夢競馬の人々(198)  葉山 悟

  • 2013.12.18 Wednesday
  • 02:01
それでもサラブレッド達は疾走する。ただひたすらに疾走する。主戦場である競馬場の最高責任者が逮捕されようが、自分を育ててくれた調教師や、自分を選択し有り金を賭けてくれたファンが、今まさにその生命を終えようとしていても、ただひたすらに今という瞬間を駈け抜けて行く。サラブレッドという脆く儚いDNAに刻み込まれた<走る>という宿命・業は一体何のため、何が故のものなのか。<走る>行為の向こう側に蜃気楼のように見え隠れするものは吹雪のように舞い散る紙幣という名の紙束か、夕日のように茜色に輝く大好物の人参なのか。そもそも<走る>ことは大いなる逃走劇なのか、獲物を求める必死の追跡なのか。
あなたは手に触れんばかりの距離で実際のサラブレッドを見たことがあるだろうか。オリーブ油を薄くまぶしたような光沢を放つ毛並みは繊細で、まるで珊瑚礁に揺らめく触手のようだ。400から500キログラム以上の馬体を包み込む皮膚はあくまで薄く、巨体に張り巡らされた血管が今にも透けて見えそうだ。心臓が脈打つ度に薄い皮膚が凹凸を繰り返し、それ自体が別の生き物のようである。
何より特筆すべきは馬たちの双眸で、ただひたすら走る宿命だけを背負っている哀しみに満ち溢れている。じっくりとサラブレッドの瞳を見つめるがいい。見ているつもりが、こちら側の心の奥底まで見透かされていることに気づくだろう。まさにサラブレッドの透徹した瞳は哀しみに満ち満ちた湖そのものである。
天才と謳われ近代科学の父とされるガリレオ・ガリレイが、かつて「それでも地球はまわっている」と言い続けたように、僕達は、いや僕のように競馬というサラブレッドの大逃走劇にどっぷりと首根っこまでつかっている人間は「それでもサラブレッドは走り続ける」
と言い続けるしかない。
実際、競馬場の様子は何一つ変わることはない。いつも同じ時間に開場し、場長代理を筆頭とする職員や関係者が来場者を迎え、定刻通りに下見所で出走馬の紹介を終え、発走時刻になれば一斉にサラブレッド達がゲートを飛び出し、ひたすらゴールを目指して走り抜けて行く。電光掲示板にゼッケン番号が点滅し、お決まりの配当金が掲示され、これまたお馴染みの喜びの喚声、嘆きの溜息、怒声がわき起こる。場長が逮捕されようが、ヤクザの大親分が病死しようが、誰かが殺されようが何も変わらない。
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