やまがある日記〜白山(2702m) 2日目

  • 2023.02.03 Friday
  • 07:00

晴れ

 

夜明け前に目覚めて、準備運動もそこそこにヘッドライトをつけてスタートする。ガスが出ていて、ご来光はどうだろうか、と思いながら登り始めてしばらくして、日焼け止めを塗るのを忘れたことに気が付いた。アタックザックにも入れ忘れている。マズい、と思うが今更小屋に戻るわけにもいかないので、とりあえずそのまま登る。
30分ほどで御前ヶ峰に着くとすでに多くの人が日の出を待っていた。
明るくなってはきたものの、ちょうど視線の高さより少し上あたりに雲がかかったり切れたりして、なかなか太陽が顔を出さない。雲の切れ間から何とかオレンジ色の太陽が見えた。
少し待てば晴れそうな気がしていたが、何しろ日焼け止めを塗っていない。無防備に標高2700mの陽ざしに当たったら真っ黒になってしまう。アラサーの肌にさすがにそれは勘弁なのでそそくさと室堂へ下り始めると、もう雲が切れて展望が開けた。室堂平と別山にかかる雲が朝日に照らされ輝いている。素晴らしい朝だ。

 

日の出 雲が燃える
朝日に照らされる室堂


小屋に戻って荷物をまとめ、今度こそしっかりと日焼け止めを塗る。登山の前日に金沢の有名店で買ったパンを雑に口に詰め込んだら出発だ。
当初は観光新道を使って下山するつもりだったが、山頂から降りてくるときに別山の側に見えた雲海に心惹かれて、そちらがよく見えそうなエコーラインを通ることにした。
室堂を出て見上げると白山の上はすっかり晴れて青空が広がっていた。弥陀ヶ原の木道をエコーライン方面へ足を進める間も何度も振り返って見上げた。本当にいい山だ。
エコーラインは歩を進めるたび絶景で、別山を超えてくる雲海も雄大で美しい。雲の切れ間に奥穂高岳や槍ヶ岳が顔を出したのもうれしかった。

 

エコーラインから白山を振り返る
雲海


別山尾根を背景に草原と針葉樹の森が交互に波打つように広がって、その間に南竜山荘がある。本当はここでテント泊をしたかったが、この年はトイレの改修工事のためテント場が閉鎖されていた。昨年行った人によると相当綺麗になっているらしい。次に来るときはきっとテント泊で、別山尾根を歩きたい。
エコーラインを抜けて砂防新道と合流したら、あとはひたすら下るだけだ。
下っている間、ずっと父のことを考えていた。

いや、登っている間も、絶景に心奪われている時も、写真を撮っている時も、小屋で休んでいる間も、父のことはずっと頭の隅にあった。
山には中高年の男性がたくさんいて、父よりも年配の方も多い。皆、自分の足で元気にしっかりと歩いている。この人たちと、父を分けたものは何だったのだろう。父も、倒れるまでは元気だった。ICUのベッドに横たわっているうちにガリガリにやせ細ってしまった足を思い出す。もう、一緒に酒を飲みながら話すことも、もちろん山に登ることもできない。
そういうことは、一定の確率で起こると知っている。ありふれた不幸だ。それでも不思議だった。
父のことを考えている自分と、山を心底楽しんでいる自分は常に同居している。一人で山に登っている時は、いつもどこかで父の不在を感じている。

そうならなくなる日が、いつか来るだろうか。私の寂しさも心細さも、山はなにも気にかけてはくれない。

 

別当出合に着くとあと10分程度で金沢行のバスが出るところだった。トイレだけ行かせてもらって慌てて乗り込む。これを逃すと数時間何もないところで待たないといけなくなるところだった。
素晴らしい山旅を終え、満ち足りて安心した気持ちで、バスの揺れにうとうとと身を任せていた。

 

美しい道
別山を越える雲

 

やまがある日記〜白山(2702m) 1日目

  • 2023.02.02 Thursday
  • 08:28

2021年10月中旬 晴れ

 

別当出合登山口でシャトルバスを降りると快晴だった。まだ少し薄暗く、秋の朝の空気がひんやりと心地いい。
吊り橋を渡って山に入ると、木々が色づきつつあった。砂防ダムの向こうから朝日が昇ってくる。まぶしい。10月の半ばとは思えないほど暑い日で、登っていると汗ばんでくる。
登るほどに木々は色づきを増して、高い木がなくなって視界が開けると山肌は錦に彩られていた。青空にナナカマドの赤やダケカンバの黄色が映えている。秋真っ盛りだ。登山道を右手に振り返ると別山が堂々とした山容を惜しげもなくさらしている。別山尾根のコースも検討していたが、かなりアップダウンがきつくコースタイムも長くなるため今回は断念した。いつか歩きたいものだ。
砂防新道はよく整備された歩きやすい道で、意気揚々と軽快に登っていける。

かなり久々の長い登りだが、思っていたよりも身体は良く動いた。

 

色づく山々と青空
別山がそびえる
別山がそびえる


七月の半ばに父が心筋梗塞で倒れ、治療の甲斐なく数週間後にそのまま帰らぬ人となった。意識は一度も戻らなかった。

永遠に続くかと思われた病院と実家を往復する日々が終わり、葬儀を含めた諸々の手続きをこなし、ようやく大阪に戻ってたまりにたまった仕事を片付けているうちに気が付けば夏が過ぎて秋になっていた。むろん、山など登っている暇はなかった。夏山シーズンが終わろうとしていた。
たった二か月前に肉親を亡くしたばかりなのに、もう山に登っている。素晴らしい青天と絶景に、胸いっぱい吸い込む清々しい空気に、久しぶりに来られた高い山に、素直に心が躍る。

恐らく自分は薄情者なのだろう。
南竜荘への分岐を過ぎて弥陀ヶ原の木道に入ると、白山の山容が目の前に迫ってくる。ナナカマドやドウダンツツジの葉が赤く色づき、足元にはシラタマノキがかわいらしい実をつけていた。

 

ナナカマド
シラタマノキ


白山室堂山荘まで上がる。宿泊の受付はまだ始まっていない。小屋の前のベンチでカップラーメンを食べた後、荷物をデポして山頂を目指す。
ハイマツの間の登山道をぐんぐん登っていくと、室堂と弥陀ヶ原が見下ろせる。下から湧き上がってくる雲も美しい。山頂の御前ヶ峰は雲が多く、残念ながら北アルプスを望むことはできなかった。そうはいってもいい天気だ。御池めぐりルートを通って大汝峰まで行くことにする。
白山は活火山で、山頂部にはいくつもの火口湖がある。中でも最も大きな翠ヶ池は、深いブルーの水をたたえた水面が息をのむほど美しい。眺めていると、雲が水面に写っている。光の当たり方や見る角度で青の色味が変わっていった。
さらに進んで大汝峰に登ると、翠ヶ池をはさんで御前ヶ峰が望める。いかにも火山らしい山容で、いくつもの火口の跡が上から見て取れる。
追いついてきた、定年を過ぎているであろう男性に写真を撮ってもらった。山仲間と楽しそうにしている。一人も気楽でいいよね、と言われ楽しいですよ、と答えた。

 

翠ヶ池
雲が映っている
大汝峰から見る御前ヶ峰


大汝峰を降り、室堂へ戻る。千蛇ヶ池で分岐を右に折れ、行きとは別のルートをとる。雲が出てきて展望はなくなっていたが、草紅葉が見ごろで目を楽しませてくれた。
室堂に戻り受付を済ませる。今回は素泊まりで、自炊スペースのある白山荘に泊まる。新型コロナウイルスの対策で、カーテンで区切られた1区画を一人で使わせてもらえた。コロナ前のハイシーズンであれば3人、4人は雑魚寝していたかもしれないスペースだ。なかなか経営は厳しいだろうなと想像する。
自炊用のテーブルで夕食の準備をしていると、私と同世代ぐらいの娘さんと父親の二人組がやってきた。今日は天気が良くてよかったですね、等少し話をする。交代で運転しながら登山口まで来たらしい。二人で登るのは久しぶりだと言いながら、カレーや肉まんを温めて食べていた。
仲良さそうで、素直にうらやましい。うらやましいし、この親子がいつまでも一緒に山に登れますように、とも思う。もちろんそんなことは、この親子には言わない。
消灯前に布団に潜り込む。感染症対策のため、持ち込んだシュラフカバーを布団に入れている。
広々としたスペースはとても快適で、よく眠れた。

 

日没

やまがある日記〜伊吹山(1377m)

  • 2022.09.02 Friday
  • 08:52

2022年7月下旬 晴れ

 

友人の運転で日付が変わった1時に登山口に着くと、夜中にもかかわらず麓の駐車場には老人が待ち構えていた。料金を払い駐車させてもらう。
登山靴のひもをしっかりと締め、ヘッドライトを装着する。
「日が昇ったら暑いよ」との老人の忠告に頷きながら出発した。
上野登山口から登山道に入るとしばらくは樹林帯の中を進む。こんな時間だが我々以外にも登山者が何人かいて、ヘッドライトの明りがちらついている。足元ばかり見ながらずんずん進む。

ヘッドライトの明りが照らす空中に、光に吸い寄せられた無数の羽虫が飛んでいた。髪にたくさんついていそうで顔をしかめる。
風の吹かない樹林帯は湿度が高く、登っているとじっとりと暑い。背中を汗が伝うのがわかる。昼間の暑さを避けて夜に来ているわけであるがそれでも夏は夏だ。
樹林帯を抜け、ふうふう言いながらスキー場の跡地を登り切ると急にひんやりした風が吹いてホッとする。
暗闇に黄色い花が浮かび上がっているのが目に入った。ユウスゲの花だ。その名の通り夕方に咲き、昼前にはしおれてしまう。美しい花だが、ヘッドライトに照らされた姿は何となく幽霊のようでもある。
急登を前に3合目のベンチで休憩する。空を見上げると薄い雲がかかっているものの星空が広がっていた。ちょうどみずがめ座流星群のピークに当たっていて、いくつか流れていくのが見えた。もう大人なので願い事はしない。あんまり見ていると首が痛くなってくる。あくびが一つ出る。仮眠は取ったがやはり眠い。ぼちぼち出発しよう。
4合目からは急な斜面をつづら折りに登っていく。ごろごろと石が多く歩きづらい。登山道の感じは富士山に少し似ている。振り返ると琵琶湖の周りの街々の明りが見える。光に囲まれて、琵琶湖だけが黒々と浮かび上がっていた。

 

琵琶湖の夜景


徐々に高度を上げていくにつれて、星が少しずつ見えなくなり、空が明るくなってくる。日の出にはぎりぎり間に合いそうだ。
山頂にはドライブウェイから来たであろう人々で混みあっていた。登山者より多そうだ。
適当な位置に陣取って日の出を待つ。風があって肌寒い。岐阜県側は高い位置に雲海が出ていて、風に乗って尾根を越えていく。雲の向こうに昇り始めているであろう太陽に照らされて、雲が赤くなっていく。予定より10分ほど遅れて、雲の上から太陽が顔を出した。暖かい。まぶしくてすぐに見ていられなくなる。

 

雲が流れていく
日の出


琵琶湖に伊吹山の大きな影が落ちている。ベンチに腰掛けて食事をとる。朝食のパンと一緒にコーヒーを飲むつもりだったが伊吹山は火気が禁止であることを忘れていて断念した。
腹を満たしたらイブキジャコウソウやシモツケソウの咲くお花畑をぐるりと巡ってから、暑くなる前にさっさと下山だ。うっかり帽子を忘れたのでのんびりしていたら直射日光にやられてしまう。日差しが当たると急激に暑い。とりあえず頭頂部だけでも守るため手ぬぐいを巻くと、何かの職人みたいだと友人に笑われた。手ぬぐいは頭に巻いたり首に巻いたりいざというときは包帯になったりと便利なので登山の際はザックに1,2枚入れておくとよい。タオルと違ってかさばらないのもいい。

 

日の出を見る人々
雲海
影伊吹


3合目まで降り切ると夜に咲いていたユウスゲはすでにしぼんでいた。鹿よけネットの中にはコオニユリやハクサンフウロ、カワラナデシコ等が咲いている。古来薬草の山として知られる伊吹山には、イブキジャコウソウやイブキトラノオ等、その名を冠した植物もいくつもある。しかし、今は鹿の食害でずいぶん貴重な植物が減ってしまっているそうだ。
振り返ると伊吹山が壁のように迫っている。1377mと標高はさほどでもないが、スタートが低いため累積標高は1200m近い。

どっしりとしたいい山だ。よく登ったなあと思う。
登ってくる人たちとすれ違う。皆汗だくだ。伊吹山は序盤の樹林帯を抜けるとほぼ日差しを避ける場所がなく、夏は厳しい。ナイトハイクにしておいてよかった。
樹林帯に入ると、ヒグラシが鳴いている。芭蕉が読んだ岩にしみいるセミの声とは、何のセミだったのだろう。ヒグラシがぴったりのように思うけれど、いかにも過ぎる感じもする。まさかクマゼミではあるまい。というような話をしながら歩いていたが、後でWikipediaを調べると研究者の間では恐らくニイニイゼミだろうとされているらしい。それはそれで納得感がある。
9時前に駐車場にたどり着くと夜中に応対してくれた老人が出てきて、お疲れさまと言ってくれた。果たして彼はいつ寝ているのだろう、と首をかしげる。いつまでも元気でいてほしいものだ。
夜に山を歩く非日常感も楽しく、絶景も見られて満足な山行だった。

 

コオニユリ
伊吹山を振り返る

【テーマ】足りていれば30分で Mr.マルーン

  • 2021.03.31 Wednesday
  • 08:50

「だめだ、もう間に合わない」

不意に、自分の周りが加速したように感じる。違う。自分が相対的に遅くなっているのだ。今月はもう、すっかり使い切ってしまった。ああやってしまった、と絶望的な気分がぐんぐん引き延ばされていく。
「申し訳ない、編集長……」

 

 

我が国が超高齢化社会と呼ばれるようになって久しい。先細る人口でなんとか福祉やインフラを支えるために、政府はありとあらゆるものに税金をかけるようになっていった。
若者世代は増え続ける負担に押しつぶされますます少子化が進行する。娯楽という娯楽は全て高い税金がかかるためなかなか庶民には手が出せなくなっていく。各地の観光地はそんな高い税金をものともしない富裕層たちのためだけの高級でバリエーション豊かで治安のいい場所ばかりになっていった。
庶民の娯楽は、脳の中にだけあった。思考し、妄想することこそが、最も自由でお金のかからない、誰にも支配されない、尊い娯楽だった。
だった、というのはもうずいぶん昔の話だ。あの時代のことは、もはやただのアーカイヴされたノスタルジックな情報にすぎない。映画やコミックと何も変わらない。
二度の国民投票の結果訪れたポストシンギュラリティの世界では、思考こそに税金がかかる。いわゆる脳税である。全く以てくだらないダジャレだ。禄でもないクソネーミングのために貴重なリソースが割かれたのだと思うと腹が立つ。ああ、思って腹を立てたからまた脳税がかかってしまう。
考えなければいい、と思えば思うほど人は思考したくなる。少しでも思考せずに済ませるためにただ概念上のボタンを連打するだけのゲームをみんな無心でしている。ポイントをためてガチャを回す。ピッピロピー。チッ、クソカードしか出やしない。サブモニタには延々と猫の画像が流れ続けている。ああ猫ちゃんやっぱりかわいいなー猫ちゃん。もふもふ。
ここでは思考そのものが税源で、思考そのものが価値だ。脳を使った税を脳で支払う。だから無駄に思考すればするほど思考するリソースが奪われる。
無限の計算能力を持っていると思われたサーバは国の人間全員の思考を支えるには到底足りなかった。無駄は順次そぎ落とされ、各人にパーソナライズされたアバターを3Dで動かしたり、シンギュラリティ以前の街を精密に再現するようなぜいたくな仕様は最初の段階で廃止された。
こんなつもりじゃなかった、と人々はみな思った。思ったので脳税させられた。
それでも人は、思考するのをやめられない。
情けない。今月もうこんなにかつかつなのに、まだ1本も原稿を書き上げられていないのだ。なんということだ。無限のリソースを使って無限のスピードで物語を生み出せるはずだったのに。

 

 

ちゃりーん、と安っぽい効果音が響き、世界の速さが戻ってくる。メッセージがついている。

『ファンです。がんばってください』
おお、なんとありがたい。ふるさと脳税だ。ふるさと、の意味というか文脈は謎だがシンギュラリティ以前の世界にそのような名前の税金システムがあったらしい。それはともかく、これでまた、しばらく書き続けることができる。よし、なんとかこの素晴らしいファンに報いねば、と思ったところで、ああまた思ってしまった。くそったれ、どうなってやがるんだ。
一人のファンによるふるさと脳税で賄えるリソースなどたかが知れている。ああ、申し訳ない。まだ一行も書けていない。

 

「だめだ、もうやっぱり、間に合わない」

 

やまがある日記〜妙見山(660m) Mr.マルーン

  • 2021.03.21 Sunday
  • 12:00

2021年3月中旬 晴れ

 

春というのはなんとなくむずむずする季節だ。主に微粒子に対してむやみにセンシティヴな私の鼻のせいだが、もちろん、春という季節自体がそうさせる力を持っている。
妙見口駅から登山口までのロードは春の里山の気配がする。畔道にホトケノザやフキノトウが生えていて、イノシシ除けの電気柵に触らないようにしながら写真を撮った。
短い林道を抜けるといかにも丘陵地のニュータウンという風情の住宅街の端に出て、そのまましばらく行くと登山口に着く。天台山コースは妙見山の登山コースでは一番長いルートだ。登山口がいきなり分岐になっているがどちらも最終的には同じルートに合流するらしい。あまり考えずに左に入ったがこれが間違いであった。
この日は妙見山のミツマタ群落を見るために来たのだが、天台山コースのミツマタ群落は右の谷に入るのが正解だった。どこまで行っても展望のない尾根の樹林帯で、おかしいなあミツマタは日当たりのいい谷間に生える植物のはずだよなあと思いながらも歩きやすい尾根道はリズムよく歩いているだけで何となく楽しく、そうしているうちに気づいた頃にはすっかり遠ざかっていた。やっちまった、と思うが引き返すのもばかばかしいのでそのまま山頂に向かう。
途中の天台山も光明山もとくに見るべきものはなかった。光明山のピークを過ぎたところで鉄塔の下が展望がよかったので、ここで昼食をとる。この近辺はツーリングの名所でもあるのでバイクのエンジン音が聞こえる。

 

尾根道
鉄塔


一度ロードに出てから再び山道に入って急登を10分ほど登ると大きな石の鳥居が見えて、妙見山の寺社の境内に入ったことがわかる。ここの寺は少し変わっていて、日蓮宗の寺で同時に北極星信仰の聖地でもある。信徒会館はおそらく星を模しているのだろう、不思議な形をしている。
山頂の三角点は石段を少しそれて登ったところにある。表示はいたって地味だが、まあ一応。
売店で売っている饅頭が美味しそうだったが昼食を食べたばかりなのでスルーして下山を開始する。
下山は初谷コースで、来た道を少し戻って途中から登山道に入る。傾斜のなだらかな沢路で、沢の音が心地よい。基本的には至って歩きやすいが渡渉点が多く、場所によっては少し考えて渡らないといけなかった。苔から湧水がしみだしていてつやつやと美しい。キブシやヤブツバキといった花々も目を楽しませてくれる。新しい椿の花が岩の上に落ちている姿が、自然が生け花をしているみたいだった。

 

キブシ
沢に落ちた椿の花
生け花みたい


半分ほど下ると、黄色い花をつけた低木が生えている。今日の目当てのミツマタだ。沢沿いに何本かと、斜面にも群落がある。パイの実ぐらいの大きさの花の塊がいくつも枝の先についているのがかわいらしい。行きでは見そびれたがこちらにも生えているのを知っていた。ただ、やはり群落の規模はこちらの方が小さい。
さらに下っていくと河原が広くなってきて、煙の臭いがする。河原でキャンプしている家族連れが何組か来ていた。もう下山口はすぐだ。

 

ミツマタ
奇妙な樹


下山口に出て、駅に向かわずに逆向きに歩く。今朝通った林道を抜け、住宅街の端を抜けて、15分ほどで天台山の登山口まで来た。迷わず右に入る。
いったん下るとあとはほとんどフラットな道を20分ほど歩くと、谷間が一面ミツマタの花で黄色に染まっていた。やはりこちらの方が群落の規模が大きい。日当たりの関係かよく開いている木とまだつぼみの木とある。ミツマタは和紙の原料として古くから重要な植物で、この辺りからも全盛期にはすごい量が出荷されたのだそうだ。沈丁花の仲間らしく花からは甘い香りが漂っている。意外とハイカーの数も少なく、じっくり写真を撮ることができた。
ミツマタの森を抜けて尾根にまで登ることもできるが、さすがに少し疲れたのでそこで引き返した。
スタートのミスのせいでプラス5km、トータル19km近く歩くことになってしまったが、疲労感も程よく、春を存分に楽しめた満足な登山だった。
ただ、この日は気温が上がった好天のため、快適な登山と引き換えにこれでもかというぐらいに花粉を浴びることになり、翌日ひどい鼻炎に悩まされることになるのだが。

 

谷を埋めるミツマタ
ミツマタ
アップで

 

テーマコンテスト受賞コメント Mr.マルーン

  • 2021.02.24 Wednesday
  • 22:00

こんにちは。マルーンです。

12月に続いて今回もテーマコンテストにお選びいただきありがとうございます。
この冬のみかんは何となくおいしいような気がして、よく食べています。今回のお話もみかんをむきながら考えました。テーマはいつも、最初のネタ出しが一番苦労します。思いついたアイデアを検討して「これでいける!」というのがカチッとはまれば早いし、だいたいそういう時はいい出来のものが書ける気がします。スーツケースは自分で選んでおいてまだ悩んでいます。だいたいこういう時はうまくいきません。間に合うのかな……

 

さて、最近のトピックとして、NASAの火星探査機パーサヴィアランスがつい先日火星に着陸しました。火星は私たちの住む地球の隣の惑星で、サイズはかなり小さいものの兄弟のような星ともいわれます。酸化鉄に覆われた赤茶けた惑星なので、地球よりもみかんに似ているかも。
宇宙開発の側面でも、月に次いでもっとも重要な星で、すでに何度か探査機が送り込まれています。最も古いものでは1997年に着陸したマーズ・パスファインダーがあります。アンディ・ウィアーの「火星の人(映画はオデッセイ)」で火星に取り残されたワトニーを救う重要なエクストラミッションに臨みましたよね。
今回のパーサヴィアランスは前身のキュリオシティの設計を踏襲しつつ改良が図られています。ミッションはジェゼロ・クレーターの探査。火星の生命の痕跡を探ることが大きな目的の一つになっています。将来的には火星からのサンプルリターンをNASAは目指しているそうですが、さていつになるでしょうね。重力が大きく、また大気もある惑星や衛星からのサンプルリターンは小惑星からのそれと比べて技術的に難易度がかなり上がってきます。
パーサヴィアランスはインジェニュイティという小型ヘリコプタードローンを搭載しており、火星の薄い大気でもヘリコプターを運用できるのかの実験も予定されています。今回はこのヘリをローバーの安全な走行ルートを偵察するために使えるかという実験になるようです。うまくいけば火星の風景を空撮した写真が見られたりするのかな。楽しみですね。
ニュースで見たインジェニュイティの実験機がラボでなかなかバランスが取れずぽよぽよと飛んだり跳ねたりしている映像は、何となくけなげでかわいらしかったです。

 

そろそろ来月のテーマを発表いたしましょう。
ど、れ、に、し、よ、う、か、な。て、ん、の、か、み、さ、ま、の、い、う、と、お、り。
「納税!」
おやおや、税務署の方から来た神様だったようです。皆様確定申告はもうお済みですか?

やまがある日記〜西穂独標(2,701m)

  • 2021.02.06 Saturday
  • 07:00

2020年9月中旬 晴れ

 

GoToトラベルの影響か、新穂高ロープウェイの乗り場は混雑していた。密を避けるため定員を減らしての運行で、列の進みは遅い。始発のバスできたもののそれなりに待たされて、ようやく二階建てのゴンドラに乗り込む。ゴンドラがガスの中を抜けると青空が広がり、槍ヶ岳がかなり近くに見えた。
ゴンドラを降りて展望台に出ると雲海に浮かぶ笠ヶ岳が目の前にどーんと迫っていた。すがすがしい天気でうれしい。

 

ロープウェイのケーブルと雲海に浮かぶ笠ヶ岳


早速登山道に入る。しばらくは遊歩道のゆるやかな登りで、観光客も多い。トウヒやシラビソの森に木漏れ日がさしている。前日の焼岳が思ったよりもハードだったので足には少し疲れが残っているが、歩いているうちに気にならなくなるだろう。
一時間半ほど樹林帯を歩くと、徐々に樹高が低くなって西穂山荘の前に出る。本当はここにテントを張って泊まりたかったが、コロナウイルスの影響で今はテント場も予約制、旅程が決まった時にはすでに埋まってしまっていたのだった。
山荘で名物のラーメンを注文した。何の変哲もない醤油ラーメンだがこういう場所ではうれしいものだ。小屋の食堂は一席ずつ間仕切りがしてあって、時折マスクの着用を呼びかけるスタッフの声が響いている。無視して売店の商品を物色する中年男性はわざと無視しているのだろうか。大変だな、と思う。
山荘から15分ほど登ると一つ目のピークの丸山に着く。振り返ると前日に登った焼岳の溶岩ドームが正面に見える。縦走も楽しそうだ。ここから先はいよいよアルプスらしい稜線歩きだ。左手にずっと笠ヶ岳がよく見えている。存在感がすごい。いずれ登ろう。

 

焼岳
稜線を歩く

 

ハイマツを縫うように作られたガレた道をゆっくり登っていくと、今日の目的地の独標が見えてくる。うげ、と思った。岩峰にずらりと人が並んで取り付いている。うわさに聞く独標の渋滞だ。あれに引っ掛かりたくないから本当は山荘に泊まって早朝に西穂まで登りたかった。焼岳も楽しかったし民宿の温泉も気持ちよかったので文句はないけれど。
ざくざくと尾根を歩いて独標の下まで来た。山頂部は狭いのでそう何人もは登れない。また登りと下りのコースが分かれていないので、岩の細いルートに人がとりつきすぎてすれ違いにも時間がかかっているようだ。時間がかかりそうなので、足場が確保できているうちに上着を一枚羽織った。天気はいいが、稜線で立ち尽くしていると結構冷えるのだ。

 

渋滞


なるべく足場のしっかりした待ちやすいところにポジションするようにしながらじわじわ登って行って、コースタイムではおよそ10分ほどと思われる岩場に1時間ほどかけてようやく登り切った。岩場自体はそれほど難しくはない。独標の山頂は素晴らしい展望で、コースタイム的にも難易度的にもほどよいし、人気があるのもうなずけた。目の前にはピラミッドピークから西穂へ続く稜線が迫る。奥の方は雲に包まれていて見えない。ここから先のルートは一段階レベルが上がる。鋭くとがった尾根が美しく、次来たときはきっとこの先まで行こうと思った。

 

独標
西穂高へむかう稜線


次の人がくるので、あまり長居はできない。名残惜しいが下山する。
来た道を少し下って振り返ると、ガスに包まれつつある独標に私が登った時以上に列が伸びていてうげえと思う。USJちゃうねんぞ。自分もその行列の一人だったにもかかわらず内心毒づく。穂高に登った時も平日だったので、山の渋滞は富士山以来の経験だった。なるべくならご遠慮願いたいものだ。
そうはいっても稜線歩きは楽しく、私はいたってごきげんで、この時には下りのロープウェイがさらに混雑してそこから2時間近く待たされることになるとは思っていなかったのだった。危うく最終バスに乗り遅れるかと思ったが、臨時便が出ていたので助かった。本当なら新穂高温泉にゆっくり浸かっても余裕があるタイムスケジュールのはずだったのだが、なかなか計画的な登山というのもうまくいかないものである。

 

アルプスの稜線歩きはやっぱり楽しい
雲に包まれる独標

やまがある日記〜焼岳(2,455m)

  • 2021.01.30 Saturday
  • 13:00

2020年9月中旬 晴れ

 

民宿の布団でごろごろしながら天気予報を見ていたら、あれ、これ明日焼岳登れるんじゃね、となって、急遽予定を変更した。
平湯温泉始発のバスに乗り、中の湯のバス停から、淡々とつづら折りの林道を登る。上にある温泉旅館へ向かうタクシーや車がどんどん追い抜いていくのが恨めしく、ケチらずタクシーを使うんだったかなあ、と独り言ちる。ヒッチハイクみたいに親指を出したら乗せてくれたりしないだろうか、と詮無いことを考えながら、暑くなってきたのでジャケットを脱ごうとしたら、左手の人差し指に右手の爪を強かひっかけてしまった。べろりとめくれた皮の下から血がぷくりと浮かんで、あーあ、と思う。林道の隅でこそこそと絆創膏を貼っているとなんとも情けない気分で、非常に下がる。こんなことなら当初の予定通り優雅に上高地トレッキングとしゃれこむんだった、と思ってももう遅い。じくりと痛い指の傷を無視して歩き出した。
我が物顔で林道わきを陣取るサルたちをよけながら、ぽつんと一軒建ついかにも高そうな温泉宿のさらに上に焼岳登山口がある。
土の地面を踏むと途端に元気になる。登山道は火山性の黒っぽい土壌だ。樹林帯をしばらく歩くと視界が開けて、焼岳の溶岩ドームがいきなり目の前に現れた。丸っこい特徴的な形は粘性の強い溶岩によって形作られたものだ。曇っているが高曇りなので山頂の方までよく見える。地図ではここから急登だ。よし、と気合を入れる。

 

サルの親子


登り始めると確かに急登だがいたって登りやすい道で、すいすいと歩いて行ける。ナナカマドなどが少しずつ色づき始めていた。一息ついて振り返ると、緑色の斜面の向こうに高い山が見える。はてあの山はなんじゃったろうかと思っているとあとから登ってきた夫婦に写真を撮ってくれと頼まれた。
「木曽駒ヶ岳をバックにお願いします!」とあの山を指して言う。ふうんなるほどあれは木曽駒か。とあまり考えずに頷いて写真を撮って、また歩き出しながら考える。いやいや、木曽駒があんなに近いはずがない。振り返ってその山容をよくよく見る。見覚えがある雄大なシルエットに、頭の中で北アルプス周辺の地図を広げて、ああ乗鞍か、と思い至った。すっきりしたところでまた歩き出す。あの夫婦もどこかで気づくだろう。
山頂付近の噴気孔から勢いよく水蒸気が吹き出ている。焼岳は北アルプス唯一の活火山だ。ほんの百年ほど前の噴火によって梓川をせき止め、大正池を作ったことで知られる。凄まじいエネルギーだ。

 

右側の山が乗鞍岳 左奥にうっすら見える方が中央アルプス
火口
大正池に写り込む焼岳(3年ほど前に撮影したもの)


最後にぎゅっと急斜面を登ると、山頂の火口の縁に出た。火口を覗き込むと左手には緑色の池があり、右手の火口からは噴気が時折上がっている。火口の向こうに笠ヶ岳がよく見えた。焼岳の山頂部には南峰と北峰があり、主峰の南峰は崩落のため立ち入ることができない。北峰へ向かおうとすると急に晴れてきて、日差しが出てきた。青空が広がる。山頂に上がると、長い稜線の先に穂高連峰がどーんと見える。朝に林道を歩きながらぐずぐずとテンションを下げていたことも忘れて、すっかりいい気分だった。
下りは途中まで穂高に向かって稜線を進む。登りのルートよりこちらの方がやや険しい。至る所に噴気孔があり、水蒸気が青空に映える。振り返って見上げるとなんともごつごつとして荒々しく、地球のエネルギーを感じる山だ。火山は恐ろしいけれど、力強くていい。

 

山頂から穂高連峰を望む
噴気


焼岳小屋まで降りて少し休憩する。渋い小屋だ。掛けられていた手ぬぐいが格好良かったので一枚購入した。小屋のお兄さんに中の湯から来たというとあそこのロードが一番しんどいでしょうと言われた。全くその通りだ。
上高地までの下りは思ったよりも険しい道で、一部にはしごや細い足場を抜けるような場面もあり気が抜けなかった。地味に怪我をした指がトレッキングポールの持ち手に触れて痛い。

途中、コーラなどの段ボールを背負った歩荷の方とすれ違った。焼岳小屋はヘリでの荷揚げはしづらそうな地形だったので、歩荷が中心になるのだろうか。腕を組んで淡々と登っていくのをなんとなく見送る。大変な仕事だ。
梓川沿いの林道に出てやれやれと思う。梓川の清流はいつもながら綺麗だ。近くを歩いていたサルがいきなり座ったのでなんだ写真を撮ってほしいのかいとカメラを向けたら往来のど真ん中で気張り始めてあきれた。
ぐーっと伸びをして深呼吸する。よく歩いた。思い付きで登ってみたが楽しかった。河童橋に向けてのんびり歩きながら、ごほうびはソフトクリームにするかジェラートにするか、ワサビ肉まんも捨てがたいなあと考えていた。

 

焼岳小屋から見る焼岳
はしご
梓川から穂高連峰を見上げる

テーマコンテスト受賞コメント

  • 2021.01.24 Sunday
  • 23:54

こんにちは、マルーンです。12月のテーマコンテストにお選びいただきありがとうございました。混戦を勝ち抜けてうれしいです。MVP、最優秀、テーマでそれぞれ受賞者が違うというのも結構珍しい月だったのではないでしょうか。幅広い内容が楽しめるプリミエールならではの混戦模様でしたね。

 

宇宙が好きです。
好きなものは色々、かなりたくさんあるほうですが、宇宙はその中でも好きな部類に入ると思います。SFがもともと好きだったから宇宙が好きになったのか宇宙が好きだったからSF好きになったのかの前後関係はちょっともう自分でもわからなくなっちゃっているのですが、どれぐらい好きかっていうとドが付く文系のくせにJAXAの求人をのぞいたことがあるぐらいです。見ただけですけど。文系だからこそのあこがれもあるかもしれませんね。宇宙、驚くほど広くて途方もなくて未知とロマンに満ちています。そう、未知だけにね。
はやぶさ2の帰還のようなビッグイベントを実際にJAXAの方の解説をたっぷり聴きながら生配信で見られるというのは実にぜいたくな時間で、本当にいい時代だなと思いました。そんな楽しい気持ちを皆様にも少しおすそ分け出来たらよかったです。
はやぶさ2の旅はまだまだ終わりません。初号機のように地球に帰ってくることはもはやなく(ただし2回ほど地球スイングバイのために接近するそうです)、片道切符の長い長い旅が始まっています。時々思い出したら、あの子は今頃宇宙のどこにいるのかしら、などと思い出してあげてください。

 

さて、来月のテーマの発表と参りましょう。
個人的に今ネットで大流行のPUIPUIモルカーにハマっているので、2月のテーマはモルモットにしよー! と思ったらこれ私が自分で出したお題じゃないですか。あかんやん。
というわけで、2月のテーマはみしぇるさんご指定の「スーツケース」といたします。旅の荷物を詰めてよし、死体を詰めてよし。なかなかこのご時世で使う機会がないので、空想の世界の中だけでもごろごろと引っ張りながらどこぞへと旅立ちたいものです。

【テーマ】裏側 Mr.マルーン

  • 2021.01.16 Saturday
  • 01:08

「それが地球だとするじゃない」
「何、突然」
向かい合ったボックス席、私が進行方向逆向きで、彼女が進行方向向きに座っている。がたんごとん、とまだ目的地までは遠くて、私は駅で売っていたみかんを袋から取り出して、ころころと指でもてあそんだ。売られている間ずっと外気に触れていたそれは、結構冷たい。
「地球は平らだって言ってる人たちがいるらしいの」
彼女の声が好きだ。だから文脈のわからない話も悪くない。みかんをむき始める。南極点にぷつりと親指をさして、子午線に沿ってぺりぺりと、ちぎれないように。むき終わった皮はいびつな花の形をしていた。
「じゃあ、これが地殻?」
「そう」
「マントルとか核は?」
「細かいことは良いの」
中学で習ったなけなしの知識で突っ込みを入れてみたらばっさり切り捨てられた。細かいだろうか。細かくない気がするが、彼女がそういうならそうなのだろう。
「丸いものの皮をむいて平らにしようと思ったら、どうしても丸じゃなくなるわね」
「そうだね」
座席の間の窓の下に飛び出た小さな台に皮をおいて、実の白い筋を取る作業に取り掛かる。長い筋がきれいにはがれると、なんとなく気持ちがいい。地殻の裏側に白い筋が積みあがっていく。
「実際のフラットアース説は、地球は円盤状の板で、円盤の縁には高い氷の壁がたっていると考えるそうよ」
「変なこと考える人がいるね」
「昔はみんなそう思っていたわ」
「ああ……」
確かに、私だって、実際に地球が丸いところを見たことがあるわけじゃない。でも、今更地球が平らだと想像することもとても難しい。みかんみたいに手に取ることができたらわかりやすいのに。
「平らな世界の裏側はどうなってるの?」
白くひび割れた世界の裏側には、だれが住んでいるのだろう。
「知らない。神様とかじゃない」
「へえ、神様とか信じるんだ。意外」
「私、地球が平らだなんて思ってないもの」
彼女はなぜか頬を膨らませ唇を尖らせる。電車はどこかの駅に入って、気の抜けた音楽と共にプシュ、と音を立ててドアが開く。ひゅう、と足元を冷たい風が抜けていった。電車はまた走り出す。昔、この電車に乗り続けたら世界の果てに行けるだろうか、とか妄想した。もちろん、どこにも行きはしない。平らな地球を信じている人たちも、どこかでそれを知っているんじゃないだろうか。
地殻を剥がれたみかんは白い筋まですっかりきれいに取れて、私は何となくやり遂げた気分になる。つるりとした私たちのための外側と、柔らかくてもろい内側のどこにも、神様が住む場所なんてない。彼女は物欲しそうに、私の持ったむき終わったみかんを見ている。
「ねえ、それ、私に半分くれる?」
「自分でむいたら。まだあるでしょ」
「指の間に白いのが詰まるのが嫌」
なんとわがままなこと。まあ、いいけれど。私は小さくため息をついて、半分に割って片方を差し出した。私によって内側をむき出しにされ、挙句半分になった地球が彼女の手に移る。
「ありがとう」
「いや、べつに」
半分のみかんは彼女の手によってさらに半分に割られ、その小さな口元に吸い込まれていく。私も食べる。甘酸っぱくて少しだけ青臭い、懐かしい味がしておいしい。
「ふふ、電車でみかんなんて、なんだかおばあちゃんみたい」
「歳関係ある?」
電車でみかんを食べながらフラットアース説の話をする高齢者はいるだろうか、とぼんやり考える。いないとも言い切れない。
「いつか二人で宇宙に行こうか」
沖縄にでも行こうか、みたいなそんなノリで言った。そうしたら、世界の裏側の、誰も見たことがない、神様のいる世界も見えるかもしれない。彼女は嬉しそうにうなずく。
「みかん持っていく?」
「宇宙船に乗せれるかなあ」
「こっそり隠していくのよ。ねえ、もう一個むいてよ」
「自分でむきなよ」
そう言いつつも私は袋から新しいみかんを取り出していて、どこにも行けない電車は、とはいえまだ、もうひとつふたつ地球をむくぐらいの時間は走り続ける。

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