鉄の海(124) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.23 Thursday
  • 00:00

 田中さんのレントゲン画像は明らかに悪化傾向にあった。前回はもしかすると増悪かもしれない、というレベルだったが、今回は反対側の肺にまで陰影があり悪化を隠し切れない。まだ呼吸状態は悪くはないものの、前回のような急激な悪化がいつ起こってもおかしくない。もう一度ステロイドパルス療法に踏み切るよりなかった。

 

「もしもし」

「あ、先生……胃瘻のことはまだ……」

「そのこともあるんですが、今回は別の件です。間質性肺炎が悪化してきている可能性があります」

「えっ、この前は安定していましたよね?」

「そうです。ただ、以前のように急激に悪化するのが間質性肺炎です」

「……そうでしたね。先生、どうかよろしくお願いします」

「前回と同様に大量のステロイド投与を行いますが、これでも悪化するようならかなり状況は厳しいかもしれません。何かあればまたご連絡します」

 

 彼女はこれまでのように取り乱すことはなかった。これまでの長い話し合いを通り抜けて一つの信頼関係が芽生え始めていた。それに加えて、娘さんの中で田中さんの死というものが入院前と比べて遥かに身近なものとなり、受け入れる準備が徐々にできてきているような気がした。

 

 翌日、外来前に診察したときは何ともなかったが、外来中に呼吸状態悪化の知らせが来る。

 

「先生、さっきから全然酸素上がらない。リザーバー10Lです」

 

 困難というものは困難の上に降りかかってくるもので、急変するのはいつも外来や重要な病状説明をしているときなのだ。

 

「娘さんに来てもらって。昨日少し話してたから状況はある程度分かってもらえると思う」

 

 外来はどうしても早く終わらせなければならない。必然、早口になり、いつもなら生活の話を聞く数分も削って、処方箋の発行と受診予約を取るだけの味気ない外来にせざるを得なかった。大丈夫ですよ、問題ないですよ、もう少し様子をみましょう、を普段の倍は言っただろうか。こういう多方面からの圧力が歪みを生み、ミスの温床となる。普段なら念のため検査しておくか、というものを今日は行わない。その場の判断としては、やってもやらなくても正解なのだが、稀に念のための検査が救ってくれることもあって、だからこそそれをせずに捌くのは医療者側の気がかりとなってストレスを感じてしまう。

 

 何とか全員の診察を終えても田中さんの状態は横ばいで保っていてくれた。病室に向かうと、娘さんは深刻な表情で付き添っていたが、以前のような攻撃的な印象はなく、落ち着いた目をしていた。この様子なら踏み込んだ話もじっくりとできそうだ。

鉄の海(123) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.16 Thursday
  • 00:00

「母さん、そろそろ退院のことを考えないといけないんだけど、家に帰るか、施設に入るかどっちがいいだろう。家だと俺一人で母さんのことみる時間が多いけど、色々とサポートも受けられるみたいだから、母さんが帰りたければやってみてもいいかなと思ってるんだが……」

「しせう」

「しせつ?」

 

 母が頷く。

 

「本当に施設でいいのか?家で過ごしたくないか?」

 

 父は内心ほっとしているようなところもあった。だが、母の気持ちは本当にそうなのだろうか。入院当初に毎日のお見舞いは要らないと気を遣っていたくらいだ。今回も父のことを推し量っていて、ほっとした父はまんまと転がされているだけなのかもしれない。

 

「母さん、遠慮してない?父さんのことを思ってだったら、正直に言ってほしい」

 

 自分で何かするわけでもない息子が言うには無責任すぎる言葉かと思ったが、本音を聞いておきたい気持ちが勝った。

 母は天井を見つめ、小さく首を横に振る。

 

 小学生の頃、近所の一つ上の男の子に木の棒で叩かれたことがあった。それは右目をかすめ、右眉に当たった。今でもその傷が残っている。周囲からは評判の良くない家で、金髪で筋肉隆々の父親と派手なメイクの母親の家庭の子だった。僕と同じ遺伝子を持つ気弱な父は男の子が遊べばこれくらいの傷は付くと言うのだが、母は目に当たっていたらどうするのかとその子の家まで物申しに行った。父も止めようとしたし、僕も子供ながらに不安で母を止めたが、頑として聞かず、結局その両親を黙らせてきたことがあった。

 普段は穏やかでも正しいと感じた決断は絶対に曲げない母だ。今回も、家族を守ろうと施設を選ぶ決断をしたのかもしれない。そうなってはもう何を言っても無駄だろう。眉毛の下で歪に盛り上がった皮膚をなぞる。

 

「本人がそう言うんだから、施設にお願いしよう」

 

 そう決めて、病棟の看護師に話し合ったことを伝えた。この性格だから、できれば母の本音も聞き出してほしい、とも伝えた。

 

 ぴんぴんころりがいい、と言っていた母に、胃瘻を作り、施設に入れさせる。その場その場では母の意向も知りながら現実的な判断をしてきたつもりでも、事態はその心と全く逆方向へ進んでいく。母は本当に僕たちの決断を支持してくれるのだろうか。恨まれてないだろうか。いつか見た、全ての器具を引きちぎり泣きわめく母の夢を思い出す。まだ、それを聞き出す勇気は持てない。

鉄の海(122) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.09 Thursday
  • 00:00

 胃瘻を造設した後、母の経過は順調だった。栄養剤の注入量も徐々に増え、胃瘻だけで一日の必要な栄養を確保できるようになった。担当の和田先生から病状説明があるとのことで、父についていく。

 

「お母さんの経過は順調です。特にトラブルなく胃瘻を使用できています。今日お呼びしたのは、今後の行き先についてです。医療としてはかなり安定しておられ、後は胃瘻とリハビリの継続でいけると思います。医療の介入が必要なければ、そろそろ退院を考えていかなければなりません。行き先はいくつか選択肢がありますが、療養型病院はまだその時期ではないと思いますので、胃瘻でも受け入れてくれる施設か、あるいはご自宅か、ということになるでしょう。その辺りは介護力の問題や、お母さん自身のご希望などと擦り合わせて決めていくことになります」

 

 怯えたような顔で父が僕を向く。

 

「ちょっと、すぐには……、いつまで病院に置いていただけるんでしょうか」

 

 和田先生がオーバー気味な笑顔を父に見せる。

 

「大丈夫です。追い出すようなことはありません。普通に行き先を決めていただいて、次のところへ移る用意が出来たら退院です。中には移りたくないからとわざと決めるのを遅らせるような方もいますが、そういった悪質なものでなければ何か催促するということもありません」

「それを聞いて安心しました」

「どこに行くかは難しい問題です。自宅というと全部自分でしなければならないようにも思えますが、介護保険を利用してヘルパーに来てもらうこともできますし、往診医を手配して、月に二回程度診察してもらったり、訪問看護を導入して週に一回くらい状態を把握してもらうなど色々とサポートは受けられます。なので全部一人でする必要はないです。ただし、例えばヘルパーさんが来ても一日中いてくれるわけではありません。一日のうち、二十三時間くらいはご主人がサポートする必要があるのも確かです」

 

 父の喉仏が悩ましそうに低く唸ってみせる。

 

「うまくできるかどうか……ちょっと難しいんじゃないかな……。あいつが帰りたいといえばそうしたい気持ちもあるけど、逆に私が不行き届きだとあいつに迷惑がかかるんでしょうし」

 

 家のことの多くを母に任せていた父が、意思疎通もやや不十分で胃瘻のついた母を一人でケアすることに抵抗があるのは容易に想像できる。母を施設に入れても、まともに一人暮らしできるかが心配なレベルだ。

 

「そうお考えであればそれでもいいと思います。お母さんが家に帰りたい希望があって、それを叶えようと無理をしても、共倒れになってしまうとお互いに不幸な結果になることもあります。一度お母さんのご意向も含めて考えてみてください。他のご家族のご協力も得られるかどうかなども……」

 

 和田先生と目が合ってどきりとする。簡単に休んだり辞めたりできないことは和田先生もよく分かっているはずだ。それでも、父と母の息子は僕しかいないのだ。

鉄の海(121) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.02 Thursday
  • 00:00

 翌朝、田中さんの娘さんが病室に佇んでいた。父親の姿を一点に見つめ、顔には夜の戦いの痕跡が刻まれていた。

 

「おはようございます。だいぶお疲れですね」

「そうなんです。なかなか寝てくれなくて。何か見えてるみたいに目で追いかけたり、家に帰るって何度も起き上がろうとしたり、なだめるので大変でした。毎晩こんな感じなんですか?」

「時期もありますが、最近はこの調子ですね。せん妄です」

「……父に付き添っていると、父が戦っているのが分かります。苦しい戦いだと思います。苦しんで、苦しんで……それで、その先良くなることはやっぱりないんでしょうか。持ち直すことはもう絶対にないんでしょうか」

 

 あえて何も言わずに彼女を見つめる。

 

「難しいことだとは分かっています。でも生きていてほしいんです」

 

 疲労でくすんだ瞳が真っ赤になって涙がこぼれ落ちる。

 

「……先生がなぜ付き添ってほしいっておっしゃったかも分かりました。父が生きていくというのはこういうことなんですね。縛られて自由を奪われて、何度も点滴を取り直したり、つらい吸引をされたり。ずっとこの辛いことを受け続けないと生きていけないんですね」

 

「そうです」

 

 大きく深く、一度だけ頷いた。

 

「今は、今は……まだ決められません。どうしたらいいのかもっと分からなくなりました。何をしてあげたいのかも、何をしてあげたらいいのかも、もう何も分からないんです。どうしたらいいですか?先生は父の姿を見せて、どうしてほしいんですか?」

「こんな結論にしてほしい、というよりも、すべてを感じたうえで、田中さんのことを考えてほしいんです。」

「それが分からないんです……」

「まだ余裕はありますから、私たちと一緒に、もう一度改めて考えてみませんか?」

 

 戸惑いに沈んだ瞳にわずかな炎が宿る。

 

「本当に、そうですね。私の父なんだから、まずは私なりに考えてみます。でも全部自分で決めるのも、先生に決めてもらうのも違いますよね。先生、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 娘さんが帰った後、田中さんの採血、レントゲンの結果が返ってくる。これまで一貫して落ち着いていた検査所見にわずかな異常が混入している。レントゲンでは肺の陰影が少し広がっている。誤差範囲ともとれるレベルで確実とは言えないが、増悪の可能性もある。まだ何か踏み切る段階ではないが、嫌な予感がよぎる。

鉄の海(120) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.04.25 Thursday
  • 00:00

 窓の外では弱い日光が禿げた梢を照らしている。寒々とした風に揺られ、枝が軋む。一匹の小鳥が舞い降りる。降り立ったその枝の先端にはいくつかの膨らみがある。長い冬を越え、春が訪れようとしていた。

 田中さんの娘はちょうど朝九時に病室に現れた。これから二十四時間、田中さんに付き添うことになる。看護師の申し送りがそろそろ終わる頃で、まだ人気はない。

 

「お越しいただきありがとうございます」

 

 それには返事をせず、彼女は眉を顰める。

 

「父の面会にもよく来ていますし、これで何か変わるとは思いません」

「そうかもしれません。でも、それならそれでいいんです。このまま進んでも悔いが残らないだろうと言えるからです。思っていたのと違う、ということにならなければよいと思っています」

「そうですか」

 

 僕が病室を去ってから、看護師が担当患者を回り始める。そのあとは保清だろう。体を傾けて背中まで洗う。田中さんはもう触ってくれるなとばかりにそれを拒否してしまう。きっと娘さんがそれをなだめるだろう。ありありと目に浮かぶ。次は吸引を、数人がかりで抑えつけているところを目撃することになるだろう。口腔ケアも、口を閉じてしまうのを何とか開けなければならない。

 これらのケアにはできるだけ娘さんに参加してもらうように伝えている。無理強いはしないが、声をかけてもらうように伝えている。田中さんの拒否の一つ一つ、その積み重ねが何か変化を生むかもしれない。

 

 業務のけりがついた夕方にもう一度田中さんの病室を訪れた。娘さんは椅子に座ってぼんやりと田中さんの横顔を見つめていた。こちらに気付くと立ち上がり、先生、と一言ある。

 

「いかがですか」

「……あの、痰の吸引ってやめることはできないんでしょうか。あんなに大変だとは思ってなくてびっくりしてしまって……」

「看護師もお伝えしたかもしれませんが、痰の吸引をやめてしまうと喉や気管に痰がたまり、窒息してしまいます。もちろん、窒息死を許容する、ということであれば別ですが、お体を守るためには止めることは難しいです」

「そうですか……」

 

 残念そうに、田中さんの方へと視線が落ちる。

 

「また明日朝にお会いしましょう」

「はい」

 

 認知症患者には夜の顔がある。日中は大人しくとも、せん妄のために夜になると訳の分からないことを言ったり暴れたりする。初めて直面する人にとってはさながらジキルとハイドだ。そうした認知症患者の生きづらさや医療介入の難しさ、侵襲性など全てありのままを感じてほしい。その結果、胃瘻をするかどうかということは、本当はそれほど重要ではないのかもしれない。こういう形の生を受け入れ認めることも、あるいは選ばないこともそれも生の一つのあり方だ。でもこのプロセスがなければ、何を選ぶのか分からないまま選ぶことになってしまう。それこそが本来もっとも避けるべきことなのだと思う。

鉄の海(119) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.04.18 Thursday
  • 00:00

「娘さんに一日付き添ってもらおう。それで、田中さんがどんな医療を受けているのか、これから受けていくのか感じてもらおう。それでもやっぱり頑張るなら、そのときはきちんと胃瘻を作る。やると決めたなら、その選択肢を全力で支持しよう」

 

 皆、何も言わなかったが、僕を見つめる表情からは意思が伝わったように感じられた。

 

「あの、最後にもう一つすみません」

 

 言語聴覚士の白谷さんが、首だけ突き出し眺めながら声を掛ける。

 

「田中さんが生きる理由の一つに奥さんを悲しませたくないってのがあったと思うんですが、奥さんがどう思っているかを確認する必要があるんじゃないでしょうか。奥さんを思ってこその言葉だからこそ、その通りに受け止めるのではなくて、奥さんが最も納得できることを田中さんも望むんじゃないかと思います。仮に奥さんが辛くて見ていられないとおっしゃるなら、長生きすることが奥さんを苦しめることになりますから」

「確かにそうかもしれないですね。奥さんのための選択なのだから、奥さんが一番いいと思える選択がいいですよね。それも次回、確認するようにしましょう」

 

 カンファレンスが終了し、彼らそれぞれの表情は晴れやかだった。決して、この話し合いで結論が出たわけではない。問題が解決するのではなく変質してまた新たな問題が出てくる。その繰り返しで霧の中を進んで行かなくてはいけない。一歩進んだと思えば、時には一歩後退していたこともある。そうだとしても、病が押し寄せる限り、踏み出すよりない。確かに、今日、全員が同じ方向に一歩踏み出せた。その爽やかさだった。

 

「山下さん、ありがとうございました」

「チームなんだから当たり前よ。ここからが大変だけど、先生任せたよ!」

 

 そう言って痛いくらいに背を叩かれる。早速、田中さんの娘に電話をかけた。

 

「明後日胃瘻を作るお話だったと思いますが、実は今日、当院の各専門職からの意見がありまして、お父様の医療の方向をもう一度改めて相談させていただきたいと思っています」

「またですか?もう話はついていますよね」

「そうなんです、ただ、お話だけになってしまっていたなと思いまして。娘様はお父様がどんな医療を受けられているかご覧になっていますか?」

「医療っていうのは点滴したり縛ったりしていますよね」

「他には採血、吸引、保清、体位交換などもあります。我々から提案させていただきたいのは、一日、田中さんに付き添っていただくことです。お忙しいのは重々承知しておりますが、田中さんが今どんな状況で、これからどんな風に生きていくかを知っていただきたいんです。それからでも胃瘻を作るのは遅くありません」

「それをすれば終わりますか?」

「え?」

「一日付き添えば胃瘻してもらえるんですね?」

 

 ここはもう繊細な意義を説明している場合ではない。

 

「ええ、そうです」

「分かりました。では、明日伺います。」

「ありがとうございます。明日の朝から明後日の朝まで、付き添えるように個室に移動していただきます。泊まる用意でお越しください」

鉄の海(118) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.04.11 Thursday
  • 00:00

「確かに、決められないかもしれませんね……。元気なときの田中さんがどう判断するかを推測するのは、難しいかもしれない」

「医学的な見通しが分かっていて、田中さん自身の意思の推定が難しければ、あとは家族の状況かしら」

 

 山下さんからの目配せが来る。

 

「皆さんもご存知のように、奥さんは高齢で、話は通じるものの軽度の認知症があってもおかしくないような方で、キーパーソンは娘さんです。奥さんはあまり主張されませんが、娘さんはかなり積極的に医療を希望されていて、今回の胃瘻も娘さんの希望という要素が強いです」

「娘さんがこだわるのは何か理由がある?」

「お父さんに生きていてほしい、ということだけみたいです」

「冷たい言い方だけど、もしかして年金目当てとかはない?」

「それもあり得るとは思うんですが、例えば初めて栄養をしないという選択肢を提示したときに、すぐに涙を流してどうして救命してくれないんですか、と詰め寄られて、真に迫る感じを、僕は受けました。完璧に演技されてしらばっくれられたら分からないですけど」

「多分ないと私も思うけど、一応確認で」

 

 確かに、山下さんの言うように強硬な積極的治療を希望する場合、患者の年金目当ての延命というのはあり得る話だ。それを完全に否定することは難しいが、これまでの話した様子や短時間であれ病室に訪問していることを考えるとそうでもないように思う。年金目当ての場合、本人は興味がないので面会がほとんどないことが多い。

 

「娘さんとしては、直接田中さんに胃瘻をするかどうか聞いてみたら、うんと頷いたから本人はやりたいんだ、と。そして、自分のエゴでもいいから父への治療をお願いしたいと言っていました。もちろん、田中さんの認知機能を考えればうんと頷いたことが十分な理解に基づいた同意とは言えないし、それを娘さんにも伝えました。治療をすることが逆にお父さんを苦しめるかもしれない、ということも伝えましたが、それでも田中さんが亡くなることを認められないような印象でした」

 

 しばしの沈黙の後、水木さんが手を挙げる。

 

「あの、娘さんっていつも面会には来られてるんですけど、五分くらいなんですよね。だから田中さんを大切にしてないとかいうことではなくて、ただ、それだけ短いとナースのケアとかもあまり知らないんじゃないかなと思うんです。吸引をどれだけ嫌がってるとか、抑制のことを思い出したら急に外せーって暴れだしたりするのを見てないんじゃないのかなーと。だから今の状態で生きていくことや治療をどんどん進めることの辛さを想像できずに言ってないかなと、気になるんです」

 

 この意見には皆が顔を上げ、同じ方策が頭に浮かんだのを感じた。

 

「ということは、見てもらおうか」

鉄の海(117) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.04.04 Thursday
  • 00:00

 皆、田中さんがかつてどんな人だったのか知らなかった。見たことがなかった。それでも断片的な情報を持っていて、誰もがそのひととなりを語りたがっていた。その沈黙だった。

 

「僕が聞いたのは」

 

 田中さんの娘さんに病状説明したときのことを思い出す。

 

―俳句を読むのが好きでした。そのために山へ行ってみたり海に行ってみたりです。……そういえば、山へ行くたび、自然に生きたいと言っていました―

 

「俳句が好き、自然が好きで、生き方にも理想があったみたい」

 

 山下さんが間髪入れずに続く。

 

「そうそう、奥さんが言ってたけど十歳くらい年の離れたお兄さんがいたみたい。もう前に亡くなられたそうだけど、そのときは家族で延命しないことにしたんですって。お兄さんの息子さんが最終的に判断したそうだけど、田中さん自身もこれでよかったと思うって言ってたって。娘さんにとっては叔父さんにあたるから直接は関わってはなかったみたいね」

 

 方針が難航していると見て、すでに山下さんがそこまで聞き出していた。死別した兄がいたことまでは把握できていなかった。普段からのケアが優れていて自然に聞き出していたのかもしれないし、展開を予想して先回りしたのかもしれない。いずれにしてもさすがにベテラン看護師の力量だ。

 

「他には?」

 

 カルテ記載を見れば、リハビリのスタッフもどんな趣味があってどんな食べ物が好きかといったことを、リハビリをする関わりの中で十分に聞き出していることは分かっていた。これまでの内容から行けば積極的な治療を望んでいないような雰囲気もあるが、決定的な内容まではたどり着かない。

 

「あの……」

 

 新人看護師の加賀さんが山下さんに手振りで促される。

 

「田中さんを担当させていただいたときに奥様から伺ったんですけど、奥様が悲しまないように自分の方が長生きしたいとおっしゃっていたみたいです」

 

 予想外の意見が出てくる。積極的な医療は希望していないような様子だったが、反対側の内容が出てきていよいよ分からなくなってくる。皆が沈黙してしまい、加賀さんが何か良くないことを言ったか心配するように、不安げな面持ちで周囲の顔色をうかがっている。

 

「良い内容すぎてみんな困ってるんですよ。よく聞き出してくれましたね」

「あ、はい……ありがとうございます」

 

 加賀さんは困惑して目を伏せる。そんな彼女も数年もすれば山下さんのようにどんどん前に出てくるようになるだろう。その山下さんが話を引き取る。

 

「田中さんの気持ちについて整理すると、自然が好きで自然な生き方を考えていたということ、お兄さんの延命をしない選択をしてそれも悪くなかったと感じていたこと、でも奥さんを悲しませないために長生きしたいとも言っていたこと、だね。これを聞くと田中さんって今の状態で頑張るかどうか、元気なときの判断力があっても凄く迷うんじゃないかと思う。自分の中では胃瘻してまで頑張らなくてもという気持ちもあれば、奥さんのためにできるだけ生きようという気持ちもあるだろうし……だから、やっぱり決められないと思う」

鉄の海(116) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.03.28 Thursday
  • 00:00

 作業療法士の坂本さんが言う。

 

「高橋さんのこと思い出しました。でも、あの人はいつもニコニコしてましたよね。進んだ認知症はあっても、私たちがすることにありがとう、ありがとうっていつもおっしゃってました。体に気を付けてね、って言われたことも覚えてます。そういうとこは今回の田中さんとはちょっと違うと思うんです。田中さんっていつも苦しそうで、長生きすればするほど辛い時間が増えるような気がするんですよね。高橋さんは長生きすることで皆を幸せにするというか、もちろん本人のしんどさもあまりないし……なのでちょっと田中さんの胃瘻はやめてもいいのかなと思いました」

 

 言語聴覚士の白谷さんの積極的な意見とは異なる。

 

「うーん、じゃあ長く生きると辛いから死を救いにする、ということなんですかね」

                                                     

 坂本さんに問いかけてみる。

 

「んー、そういうつもりじゃなかったんですけど、でもまあ、そうなんですかねえ」

「安楽死的な発想も決してダメということはないと思うんですけど、こういう方向性で話をしていくと、僕は死なせるための話をしていて、医療者全員が患者さんを死なせようとしているような気がしてしまうんです。僕の中でも結論は出ていないんですが、でもまずはどう生きていきたいか、田中さんなら田中さんが今の状態で生きていくことを良しとするかどうか、そして田中さんがそういう生き方を望まない結果として死期が早まってしまうのを許容するという順番なんじゃないかと思うんです」

 

 理学療法士の鈴木さんが言う。

 

「先生の考えは私もその通りだと思います。ただ、坂本の言うこともよく分かるんです。リハビリを進めてますけど、全然耐久力が上がってきてないんですね。すでにカロリーは十分入ってますから栄養面でこれ以上持ち上がるわけではないですし、胃瘻を作っても今後良くなってくる感じがあまりないんです」

「胃瘻をすると抑制が外れる可能性があります。抑制が外れると普段から手足を動かすことが期待できるので、その分リハビリとしての運動量は増えると思うんですが、その点はどうでしょう」

「確かに今よりはプラスかもしれませんが、廃用を食い止めるほどの運動量になるかは疑問があります」

「なるほど、そうなると胃瘻はせいぜい状態の維持ができれば御の字という目標ですね……」

 

 司会の山下さんが何かに気付いたらしく、受け持ち看護師だった水木さんに、どうぞと促す。

 

「先生のさっきの意見、本当によく分かりました。私もよく色んなご家族とお話しますけど、いつも看取ってあげましょうって説得してるみたいで。どう生きるかをまず考えるべきですよね……でも、私が夜勤で田中さんを受け持ったとき……ちょっと、その、言いにくいことなんですけど……本当に長く生きない方がいいんじゃないか、って思ってしまったんです。田中さんは吸引がすごく嫌いで、身をよじってとても辛そうなんです。坂本さんも言われたように、いつもしかめっつらでしんどそうで、自分だったら早く死んでもいいなって。多分これは良いことじゃないと思うんですけど」

「いや、そう感じることは決して悪いことではないと思いますよ。さっきも出た安楽死的なことも本当に本人の意思が明確で、それ以外に苦痛を解消する手段がない場合は海外なら認められることもありますし。一方で、悩まれているように、命自体尊いという価値は忘れてはいけないし……難しいね。でも直接触れ合う看護師がそう思ってしまう状況だということは重要なことだと思いますよ」

 

 答えの無い難題に皆黙ってしまう。ナースステーションに置かれたモニターのアラームが無機質に響く。カンファレンスに参加していない看護師が確認して消音する。それを横目でちらと見た後、山下さんが言う。

 

「結局、田中さんはどうしたいんだろう。どんな生き方の人だったんだろう」

鉄の海(115) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.03.21 Thursday
  • 00:00

 Yさんの一声が低い天井に響き、一間の沈黙をもたらす。

 

「先生が責任持ってやってるのは知ってるよ。でも、先生一人でやってるわけじゃない。医学のことは先生の方が詳しいかもしれないけど、Tさんと一番長く一緒にいるのは私たち看護師よ。どれくらい動けて食べられるか知ってるのはリハの先生よ。それだけじゃない。薬剤師、放射線技師、臨床検査技師、ナースエイド、管理栄養士、歯科衛生士、医療ソーシャルワーカー……みんな、Tさんのより良い医療について自分の立場で考えて工夫してる。先生がリーダーだけど、先生だけでも医療はできない。ここにいる皆の意見は聞いてくれないの?」

 

 言い訳が頭を巡る。そんなつもりじゃない、そうじゃなくて、意見は尊重するけれども、でも自分の責任で舵取りをする必要があるのだ……。

 

「いや……」

 

 すると、ここに集まった全員の顔がこちらを向いていることに気付く。初めてその顔の表情一つ一つに注意が向いた。カンファレンスの始めには誰のことも目に入っていなくて、ただ、どうにか表向き丸くやり過ごそうということしか考えていなかった。責任をもって決断をすることは、自分だけで決めるということではない。知らず知らずのうちに自分を狭い道に追いやって、勘違いしてしまっていたようだ。

 

「ありがとう、山下さん」

 

 言い訳なんていくらでも作れる。母に胃瘻を作ったこと、その重圧があったことを言ってしまえば同情くらい誘えるだろう。でもそんな保身が何になる?患者にとって重要なことはそれぞれの専門家が知恵を出し合って、よりより方針を模索することだ。たとえ結論は変わらないとしても、それぞれの悩みが共有されることで、患者と接するときの態度も変わるだろう。人間、半信半疑では普段の半分も力が出せないが、それでいいと後押しされれば十二分の力を発揮できる。そのためにも、方針の共有というのは非常に意義がある。

 

「先生、じゃあ仕切り直してもいい?」

「お願いします」

 

 看護師の山下さんが再び司会を始める。

 

「じゃあ、それぞれの意見をお願いします。あ、白谷先生何かありますか?」

 

 言語聴覚士の白谷さんが手を挙げている。

 

「いや、実は……確かに田中さんは難しい症例だと思うんです。でも何年か前に似たような方がいたじゃないですか。高橋さんという方で、あの人も人工呼吸器の後、胃瘻になってましたよね。あのときも、やらない方がいいんじゃないかって言ってたと思うんですけど、あのあと、持ち直しましたよね。胃瘻なしでもある程度食べられて、ご家族もすごく喜んでおられと思います。だから……まあ困難だという見立てはあっても絶対裏切られることがあるので、僕はやってもいいかなと思ってます」

 

「確かにいた!思い出してきた!」

 

 そう言って口々にメンバーが「高橋さん」のことを思い出していく。

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