか許されていない遊びです。
私は本編でも申しましたように、親切は「考えなくても体が動く、名もない人からのささやかなボーナス」だと考えています。
親切だらけで非効率な星が出来上がったなら、私はそれをとても面白いと思います。
自分のことをほっぽり投げて親切をしてしまう世界は、「あのペンから一番近い所にいるのは3mm差で私だ。だから私はあのペンを拾うべきだ。」と考えてから拾う世界より幸せな世界だと思います。