鉄の海(37) by Mr.ヤマブキ

  • 2016.12.29 Thursday
  • 00:00

 その日はこの間の外来で肺癌を告知した71歳のMさんが入院してくる日だった。入院は午後からで、その日の午前にはCOPDで挿管されたNさんが退院した。人工挿管管理による筋力・体力の低下はあったものの問題なく呼吸器を離脱でき、リハビリテーションを行うことで以前の日常生活へと戻ることができた。肺気胸の方も自然に肺に空いた穴が塞がり、胸に入れていたドレーンチューブを抜去することができた。彼は、お世話になりました、と軽やかに頭を下げて病棟を出ていった。

 

 Mさんに癌告知をした次の外来で、妻と二人に病期診断を伝えた。PET-CT、造影MRIの結果が返ってきたのだ。T2aN3M1bStage検G湘尚棔多発骨転移を伴う進行肺癌だった。

 

「この光っているところ、全てが癌細胞です。もともと肩の痛みがあってレントゲンを撮られたときに見つかった癌でしたが、どうもその痛みは肩の転移の痛みのようです。他にも肋骨や手足にも小さい転移があります。あと、頭のMRIでは小さな転移が二つ見つかっています」

 

 言葉はなかった。

 

「そんなにたくさん」

 

 時の流れが急に緩やかになったかのようなしばしの沈黙の後、口をついたのは乾いた笑いだった。これは例えば芥川龍之介が手巾で描いたような、息子の死を笑顔で語る婦人のような類の笑いではない。狼狽や虚無からのため息のようなもので、行き場のない気持ちが喘いでいる。

 キューブラー・ロスという精神科医が提唱した死の受容段階というものがある。否認、怒り、取引、抑うつ、受容、の5段階である。必ずしもその通りになるわけではないが、少なくともその乾いた笑いは心からの否認だった。

 

「先生、僕はどうなるんでしょう」

 

 隣にいる奥さんはこわばった表情で何も言えずに固まっている。どうなるんでしょう、という質問は予後まで見据えたような聞き方だがまだそこには触れない。建設的な治療へ進むために診断は伝えるが、予後などはすぐに伝えないことが多い。

 

Mさんの肺癌は進行期の癌なので手術では取りきることができません。なので、抗癌剤治療を行うことが一般的です。肺癌のタイプとしては『非』小細胞肺癌、と呼ばれるタイプで、それに合わせた抗癌剤を選んで使っていきます。また、非小細胞肺癌の場合は、癌細胞を調べて特殊な遺伝子の変異があればそれに合わせた特殊な抗癌剤を使用することができます。これは分子標的薬とよばれる薬です。しかし、Mさんの癌細胞を調べたところこれらの遺伝子は検出されませんでした。なので一般的な抗癌剤治療を行うことになります。入院して抗癌剤治療をしましょう。今日は入院の予約をして、副作用予防の筋肉注射をしてお帰りください。何かご質問は、どうでしょう」

「……質問と言われても今はまだ」

「そうですね。いきなりのことですから、気になる点があれば今後いつでも聞いてください」

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