鉄の海(114) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.03.14 Thursday
  • 00:00

 直接異議を申し立てた看護師のYさんが司会をする。

 

「お忙しいところお集りいただきありがとうございます。今日はTさんの治療方針について、スタッフの中でも色々と迷いがあり、現状と、今後の方針について確認し、意思統一できたらと思っています。それでは先生の方からまず病状と経過についてお願いします」

Tさんの治療にご協力いただきありがとうございます。Tさんは、元は認知症程度しか指摘されていなかった方で、要介護3で施設に入っておられました。今回は間質性肺炎急性増悪で入院されて、一時は人工呼吸器での管理が必要なくらい呼吸状態が悪化しましたが、治療に反応して無事抜管できました。間質性肺炎は安定しているので今後はステロイドを徐々に減量していく方針です。

 それとは別に、栄養の問題があります。挿管してから廃用に伴うADL、嚥下機能の低下や認知機能の低下があります。経口摂取が難しいため、経鼻栄養を行っていますが、何度もチューブを自己抜去されたので拘束が必要です。また、廃用や咳嗽反射の低下もあるため、十分に痰を出すことができず痰の吸引が必要です。認知症から介護への抵抗があるためリハビリもなかなか進まず、痰が切れないことも総合すると、今後口から十分に食べることは厳しい印象です。そこで、ご家族と話をして、栄養療法を進めていくことを強く希望されたので、胃瘻を造設する予定としています。以上です」

「先生、ありがとうございます。それでは、スタッフからの意見で、看護師からMさん、お願いします」

「はい、あの、Tさんなんですけど……吸引をするとき、すごく嫌がって、拘束する前は看護師を叩いたりつねったりされていました。拘束してからもすごい力で抵抗されて顔を抑えつけないといけないくらいです。Tさんが生きていくには今の治療が必要なことなんですけど、本当にTさんのためになっているのかなと思ってしまうことがあります。Tさんに関わった看護師の中で、そういう思いを持つ人が何人も居て、共有して、こういう会を開いていただくことになりました」

 

 こちらの視線にMさんが一歩引く。

 

「分かりました、つまり、看護師としては胃瘻をやめろということですよね?」

「先生、そうは言ってない」

 

 Yさんが引き取った。

 

Tさんの状態を見てすごくお勧めできる状態でないのは確かだから、積極的には勧めない方向で話を進めてきたけど、それでも娘さんの生きていてほしいという気持ちも本物でしょう。何度も説明していて、それでも救命する方向の医療を拒否するのは難しいよ」

「じゃあ先生、もう胃瘻する以外ないわけ?」

「だって、結論はするかしないかの二択なんだから。患者側の代表と医療側の代表で話し合って決めているし十分妥当」

 

 Yさんの背がすっと伸びて、形相が一気に変わる。

 

「一人で医療やってるんじゃないんだよ!」

鉄の海(113) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.03.07 Thursday
  • 21:13

 そのうち、母が病室に戻ってきた。まだ鎮静が効いていて、目を瞑り時々体を捩った。父が立ち上がり、ベッド柵に手をもたせて母の顔を覗き込んだ。頑張ったな、と一言かけた。まだためらいや迷いがあて、続いて声をかけることができなかった。そのまま二人で見守っていると、男二人で無言のまま立ち尽くしている画の滑稽さに気付き窓の外でも眺めてみる。そこにW先生が入ってくる。今度は冷たい息子だと思われたのではないか気になってすぐに向き直る。

 

「無事に終わりました。問題なくいけば、明日から水分を注入していきます。数日後には少量から栄養剤を入れ始めて、一週間もあれば十分な量に達することができます」

 

 W先生は微笑んだ。言葉には現れない前向きなエネルギーを感じた。それが、ベテランの域に入ったW先生の答えなのだろう。慎重な言葉は選びながらも、うまく引っ張っていってくれるような雰囲気がある。父なんかきっと心酔しているに違いない。

 

 そのあと、看護師が来て処置後のバイタル測定を行った。

 

Kさん、分かりますか?」

 

 母は半覚醒の状態で、呼びかけられると目を開けて頷くような状態だった。血圧計を巻かれて圧がかかると、圧迫感からか触って外そうとした。看護師がそれを優しく静止して素早く血圧を測り終える。どうですか、と父が訊く。普通何か起こるところでもないので、父との隔たりを感じた。看護師もその程度のことで、という気持ちもあるのではないかと思った。

 

「大丈夫ですよ、落ち着いておられます」

 

 その看護師も、そう言って父に微笑んだ。

 

「お一人のときは、御主人や息子さんのことを聞かせてくださるんです。お父さんはいつも心配性で私のことほっとかないんだって、体調崩されないか心配されていました。息子さんのことも色々……そうですね、早く結婚してほしいとか、そんなこともおっしゃってました」

 

 こちらをみて輝くように微笑む。彼女の手元に目をやると左の薬指には銀の指輪が輝いていた。

 

「母と仲良くしていただいて、ありがとうございます」

 

 胃瘻について何か言っていなかったか聞いてみたい気持ちもあったが、ついにそれは言い出せず、看護師は去り、母が目覚めてから父と二人で病室を後にした。

 

 翌日、Tさんの医療者カンファレンスが行われた。主治医と病棟の看護師、看護師もある程度担当が決まっており、関連の深い看護師が数人集められた。その他にリハビリのスタッフとして作業療法士、理学療法士、言語聴覚士、そして薬剤師、ソーシャルワーカーが集まった。

鉄の海(112) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.02.21 Thursday
  • 00:00

「娘様のお気持ちはよく分かりました。Tさんを大切に思っておられることも伝わってきました。では、胃瘻をしてみる方向で考えてみましょう」

 

 電子カルテから胃瘻の同意書を印刷する。

 

「こちらが同意書です。胃カメラを使って胃と皮膚に穴を通し、そこにチューブを入れます。合併症としては、穴を開けますから、出血や傷の感染があります。他に、胃の内容物が漏れると腹膜炎と言って、お腹の中に炎症が広がる場合があります。これは緊急の開腹手術を要することがあります。致死的な合併症を起こす割合はそれほど高くありません。ただ、Tさんの場合は大量のステロイド投与のために、感染や、傷の治りが悪いということが想定されます。よろしければ、こちらにサインをお願いします」

「やらないといけないんですよね?」

「このままよりは良いと思います」

「分かりました」

 

 そう確認した後はためらいなく記載する。五日後に胃瘻造設を行うこととなった。急にやろうと言ったのは、Tさんの娘の強い希望を無視できないばかりでなく、自分自身の中でも人工呼吸までして何とか間質性肺炎を乗り越えられたのだから、その積極的治療の方針を継続していくことが筋の通ったやり方なのではないかという気持ちもあった。胃瘻をしないのであれば中途半端に経鼻栄養で不快感の強い延命を行うのではなく、経腸栄養自体そのものを止めることを考えなくてはならないし、そこまで消極的にならなくてもよいのではないだろうか。迷いはもちろんあるが、積極的治療の継続という考え方も一つだ……。

 

 その翌日、母の胃瘻造設の前日のことだった。

 

「先生、Tさん胃瘻作るんですか?」

 

 看護師のYさんだった。大きな瞳がこちらを真っ直ぐ見上げてくる。

 

「そうだよ」

「医学的な判断は先生が決めることだと思うからそれは仕方ないと思うけど、私たちは今のTさんの現状を、どうしてあげていいか分からないんです。これでいいのかなって思うんです。だから……一度、医療者カンファをしませんか?私だけの意見じゃなくて、看護師の中でもどう対応していっていいのか分からなくて、今後の方針を確認したいんです。先生、明日はお休みでしたっけ、明後日の2時でどうですか?」

 

 翌日の母の胃瘻には付き添った。処置前の病室の母は表情はさほど変わりないものの、動くほうの手足の位置を数秒おきに変えていて緊張していることが伝わってきた。母が検査に出て、病室に父と二人で待っていた。互いに何か話そうとするのだが、話し始めるとそれはいきなり核心に突き当たってしまいそうで、二人とも口を開けないでいた。そうして凝り固まった時間に耐えられなくなって、意識は母の病室を離れ、昨日Yさんから受けた提案を思い出していた。

 Tさんに対してどうしていいか分からない、というのは納得できないということだ。思い返すと、自分の診療を否定されたような軽い苛立ちを覚える。ような、というより実際に否定されているのだ。今後の方針を確認したい、と柔らかな表現を選んでいるだけだ。どんな石ころも箱に入れて包めばプレゼントの体裁だ。

鉄の海(111) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.02.14 Thursday
  • 13:30

「どんな風に胃瘻のことを尋ねられましたか?」

「良くなるためには胃瘻が要るから頑張ろう?って言ったら、父ははっきり頷いたんです」

 

 Tさんは何月何日で今どこにいるのかも言えないくらいの認知機能だ。家族の問いかけに、見た目には反応してみせるがそれが全く本質的でないことはTさんと触れ合えばすぐに分かることだ。

 

Tさんの意志が重要なのはその通りです。Tさんは今、胃瘻がどんなもので、どのような苦痛とリスクがあって、どんなメリットを受けられるのか、理解しておられるでしょうか。首を縦に振るか横に振るかは聞き方次第です。Tさんの認知機能は医学的にみても十分な判断力があるとは言えないと思います」

「それじゃあ父の意志は分からないじゃないですか?」

「だから、推測するしかないんです。元気な頃のTさんが今の状況を見たら何と言うか。普段のふとした時にTさんが何とおっしゃっていたか。百まで生きたいな、とかぴんぴんころりがええわ、とか。そんなことを手掛かりにしながら、今の医学的状況と照らし合わせて考えるしかないんです。これは奥さんと娘さんにしかできないことです。Tさんはどう思われるでしょう」

 

 Tさんの娘は黙りこくって手元に視線を落とす。

 

「これまで、そういう話をしたことはありません」

Tさんはどんな方だったんでしょう。趣味や好きなことはありましたか?」

「父は、俳句を読むのが好きでした。そのために山へ行ってみたり海に行ってみたりです。……そういえば、山へ行くたび、自然に生きたいと言っていました。それがどれほど本気だったかは分からないですけど、そういう理想もあったみたいです」

「そういうことをおっしゃっていたTさんが今の状況をどう感じるかです」

 

 狼狽か、あるいは拗ねたような表情を浮かべていた彼女の表情が引き締まる。

 

「先生、かつて父はそうだったかもしれません。でも今は、そうではないかもしれないですよね。うん、と頷いてくれたのだから、父も頑張るつもりなんです。父には生きていてほしい。エゴでもいいんです。父にできる治療は何がありますか?」

 

 積み上げた意思決定のプロセスを全て投げ捨てられてしまう。すでに結論は決まってしまっていて、考えてもらうことが説得みたいになってしまう。これだけ意志が固ければ逆に後悔が少なくていいのかもしれない。

鉄の海(110) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.01.31 Thursday
  • 00:00

 信じられません、と泣き叫んだTさんの娘。あれから、抑制の同意を口頭でもらっただけで、まだ会っていない。だが、そろそろ一度胃瘻についても意見をもらわなくてはならない。進むべき道が定まらず中途半端な医療が続くと、医療の恩恵を受けられなかったり、あるいは医療の弊害から逃れられなかったりする。

 Tさんの娘の都合で二日後に病状説明の予定となった。それはちょうど母の胃瘻の日だ。業務に余裕があれば付き添いに行こうかと思っていたが、父一人に任せることにした。付き添いといっても処置中は病室にいて、母が処置から帰ってくれば、麻酔から目覚めるのを待っているだけのことだ。仕事なのだから有休を取ってもいいが、Tさんの病状を考えれば一度話をしておく方がよいに決まっている。そう思うと、ヒロイズムなどないと感じていても、単なる仕事と割り切っているわけでもないことに気付く。

 

「この前お話ししたことについて、ご家族で話し合われましたか?」

「はい、母と話しました。やっぱり、せっかく良くなったのに、何とか頑張れないんでしょうか。胃瘻がだめならあのチューブのままにしておくとか、何か他の方法はないんでしょうか」

 

 経鼻栄養の継続はチューブの劣化や留置部位の潰瘍化などの問題で1ヶ月が限度だ。

 

「チューブは傷んできますし、潰瘍ができてきたりしますからチューブを継続するというのはおすすめしません」

 

 前回も同じ説明をしているが、医者失格と言わんばかりに激昂していた彼女が、選択肢の仔細まで覚えていないことは無理もない。

 

「胃瘻がだめというわけではありません。今のチューブは鼻から喉を通っているので違和感が強いです。そうした不快感を軽減できるという意味ではむしろ胃瘻の方が望ましいです」

 

 信頼を得る話し方をする場合、できるだけ話を遮らないことも一つの要素だ。Tさんの娘が話し始めそうかどうか表情を伺いながら言葉を続けていく。

 

「ただ、今は栄養を続けるために両手を縛らざるを得ない状況ですし、胃瘻をしても抑制を継続する必要があるかもしれません。そうなれば、ベッドに括り付けられて人為的に栄養を胃に入れられて生きていくことの苦痛があるかもしれない。それを覚悟した上で栄養をやっていく必要がある、ということです」

 

 何か言いたげな表情なので、間を置いて譲る。

 

「実は、先生、父に胃瘻のことを訊いてみたんです。そうしたら、うんって言ったんです。先生は以前、医療は本人の意思が大事だっておっしゃってましたよね。父もやりたいんだと思うんです。本人がしたいと言っているのにやらないということがあるんですか?」

鉄の海(109) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.01.24 Thursday
  • 00:00

「胃瘻、するの?」

「やいあす」

 

 その様子をW先生はじっと見つめ、では早速処置の詳しい説明と同意書を持ってきましょう、と病室を出ていった。

 

「母さん、ほんとにいいの?」

 

 一つ頷いて、それ以上は何も言わなかった。こちらからもさらに何か聞くことはできなかった。とにかく、良かった。

 

 W先生が書類と共に、処置の説明をする。

 

「胃カメラで穴を開けて、処置をします。合併症としては傷の感染や出血があります。稀に自然に胃瘻が抜けてしまうことがあり、そのときは腹膜炎という状態になることがあります。緊急手術を要することもあります。ただ、通常は安全に行うことのできる手技です」

 

 父が代筆で母の同意書にサインをした。処置は三日後に行うことになった。

 

 母が胃瘻をする、と言ったとき、少し安心した。胃瘻を拒否するのではないかと思ったからだ。処置が嫌だ、とかそういった短絡的なことではない。母が過去に言っていた、ぴんぴんころりがいい、のその一言が重くのしかかっている。今の病状はとてもそれに叶ったものではないし、胃瘻という手段が今の状況を長く引き伸ばすものである以上、母がそれを望まないのではないかと思った。だから、胃瘻をすると母が言った事実は、ぴんぴんころりではなくとも、今の状態でも生きることに前向きなのかもしれないと推測できた。それで本当に安心したのだ。ただ、是が非でもやりたいという雰囲気はなく、じっと押し黙って話を聞いていたあの表情を思い出すと、何を考えてそう決断したのか分からない。本当はやりたくなくても、W先生に遠慮したんじゃないだろうか、なんてことまで浮かんでくる。ぴんぴんころりがいい、の裏側はしんどい思いをしてまで生きたくない、なので、胃瘻を勧めたことで恨まれているんじゃないかとさえ思ってしまう。今の病状についてどう思っているか、とても怖くて聞けなかった。これまでのお見舞いも頻繁にきている割には、良くなってきているね、などと当り障りのない表面的な前向きなことしか言えなかった。

 

 次の日、夢を見た。病室にいる母が点滴を引っこ抜き、鼻の栄養チューブを抜き、なんでよ、なんでよ、と父と自分に向かって責め続ける夢……。

鉄の海(108) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.01.17 Thursday
  • 00:00

 母は病室でテレビを見ていた。無表情で昼の情報番組を見つめていた。息子が来て話を聞いていることは知っているので、自分の治療方針について何か重要なことが話されているだろうことは分かっている。だからといって、思い詰めているような深刻さも読み取れない。蘇生の話をしたときは意識が十分でなかったので問題にならなかったが、今回はどんな受け止め方になるのか予想がつかなかった。

 そもそも、一緒に話を聞けばいいのだ。普段の臨床では患者本人と患者家族を基本的に同席させる。本人の思いと家族の思いがずれていて、そのまま意思疎通が図れずに話が進んでいくことが多い。本人が病状を十分に知ることができず、家族主体に話が進んでしまって、後々こじれる例が散見される。それでも自分のこととなると、やはり悪いことをすぐには母に聞かせたくないという気持ちが優って、どうしてもこんないびつな形になってしまう。普段やっていることと今自分のしていることの乖離に苦笑が漏れる。いや、でもこうしてすぐに伝えるのだから許容範囲内だろう、と下手な言い訳を自分に聞かせる。

 

W先生からお話があるって」

 

 W先生は軽く頷き、ベッドへと大きく一歩近づいた。母の枕元で話を始める。それは当然と言えばそうなのだが、その一つ一つの当然さがW先生への信頼をもたらしている。

 

「今回、大きな脳梗塞で入院されました。入院した頃は意識もはっきりしない状態でしたが、徐々にできることが増えてきています。それは、御自身でも実感があると思います」

 

 母は何も言わず軽く頷くだけだった。

 

「ただ、お話をすること、食べること、麻痺した手足を動かすこと、これらを生活できるレベルまで戻すのはかなり時間がかかります。今後もリハビリを続けていくことで、必ず前向きに進んでいきますが、とはいえ、長い戦いになることも確実です」

 

 核心に近づいていくと、こちらが緊張してしまう。ゆっくりと両手をポケットに入れて、握り拳の手汗を拭く。

 

「そうなると一番の問題は当面の食事になります。今は鼻から入っているチューブから直接栄養を送り込んでいますが、長期間使うことは難しいですし、胃瘻、という方法をお勧めします」

 

 母は何も言わない。W先生もそれに反応して、表情を伺いながら慎重に言葉を継ぐ。

 

「ご存知かもしれませんが、胃瘻はお腹からチューブを入れて直接栄養を送り込む方法です。手術などではなくて、胃カメラの処置でできるものですし、作ってしまえば不快な鼻のチューブも抜くことができます。それに、いったん作ってもリハビリを続けて食事ができるようになれば、胃瘻も抜くことができます。メリットが大きいので、お父さんや息子さんとも、お母さんが嫌じゃなければ作りたいね、とお話ししていました」

 

 母は黙っていた。

 

「すぐには決められないかもしれないので、少し、考えてみてもらえませんか?」

「……あう」

 

 そのとき、母が、やる、と言った。

鉄の海(107) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.01.03 Thursday
  • 02:58

 母の容態は落ち着いていて、ほんの少しずつでも回復してきているのが分かるにつれ、自然と見舞いに行く回数も減ってきた。脳梗塞の直後はこれが最後かもしれないという気持ちがあったが、今はその強迫感も薄れてきた。そんな中、父と二人で病状説明に呼ばれた。

 

「お母さんは急性期の状態を何とか乗り越えて、徐々に容態は安定してきています。ただ、残念ながらある程度後遺症を残すことになりそうです。具体的には左半身の麻痺、話のしにくさ、飲み込みにくさです。リハビリを進めていくことで、ある程度は機能を取り戻すことができますが、完全に戻ることは難しいと思います」

 

 父と二人で頷いた。入院していると、入院している非日常から、家に戻ればまた日常が戻ってくるような錯覚に陥ってしまう。つい、治らないということを忘れてしまう。頭では分かっていても、今一度言われると、その現実を噛みしめる。

 

「当面のことを考えると、まずは食事をすることが難しいです。長期間、例えば年単位でみればまた食べることができるのかもしれませんが、今はかなり難しいので、代わりの栄養方法を考える必要があります。胃瘻という方法をご存知でしょうか。お腹に穴を開けて直接栄養を送る方法です。それ自体は比較的容易に作ることができます」

 

 胃瘻、の言葉が出て、予想していても身構える。

 

「老衰で回復の見込みのない患者さんであれば別ですが、お母さんはまだ回復の可能性が十分に残されていますし、思考力も保たれている状況ですから、胃瘻をお勧めします」

 

 W先生の言うことは非常に明快で、非医療者の父どころか、医療者でもそれしかないと思わせるような話しぶりだった。それでも、母の、ぴんぴんころりがいいわ、という言葉を思い出す。母はどんな生き方を、どんな死に方を望んでいるのだろう。お見舞いに来て話している感じでは、ここで終わることをよしとしないと思うが、でも、本心はどうだろう。

 

「先生、実は、母は昔からぴんぴんころりがいいと言っていました。もちろん、死に直面して意見が変わる例の方が多いことは分かっています。ただ、本当に母がどう考えているか、一度確かめてもらえないでしょうか」

 

 W先生はこちらを見つめて何も言う気配がない。それに気圧される。

 

「母には、訊いてみます。同意書を書くのはそれからにしていただけますか」

 

 W先生の眼差しは、かつての指導医の厳しさと優しさを思い起こす。散々患者に、どこまで治療しますか?どこまで延命をするつもりがありますか?と訊いているくせに、自身のことになれば他人任せの有様だ。W先生はそれすらも見通しているような雰囲気さえある。とにかく、医者として、息子として、訊いてみないと始まらない。病状説明を切り上げ、父と、W先生と母の居る病室へと向かった。

鉄の海(106) by Mr.ヤマブキ

  • 2018.12.13 Thursday
  • 00:00

 Tさんの胃管を入れ直して、身体抑制を再開する。すでに、挿管したときにもらった同意書はあるので、改めて署名してもらう必要はないが、一応Tさんの娘には電話で連絡しておく。

 

「行って父にはよく言い聞かせますので」

 

 認知症であることを十分に理解していないような返事。言い聞かせられたなら抑制を解除してほしいということだろう。色々と言いたいことはあるが、電話での議論は言葉尻を捉えてこじれやすいので、特に指摘はしなかった。が、今後の医療の判断にとって、認知機能が保たれているという前提で話をされてしまうと厄介だと予感する。

 Tさんの治療方針としては、徐々にステロイドを減量しながらその都度変化に対応していくしかない。それよりも療養場所を決める必要があって、まずはどこまで栄養をしていくかを決めて、それに応じて受け入れ可能な場所に移る。一日中喀痰吸引が必要な今の状況なら、おおむね療養型病院になるだろう。下向きの戦いだ。生き返るためではなく、どう軟着陸するかの問題だ。Tさんの娘にそれを受け入れられるだろうか?まだどこかで元通りになるんじゃないかと期待しているのではないだろうか。いや、期待は誰でも持つ。期待に囚われるからこそ身動きが取れなくなる。片目は希望を見ても、もう片方は足元を見ていなければつまずいてしまう。

 

 翌日、Tさんは熱を出した。痰が増えて吸引の回数が増えた。頻回の吸引のために、気道粘膜が傷つき、血液混じりの痰が引ける。懸念していた誤嚥性肺炎だろう。抗菌薬の投与を開始する。感染による消耗でまた一層Tさんの栄養状態は悪化するに違いない。そうした体力の低下がさらなら感染症を招く。その負のスパイラルを抜け出せるかどうか。間質性肺炎はステロイドで治し、経腸栄養で栄養を補充し、リハビリで体力をつけて、誤嚥性肺炎になればその都度治し、その問題それぞれはクリアされていても、それでも持ち上がってこないことがある。その方が多いくらいだ。効果があることを全部やって、後は次の肺炎が起こらないことを祈るしかない。

 看護師から聞くところによると、その晩、Tさんの娘がやってきてTさんに声をかけていたそうだ。お父さん、栄養のチューブ抜いたのね。お父さんはまだご飯を食べられないからそれがないとだめなの。言うこと聞いてくれないとそれは外せないの。ほら、それは触っちゃだめよ、点滴なんだから。それでお父さんの肺炎を治療してるのよ。Tさんの娘が言うと、Tさんは大人しく頷いていたようだ。それを聞くと、もしかすると、実の娘の介護が一番回復するのではないかという気もしてくる。

鉄の海(105) by Mr.ヤマブキ

  • 2018.12.06 Thursday
  • 00:00

 翌朝、Tさんは栄養剤を注入するために鼻から入れたチューブを自分で抜いていた。夜勤の看護師から朝一番に電話がかかってきて、チューブを入れ直してほしい、と言われる。Tさんがチューブを抜いたのは、人工呼吸器を外したときに、身体拘束を解除したからだ。リスクが少なければ、必要最低限にとどめるのが倫理的に当然のあり方だが、これが続くようなら再度拘束せざるを得ない。

 Tさんのもとへ向かい、鼻からチューブを入れ直しますよ、と声をかける。理解できないのか、しかめ面のままで特に返事はない。鼻の右穴にチューブを当てると、案の定顔を背ける。看護師が、頑張りましょうねえ、と声をかけて頭を手で動かないように押し付ける。その間に鼻からチューブを入れていく。あーっ、いやーっ、とTさんは叫び、手で払いのけようとする。もう一人看護師の応援を呼び、両手を押さえつけてもらう。チューブは途中まで入ると、引っ掛かってうまく入らなくなる。本来なら、喉までチューブが来て地点で飲み込んでもらうのがいい方法なのだが、従命できないTさんにはそれが難しい。むしろ、異物を吐き出そうと喉が拒絶して余計にやりにくい。すると、時間がかかり、いっそうTさんの拒絶は増してしまう。

 四人部屋なので、隣の患者が声を聞いてこちらを覗いている。十分以上格闘して、ようやく奥まで入った。次も入れられるか自信がない。ともあれ、これで朝ご飯を注入できるというわけだ。栄養剤は速いと一時間程度で400mlくらい入れる。もし、注入しているときに抜かれてしまうと、その途中で、注入している栄養剤を大量に誤嚥してしまう可能性がある。毎回抜かれて入れるのは手間的に現実的でないと同時に、そもそも患者自身の安全からも許容できない。一度目は見逃すが、次は……いや、次もきっとあるだろう。一度気になって抜いたものを、また抜かないという保証はどこにもない。普通は次もあると考える。だが期待したくなる気持ちもあるのだ。

 

 その日はとうとうチューブは抜けなかった。夕方に診に行ったときもTさんは穏やかに過ごしていた。問題の先送りだと薄々感じつつも、そのまま経過することを祈った。果たして、翌朝、Tさんの胃管が抜けたので入れ直してくれと連絡が来る。

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