鉄の海(最終話) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.07.11 Thursday
  • 00:00

 田中さんが去って一週間ほど経ち、病棟にはまた新たな患者さんが運ばれてきた。あれだけスタッフの中で強く印象付けられていた田中さんとその家族も、退院してしまえば何もなかったかのように消え、その部屋も次の患者さんが埋めて、痕跡すらなくなってしまう。治療を求める人々は止むことがなく、その時々で増減はあるが、必ず波のように押し寄せる。まだまだ病院に缶詰で、川縁の立派な桜並木も通勤の時間にちらと目に入るくらいでもったいない。

 

 病棟で仕事をしていると電子カルテ越しに見覚えある顔が現れた。田中さんの娘さんだった。

 

「先生、お会いできてよかったです。ご挨拶を、と思って」

「いかがですか、あれから」

「父の葬儀も終わって、やっと一息ついたところです」

「そうでしたか……」

「ほんとに良くしていただいてありがとうございました。初めは色々と言ってすみませんでした。病気のことってテレビや新聞とか、知り合いの話を聞いて分かったつもりになってたんです。患者の家族というものになれてなかったんでしょうね。先生とぶつかったこともありましたけど、それがあったから最後はそうなれて、父を支えられたと思っています。父も息苦しさとか、間質性肺炎の苦しみは少なく逝けたと思うので、先生に診ていただいて本当に良かったです」

「そう思っていただけたなら報われます」

「……私みたいな人は、多いですか?」

「んー、いや、そうでもないですよ」

「なら大変ですね。私はこんなことは人生で一回でしょうけど、先生はこれが毎日ってことですもんね」

「でもこうして、また来てくださる方もいますから」

 

 娘さんが菓子折りを渡してくれる。

 

「本当はもらってはいけないんですが」

 

 と、言いながら受け取る。通常、何かを受け取ることは病院の規定で禁止されているが、それはトラブルを避けるためだ。亡くなった患者家族からの感謝を無下に断る方が気が引ける。

 

「みんなで分けます。ありがとうございます。奥さんにもよろしくお伝えください」

 

 中身は和菓子の詰め合わせだった。山下さんに声をかけて、病棟で分けてもらうように伝える。

 

「先生ありがとう!田中さんの娘さん元気だった?受け持ってくれた水木や加賀にも食べてもらうね」

 

 去ろうとすると、大きな声で呼び止められる。

 

「先生食べてないじゃん!先生が食べなきゃどうするの。はい、これ」

 

 一番大きなどら焼きを渡される。もっともだ。

 

「それと、下に降りるつもりならリハ室に寄ってこれも渡してくれない?白谷さんや鈴木さんたちにも食べてもらわなきゃ。じゃ、よろしく!」

 

 栗ようかんも受け取ると、ポケットに入れたスマホの通知がなる。手一杯の難儀な格好で開くと、母からのメールだった。満開の桜の写真に、桜の写真、と一文が添えられていた。自由の利かない身体でゆっくりと撮ったのだろう。少し斜めに歪んで、上手い写真ではなかったが、春の温かさと儚さが広がっていた。

 

 スマホをしまうと、山下さんはナースコールに応じて病室へと消えていった。誰もいなくなった詰所で立ちつくす。全ては続いていく。必死に泳いできた鉄の海は相も変わらず荒れ続け、行けども行けども広がっていく。あまりの広大さに泳いで渡ろうとすることが時にばかばかしくなってしまう。でも泳ぐしかない。引き返すことはできない。もはや一人ではないのだ。それぞれに鉄の海と向かい合ってきたスペシャリスト達がいる。彼らが照らしてくれるなら、きっとこの鉄の海も溺れずに行けるだろう。(了)

鉄の海(130) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.07.04 Thursday
  • 00:00

「母さん、僕が医者になってすぐの頃、どんなことしてるかよく話したの覚えてる?こんな人が来て、こんな治療をして……それで、延命治療のこととかも。母さんはぴんぴんころりがいいって言ってた。でも、今は胃瘻をして施設に入って……病気のせいだから仕方ないのかもしれないけど、脳梗塞の治療をしてもらって、胃瘻を作って長生きしてもらうことは僕と父さんで決めた。母さんがそうじゃないことを望んでるかもしれないと思って、それでもそういう決断をして、今みたいな状況になってる。母さんは嫌だった?本当は胃瘻を作ったりして今みたいに生きていくことは望んでなかった?それだけが気になって」

 

 しばらく母は黙っていた。後で振り返ってみれば数秒にも満たない時間だったろうが、ひどく長く感じられた。二十四コマの映画が四十八とか七十二とかでコマ送りされているような感覚だった。

 

「もし、脳梗塞になってすぐのときだったら」

 

 まだ流暢とは言えないが十分に意味の通る言葉として聞き取ることができる。

 

「もういいと言っていたかもしれない」

 

 次に来るはずの逆説に期待してしまう。

 

「そのときは意識がはっきりしていなかったから。気付いたら鼻にチューブが入っていて、体の半分が動かなかった。逃げ出したくて死ぬことを頭に思い浮かべたけど、本気で死にたいと思ったことはなくて、反対に生きたいと思ったこともなかった。とにかく何とか楽になることに必死で、体がかゆくなったときに早く掻いてもらえるようにナースコールを握りしめていたり、そんな努力ばっかり。もうやめようって言われたらそうしたかも」

 

 それは、医療者として想像しえない苦痛だった。患者自身の体験、主症状からは外れた言語化されることの少ない苦痛の集積。

 

「でも今は生きていてよかったと思う」

 

 胸が騒めいて、涙がこぼれる。

 

「そのときも、本当は死にたくなんかなかったと思う。ただ、そのときが辛いからそう言うだけよ。ぴんぴんころりなんて、神様がそう選ぶのはよくても、自分でなんて選べない。生きててよかった。胃瘻してくれてありがとう」

 

 感謝されるなんて思いも寄らない……。

 

「こっちこそ、ありがとう……本当に」

 

 そうして黙って立っていた。それ以上、何も言うことができなかった。伝わっていた。止まった時間が破れたのは、鼻をかもうとティッシュに手を伸ばしたからだ。わざと大きくかんでゴミ箱に捨てる。示唆的だった。

 

「じゃあ、リハビリ頑張らないとね。もっと色んなことできるように」

 

 母は静かに頷いた。窓の外を二匹の雀が通り過ぎていく。施設周りに植えられた桜が咲き始めようとしていた。これからだ。これから……、これからも、母は生きていく。家族も共に歩んでいく。

鉄の海(129) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.06.27 Thursday
  • 00:00

 しばらくリハビリをして、母は多少話ができるようになってきていた。それでも嚥下機能は十分ではなくて、嚥下リハビリを続けながら胃瘻での栄養を続けていた。ある程度急性期のリハビリの回復が定常状態に達してきたとして、施設への退院することとなった。よくしてくれた和田先生に挨拶しようと、退院日に父についていった。

 

「母がお世話になりました。先生が主治医で本当に良かったと思います」

「先生も大変でしょうけど、時々は顔見せてあげなさいよ」

「そうですね。今後も入院することもあるかもしれませんが、そのときはまたよろしくお願いします」

 

 退院はしても母の闘病は終わりではない。施設に入ってもデイサービスなどを利用してリハビリは継続するし、脳梗塞の再発や肺炎を起こすことだってあるかもしれない。病気になるということは、そこが弱点となって次の病気を起こすリスクになる。これは区切りだが、始まりでもある。不確実なことが多いが、不安は強くない。普段の診療は施設医が処方を中心に行ってくれるだろうが、何かあったときは和田先生が助けてくれるだろうという安心感がある。医学の力が及ばぬ部分もたくさん知っていて、和田先生でもどうしようもないことがあるのは医者である僕が分かっている。それでも、頼れる人がいるということの重みは計り知れない。

 

 母はすぐに施設に馴染んだようだった。特に不満もなく過ごしていた。もちろん、本当のところはどう思っているか分からないが、少なくとも家族や職員さんに当たるようなことはない。この前は、食事の用意も掃除もしなくていいから楽だと言っていた。逆に困っていることがないか聞いてみると、高齢者用の施設なので母よりも一回り、二回り上の人がほとんどということもあり、気を遣う、と言う。どこまで行っても人間は人間と切り離せないのだと痛感する。

 母に会うたび、本音を聞こうか聞くまいか、そればかりが頭を巡る。家事をしなくて楽だ、というのは本音交じりの冗談だろうが、それ以上に秘められたものがあるのかないのか、あるとすればそれは何なのか、そして、今の生き方に恨みがないかどうか。聞きたい気持ちは常にあったが、聞いてしまったら後には戻れない。なぜ胃瘻なんかしたの?なぜ大変な思いをして生かされなければならないの?……そんなことを言われてしまったら、とても穏やかな親子関係を維持することはできないだろう。このままでいれば、凪のまま何となく時が流れてくれる。

 しかし、何も聞かないことが僕と父の選択にとって不誠実な態度であることも分かっている。選択の結果を受けるのは母で、その母の思いを受け止めなければ、選んだ責任を背負うことにはならない。勇気は、魔王に立ち向かうためだけのものではない。だが確かに、未来を切り拓くための力には違いない。

 

「……母さん」

鉄の海(128) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.06.20 Thursday
  • 00:00

 翌々日、朝のカルテを見るとさらに状態が悪化していた。いよいよかと思い一番に病室に向かう。朝の4時頃から急激に悪化し、もう間もなくだろうと思った看護師が呼んで娘さんも奥さんも病室に詰めていた。しばらく病室で様子を眺め、家族の時間を邪魔しないために一旦立ち去ろうとしたところ、脈拍が低下してきた。もう数分だろう。田中さんは主治医のことを待っていてくれたのかもしれない。うまく舵取りもできず、結局病気を治すこともできなかった主治医のことを、だ。そんなことを考えてしまうほどにタイミングがぴったりだった。

 脈拍が停止し、それを警告するけたたましいアラームが鳴る。少し間を置いて、二人の家族に頷いてみせる。悟った娘さんの顔は一層引きつる。

 

「では、今から死亡確認を行います」

 

 聴診器を当て、心音、呼吸音を聞く。眼球にペンライトを当てて対光反射を見る。いずれの兆候も見られず、死亡を確認する。同室した看護師と共に深く頭を下げる。娘さんが堰を切ったように泣き出し、奥さんは田中さんのまだ温かい顔をじっと見つめる。

 

「しばらくして落ち着かれた後に、点滴を抜いたり人工呼吸器を外したり、お体をきれいにしに来ますので」

 

 最後の別れの時間をとってもらう。まだ病室にいる間は半分病人でいられる。表情も完全に生気が抜けきってはおらず、まだ有機物と無機物の間のように見える。その最後がこの時間だ。ここを発つ頃にははっきりと遺体だと分かるようになる。それまでの間、家族で過ごしてもらう。出産直後に母親に新生児を抱いてもらうのをカンガルーケアと呼ぶが、その反対のようなものかもしれない。

 

 挿管チューブを外し、点滴を抜き、モニター類を外し、看護師が死後のケアを施す。葬儀屋が来るまで霊安室に御遺体を移す。すでに顔は精巧に作られたマスクのように固く変化しつつある。病院の死者は皆固く縮んでいく。あたかもそれが正しいやり方であると知っているかのように、物質へと変化していく。この職につくまでは人間がそのように死んでいくことを知らなかった。昆虫やカエルなどの死は見たことがあってもほとんどそれ以外は知らない。祖父母が亡くなったときも、まさに死の前後を見たわけではない。皮膚、皺、それらが決定的に異なっていて、だからこそそこには人の生の痕跡が刻まれている。

 

 漸く葬儀屋が到着し、遺体が霊柩車に運び込まれる。裏口から発車する。看護師と共に深く頭を下げる。完全に田中さんが去っていった。

 

「お世話になりました。ありがとうございました」

 

 一緒にお見送りをした娘さんがそう述べて去っていった。その声色からは、言葉にしてしまえば類型化され陳腐化されてしまうのが怖くて名状しがたい、何か重要なものが伝わったように感じた。正確には、田中さん一家との付き合いにかなりの労力を割いていたことから、僕の中にもそれを意味あるものだと感じるような無意識下の力が働いていただろうし、娘さんの中にも、父親の死が良いものだったとするには病院での療養や話し合いが父親にとって意義あるものだったとしなければならないという、これも無意識下の力学があっただろう。しかしそれを差し引いても、きっとプロセス自体が無駄だったわけではないと思いたい。名状しがたい何かが得られたと思いたい。自分が良かれと思ってやったことが有害でないか常に慎重になるべきなのは医療の鉄則だが、これくらいの自惚れは許されてくれないだろうか。

鉄の海(127) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.06.13 Thursday
  • 00:00

 田中さんに二度目の挿管手技を行う。人工呼吸器を装着するための管を、声帯を通して気管に入れるだけだが、最も不安定なのがこの瞬間だ。麻酔をかけることは呼吸を悪化させる方に働き、ただでさえぎりぎりの呼吸が死の淵まで追いやられる。人工呼吸器を装着してしまえば安定するが、麻酔をかけてから挿管して人工呼吸器を装着するまでのその時間が最も危険だ。

 前回の経験を生かして田中さんの挿管を素早く終える。再び管に繋がれ、田中さんは眠ったままだ。麻酔を薄くするとせん妄で暴れた経緯もあり、十分に目覚めさせることは難しいだろう。今後、目を覚ますことはないような予感がする。堀辰雄の一節、死があたかも一つの季節を開いたようだった。そのような季節があるのなら、迫りくる季節の風の音がしたようだった。

 

 挿管後も呼吸状態は日に日に悪化していた。バスが無くならないよう早めに面会に来る田中さんの奥さんは、田中さんが覚醒していた頃には十分に話が通じなくとも何だかんだと声をかけていたが、今はもう、ベッドに寄って寂しそうに田中さんの顔とモニターを交互に見るばかりだった。

 娘さんも悟っていただろう。以前よりも早く病室に来て長く傍にいるようになった。顔を合わせることもあったが、もうほとんど何も話さなくなった。モニターの解釈も説明し、こちらが言うまでもなく悪化していることは分かっていたはずだ。今は追加した免疫抑制剤が遅れて効いてくるかもしれない、そんな細い糸の希望を信じるよりなかった。免疫抑制剤、という言葉の仰々しさだけがそれを信じさせてくれる唯一の要素だったかもしれない。

 

 とうとう、田中さんの呼吸状態は、めいっぱいの酸素供給でも正常を維持できなくなっていた。娘さん、奥さんにすぐに病院に来てもらう。電話口では二人とも淡々としていた。

 

「田中さんの治療を最大限続けてきましたが、それでも間質性肺炎が進行し、ついに酸素不足を補えなくなってきています。良くなる、ということは、難しいと思います」

 

 二人とも黙って聞いていた。

 

「それどころか、おそらく残された時間は数日……あるいは今日、明日に亡くなられてもおかしくありません」

 

 堪えきれずに娘さんから大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。白く狭い病状説明用の部屋ですすり泣く声が響く。

 

「最後に決めておかなければならないことがあります」

 

 新しい涙が出ないことを確認してから切り出す。

 

「それは、心臓マッサージのことです。今後悪化して、最後を迎えられるとき、本来であれば止まった心臓を動かすために心臓マッサージを行います。しかし、田中さんの場合は間質性肺炎自体が良くなっていないため、やる意義が乏しいです。それどころか、肋骨が折れる、肺を傷つけて血を吹く、お体をむやみに傷つけることになります。ですから、今後は、心臓マッサージを控えることをご提案したいと思います。穏やかに過ごしていただくことを良しとする、ということです」

 

 娘さんの視線は睨んでいるようにも縋っているようにも見える。

 

「……はい、それでお願いします」

 

 僕はゆっくりと頷いた。

 

「ここまでよく頑張られたと思います。まだ少しありますから、見守りましょう」

 

 これまで病と闘い克服させようとしてきた娘さんが、遂に治療を差し控えることを受け入れ、選択した。それが進歩かどうか分からないが、こちらの言いたいことは分かってもらえただろうか。とても同じ土俵とは言えないが、できる限り近づいて話し合えた結果だろう。ただし、これが本当に良いことかどうかは誰にも分からない。自分の中では悪くない結論と思っていても、死を迎える手解きをしたのは生命倫理から言えばとんでもないことなのかもしれない。あるいは、結論が大して変わらないのであれば、善悪すらつかない全くの徒労なのかもしれない。それが鉄の海なのだ。どれだけ技術や信念があって心を燃やしても、自分を批判する声が聞こえてきて、医学と倫理の狭間で身動きが取れなくなってしまう。

 

I don’t wanna go, I don’t wanna stay

So there’s nothing left to say...

鉄の海(126) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.06.06 Thursday
  • 00:00

「田中さんがよくなるように色々と手を考えたいと思います。もしかすると、また人工呼吸の治療が必要になるかもしれませんが、いかがでしょう」

「人工呼吸でねえ。あの人は助かりますでしょうか……」

「中にはそうした治療を延命と思われる方もおられるようですが、奥様はそうはお考えでないですか」

「延命治療はね、しないでおこうと思うんです、はい」

「そうでしたか。では人工呼吸や胃瘻といったことはもしかすると抵抗をお持ちでしょうか」

「延命は本人もかわいそうと思いますから……人工呼吸ね、そうね」

 

 とても治療内容の理解を得られているとは思えなかった。水木さんの言う通りで、奥さんの意見はよく分からない。意味不明、というよりは奥さんの認知機能の低下からくる高度な医療内容、倫理的な問題への理解力の欠如や判断力の低下が意見を持てなくさせているようだ。そうなれば、医療者がやることは、奥さんがどういう結果になれば納得できるかを推測することだ。

 

「よく分かりました、ありがとうございます。最後にもう一点。少し失礼な言い方になるかもしれませんが、田中さんの人生について奥様は、もっと長生きして頑張ってくれ、という思いなのか、あるいはここまで何十年も生きてきてもう十分頑張ってきたな、という思いがあるのか、そのあたりを教えていただけませんか」

「お父さんはよく頑張ったと思います。銀行に勤めてましてね、それはもう仕事一筋で。その頃もお友達もみんな病気されたり施設に入られたり……年ですからねえ……」

 

 質問の意図がどれほど伝わったか分からないが、少なくとも奥さんは田中さんの死をある程度受け入れられるだろうと思う。

 

 その後、田中さんの病状は増悪の一途を辿った。二日間は横ばいくらいかというところだったが、それ以降は階段を上るように一日、一日と呼吸状態が悪化していた。三日で人工呼吸器を決断せざるを得なくなった。

 

「もしもし」

「……先生、人工呼吸器のご連絡ですね」

「そうです」

「昨日の夜、病室に行きました。酸素が鼻のチューブからマスクに変わっていたので、そんな気はしていました」

「今朝は夜よりもさらに悪化していて、これ以上待つことはできません。改めて人工呼吸器の意義についてお伝えしますが、間質性肺炎が落ち着くまでの間、低酸素を乗り切るために人工呼吸器を使用します。ただし、間質性肺炎の改善の見込みはかなり厳しいです。新しく追加した免疫抑制剤は遅れて効いてくることがあるので、希望が全くないとは言いませんが、率直に申し上げて、かなりそれに近いです。また、人工呼吸器を使用すると、お話することは当面できません」

「……人工呼吸器をしなかった場合は、その、酸素不足で苦しくはないんでしょうか」

「確かに呼吸困難はあると思います。その場合は医療用の麻薬なども用いて軽減することを考えています。完全に取り切るのは難しいかもしれませんが、ある程度落ち着いて過ごしていただけると思います」

「そうですか……」

「人工呼吸器を使用しないこともお考えですか」

「いえ、必要ならお願いします。どんなものか聞いてみたかっただけです」

 

 それを選ぶことはないだろうが、当初はやれる医療行為をやらないことを全く理解できなかった娘さんの中で、やらないことの意義を理解してもらえただけで進歩だと思う。結果は同じでも、決して無駄な話し合いではない。

 一方で、今度は娘さんの中に余計な迷いや後悔を生んでしまうのではないかと気がかりになってくる。話し合いを持たず希望通りに進めていれば、人工呼吸器をしなければよかった、という後悔は絶対に生まれない。一貫してやらない選択肢を提示しておいて、勝手といえば勝手な懸念である。だが、何をしたってそれを批判しうる理屈が湧いてくるものだ。患者家族に選んでくださいと丸投げできたらどれほど楽だろう。自分のやっていることが無駄ではないと信じるしかない。吹けば消えそうな細いロウソクの灯ほどの信心。

鉄の海(125) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.30 Thursday
  • 00:00

「先日は病室で付き添っていただき、今後のことをどうするか考えてみようとお伝えしていました。ちょうどその頃から、安定していたレントゲンの陰影が悪化してきていました」

 

 実際の画像を出して見てもらう。

 

「左は一番良かった頃の画像です。右がその少し悪化した画像です。分かりにくいのですが、この辺り、専門的に見ればわずかに影が広がっています」

 

 眉をしかめてモニタを睨んでいる。

 

「そして、これが今日の画像です」

 

 あっ、と娘さんが声を上げる。

 

「そうです。肺の両側に影が出てきているのが分かります。画像の広がり方や経過を考えれば、間質性肺炎が再び悪化していると考えます」

「でも、前回もステロイドの治療でよくなりましたよね?」

「そうです。ただ、前回は何も治療していない状態で起こったことですが、今は減らしたとはいえかなり多い量のステロイドを入れて、その上で悪化してきている状況です。ステロイドの大量に加えて免疫抑制剤も追加します。そうでなければ抑えられないか、それでも抑えられないかもしれない、という局面です」

 

 まだ落ち着いて聞いていることを、表情をうかがいながら確認する。

 

「また、人工呼吸器を使う必要が出てくるかもしれません」

 

 いつも黙って聞いているだけの奥さんにも視線を合わせる。

 

「今回も人工呼吸器で助かる保障はないですが、またやってみましょうか……?」

 

 特に二人から返事はなかったが、それが消極的な肯定という感じだった。

 

 その後、娘さんが帰り、奥さんがもうしばらく残って付き添っていた。田中さんが奥さんのために長生きしたいと言っていたが、現状でそれを進めることが本当に奥さんのためなのか確認しよう、というのがカンファレンスの結論であった。すれ違いで僕自身は会えていなかったが、受け持ち看護師の水木さんが聞きだしていた。改めてそれを直接聞いてみたかった。

 

「先日、看護師の水木が同じようなことをうかがったかもしれませんが、もう一度改めてお話をお伺いしたいんです。娘さんはお父さんに胃瘻を作って、できる限りの長生きをしてもらいたいとお考えです。もちろん、私たちもそうしたい気持ちです。しかし、そうやって長生きしていくことは色々と苦労もありますし、田中さん自身が望んでおられた形なのか自信を持てない面もあります。奥様の意見はいかがですか?いつも娘さんの意見についてお話するばかりですみません」

 

 はあ、はあ、と相槌があって、少し間が空く。

 

「いえ、胃瘻もねえお父さんも、何とかなりませんかねえ。助かりますでしょうか」

 

 水木さんからの報告は、奥さんの返事はよく分からなかった、だった。

鉄の海(124) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.23 Thursday
  • 00:00

 田中さんのレントゲン画像は明らかに悪化傾向にあった。前回はもしかすると増悪かもしれない、というレベルだったが、今回は反対側の肺にまで陰影があり悪化を隠し切れない。まだ呼吸状態は悪くはないものの、前回のような急激な悪化がいつ起こってもおかしくない。もう一度ステロイドパルス療法に踏み切るよりなかった。

 

「もしもし」

「あ、先生……胃瘻のことはまだ……」

「そのこともあるんですが、今回は別の件です。間質性肺炎が悪化してきている可能性があります」

「えっ、この前は安定していましたよね?」

「そうです。ただ、以前のように急激に悪化するのが間質性肺炎です」

「……そうでしたね。先生、どうかよろしくお願いします」

「前回と同様に大量のステロイド投与を行いますが、これでも悪化するようならかなり状況は厳しいかもしれません。何かあればまたご連絡します」

 

 彼女はこれまでのように取り乱すことはなかった。これまでの長い話し合いを通り抜けて一つの信頼関係が芽生え始めていた。それに加えて、娘さんの中で田中さんの死というものが入院前と比べて遥かに身近なものとなり、受け入れる準備が徐々にできてきているような気がした。

 

 翌日、外来前に診察したときは何ともなかったが、外来中に呼吸状態悪化の知らせが来る。

 

「先生、さっきから全然酸素上がらない。リザーバー10Lです」

 

 困難というものは困難の上に降りかかってくるもので、急変するのはいつも外来や重要な病状説明をしているときなのだ。

 

「娘さんに来てもらって。昨日少し話してたから状況はある程度分かってもらえると思う」

 

 外来はどうしても早く終わらせなければならない。必然、早口になり、いつもなら生活の話を聞く数分も削って、処方箋の発行と受診予約を取るだけの味気ない外来にせざるを得なかった。大丈夫ですよ、問題ないですよ、もう少し様子をみましょう、を普段の倍は言っただろうか。こういう多方面からの圧力が歪みを生み、ミスの温床となる。普段なら念のため検査しておくか、というものを今日は行わない。その場の判断としては、やってもやらなくても正解なのだが、稀に念のための検査が救ってくれることもあって、だからこそそれをせずに捌くのは医療者側の気がかりとなってストレスを感じてしまう。

 

 何とか全員の診察を終えても田中さんの状態は横ばいで保っていてくれた。病室に向かうと、娘さんは深刻な表情で付き添っていたが、以前のような攻撃的な印象はなく、落ち着いた目をしていた。この様子なら踏み込んだ話もじっくりとできそうだ。

鉄の海(123) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.16 Thursday
  • 00:00

「母さん、そろそろ退院のことを考えないといけないんだけど、家に帰るか、施設に入るかどっちがいいだろう。家だと俺一人で母さんのことみる時間が多いけど、色々とサポートも受けられるみたいだから、母さんが帰りたければやってみてもいいかなと思ってるんだが……」

「しせう」

「しせつ?」

 

 母が頷く。

 

「本当に施設でいいのか?家で過ごしたくないか?」

 

 父は内心ほっとしているようなところもあった。だが、母の気持ちは本当にそうなのだろうか。入院当初に毎日のお見舞いは要らないと気を遣っていたくらいだ。今回も父のことを推し量っていて、ほっとした父はまんまと転がされているだけなのかもしれない。

 

「母さん、遠慮してない?父さんのことを思ってだったら、正直に言ってほしい」

 

 自分で何かするわけでもない息子が言うには無責任すぎる言葉かと思ったが、本音を聞いておきたい気持ちが勝った。

 母は天井を見つめ、小さく首を横に振る。

 

 小学生の頃、近所の一つ上の男の子に木の棒で叩かれたことがあった。それは右目をかすめ、右眉に当たった。今でもその傷が残っている。周囲からは評判の良くない家で、金髪で筋肉隆々の父親と派手なメイクの母親の家庭の子だった。僕と同じ遺伝子を持つ気弱な父は男の子が遊べばこれくらいの傷は付くと言うのだが、母は目に当たっていたらどうするのかとその子の家まで物申しに行った。父も止めようとしたし、僕も子供ながらに不安で母を止めたが、頑として聞かず、結局その両親を黙らせてきたことがあった。

 普段は穏やかでも正しいと感じた決断は絶対に曲げない母だ。今回も、家族を守ろうと施設を選ぶ決断をしたのかもしれない。そうなってはもう何を言っても無駄だろう。眉毛の下で歪に盛り上がった皮膚をなぞる。

 

「本人がそう言うんだから、施設にお願いしよう」

 

 そう決めて、病棟の看護師に話し合ったことを伝えた。この性格だから、できれば母の本音も聞き出してほしい、とも伝えた。

 

 ぴんぴんころりがいい、と言っていた母に、胃瘻を作り、施設に入れさせる。その場その場では母の意向も知りながら現実的な判断をしてきたつもりでも、事態はその心と全く逆方向へ進んでいく。母は本当に僕たちの決断を支持してくれるのだろうか。恨まれてないだろうか。いつか見た、全ての器具を引きちぎり泣きわめく母の夢を思い出す。まだ、それを聞き出す勇気は持てない。

鉄の海(122) by Mr.ヤマブキ

  • 2019.05.09 Thursday
  • 00:00

 胃瘻を造設した後、母の経過は順調だった。栄養剤の注入量も徐々に増え、胃瘻だけで一日の必要な栄養を確保できるようになった。担当の和田先生から病状説明があるとのことで、父についていく。

 

「お母さんの経過は順調です。特にトラブルなく胃瘻を使用できています。今日お呼びしたのは、今後の行き先についてです。医療としてはかなり安定しておられ、後は胃瘻とリハビリの継続でいけると思います。医療の介入が必要なければ、そろそろ退院を考えていかなければなりません。行き先はいくつか選択肢がありますが、療養型病院はまだその時期ではないと思いますので、胃瘻でも受け入れてくれる施設か、あるいはご自宅か、ということになるでしょう。その辺りは介護力の問題や、お母さん自身のご希望などと擦り合わせて決めていくことになります」

 

 怯えたような顔で父が僕を向く。

 

「ちょっと、すぐには……、いつまで病院に置いていただけるんでしょうか」

 

 和田先生がオーバー気味な笑顔を父に見せる。

 

「大丈夫です。追い出すようなことはありません。普通に行き先を決めていただいて、次のところへ移る用意が出来たら退院です。中には移りたくないからとわざと決めるのを遅らせるような方もいますが、そういった悪質なものでなければ何か催促するということもありません」

「それを聞いて安心しました」

「どこに行くかは難しい問題です。自宅というと全部自分でしなければならないようにも思えますが、介護保険を利用してヘルパーに来てもらうこともできますし、往診医を手配して、月に二回程度診察してもらったり、訪問看護を導入して週に一回くらい状態を把握してもらうなど色々とサポートは受けられます。なので全部一人でする必要はないです。ただし、例えばヘルパーさんが来ても一日中いてくれるわけではありません。一日のうち、二十三時間くらいはご主人がサポートする必要があるのも確かです」

 

 父の喉仏が悩ましそうに低く唸ってみせる。

 

「うまくできるかどうか……ちょっと難しいんじゃないかな……。あいつが帰りたいといえばそうしたい気持ちもあるけど、逆に私が不行き届きだとあいつに迷惑がかかるんでしょうし」

 

 家のことの多くを母に任せていた父が、意思疎通もやや不十分で胃瘻のついた母を一人でケアすることに抵抗があるのは容易に想像できる。母を施設に入れても、まともに一人暮らしできるかが心配なレベルだ。

 

「そうお考えであればそれでもいいと思います。お母さんが家に帰りたい希望があって、それを叶えようと無理をしても、共倒れになってしまうとお互いに不幸な結果になることもあります。一度お母さんのご意向も含めて考えてみてください。他のご家族のご協力も得られるかどうかなども……」

 

 和田先生と目が合ってどきりとする。簡単に休んだり辞めたりできないことは和田先生もよく分かっているはずだ。それでも、父と母の息子は僕しかいないのだ。

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