全ての狂気は正常です Mr.ヤマブキ

  • 2018.08.04 Saturday
  • 23:58

 仕事終わりにコンビニで発泡酒を買うのが日々の大きな楽しみです。冷えた棚には金や銀に輝く缶ビールや発泡酒が所狭しと並べられています。一つ取り出すと一つ押し出され、無限に広がるようでつい嬉しくなってしまうのです。

 そのうちのさほど高くない銀色のラベルの発泡酒と、おつまみの柿の種を買って会計に向かいました。273円でしたから、100円玉を3枚並べてカウンターに置きました。一瞬の間がありました。端数の小銭を出さないか待っているのだろうと思い、伏し目で通していたのを起こし、店員の顔を見ました。すると、若い男性店員に困惑の表情が浮かぶのです。

 

「これでお願いします」

 

 そう言うと彼はますます困惑し、恭しく尋ねます。

 

「すみません、273円になりますので……」

 

 誤って50円玉を出していないか、思わず確認してしまいました。

 

「なので300円を出しているんですけど」

「273円ですから、500円なら分かりますが、300円では足りないですよね?」

 

 明らかに店員は苛立ち始めていました。しかし、それはこちらも同じでした。273円を払うのに300円を出したら、足りないから500円を出せというのはどういう料簡でしょうか。

 

「300という数字は273より37だけ大きいですよね。だから僕が300円を出したら商品を貰って、さらに37円のお釣りをもらうべきでしょう」

 

 店員の顔にはミルクティーみたいに苛立ちと困惑が混ざり合っていました。後ろを見ると缶ビールを持った中年男性が怪訝な表情でこちらを見ていました。それらの表情が一層僕を苛立たせます。

 

「小学生でも分かる計算でしょう!早くレジを済ませてよ!」

 

 店員は一歩あとずさりしました。後ろの客が声をかけてきます。

 

「お兄さん、落ち着いて。悪いことはしないから。落ち着いて」

「聞いてくれますか?273円のものを買おうとして300円を出したら500円じゃないとだめだって言うんですよ?」

「お兄さん、その、多分、疲れているんでしょう。落ち着いて考えてみてください。273円のものを買うなら500円は要りますよ。店員さんの言う通り、500円を払いましょうよ。悪いことにはなりませんから。ちゃんとその発泡酒も飲めますよ」

 

 訳が分かりませんでした。普段は落ち着いている方だと思うのですが、あまりに衝撃的で混乱して叫んでしまいました。怯えた店員にすかさず警察を呼ばれてしまいました。店員と客と、行ったり来たりの押し問答を繰り返しているうちにパトカーが到着して、興奮しすぎたことに気づきました。

 

「お客さんが暴れていると聞きまして。あなたですか?」

 

 全ての視線は僕に向けられていました。でも、これはチャンスだと思いました。やっと外からまともな人間が来た、これでようやく分かってもらえるだろうと安堵しました。

 

「少し声を荒げたのは確かですけど、事情も分かってください。僕が273円の品物を買おうとして300円を出したら、足りないから500円を出せと言うんです。この人たちがおかしいんですよ。だからそれを正そうと言い合いになってしまって……」

 

 二人の警察官のうち、上級と見える警官が言います。

 

「事情は分かりました。まあ、とにかくこちらで話をよく聞かせてください。店は逃げませんから後でどうにでもなりますよ」

 

 そうして僕はパトカーの後部座席に乗せられました。話を聞くと言ったのに、その前に車は発進しました。その間、隣の下級の警官が話しかけてきました。

 

「大変だったでしょう。273円のものが300円で買えないなんて。いや、本当に。全くですよ……」

 

 てっきり警察署に連れられると思っていた僕は病院に着いたことに驚きました。また怒りがこみ上げてきました。彼らは理解者を装う裏で、僕を頭のイカれた奴だと笑いものにしていたのです。

 

「こんなところへ来てどうするんですか!警察署でしょう!いやもうここで事情聴取をしてください!」

「いいから早く降りて」

 

 冷たくて、有無を言わせぬ高圧的な物言いでした。警察を相手していることを嫌でも思いおこします。従わざるを得ませんでした。

 真っ白な病院の奥には簡易的な診察室があって、屈強な男性看護師がいました。すぐに医師もやってきました。

 

「先生、僕は何も悪いことはしていません。至って正常です。話を聞いてもらえますか?」

「もちろん。どうぞ」

 

 先ほどのことがあったので慎重になりました。友好的に見えますが、精神科医は疑り深いに違いありませんから。ただ、精神科医であれば自分の正常さを証明してもらえるという期待もありました。

 

「コンビニで発泡酒と柿の種を買おうとしたんです。合わせて273円です。だから僕は300円を出したんです。そうしたら、足りないから500円を出せと言うんです。おかしいでしょう。僕はただそこで商品と37円を貰って帰ればよかったんです。なのに店員さんも他のお客さんも僕がおかしいというので、それで驚いて、パニックになってしまって、少し大声を出してしまったんです。ただそれだけです」

「よく分かりました。買えると思っていたものが買えないと驚きますよね」

「そうなんです。本当に困ります。こんなとこまで連れてこられて先生にまでご厄介になるなんて」

「いえいえ、いいんです。ところでKさん、興奮して疲れたでしょう。ここで休んでいきませんか。しばらくの間ですよ。心を静める薬もありますから」

「先生、それは、入院しろということですか」

 

 先生の眼光は鋭いままでした。

 

「そうです。少しお疲れのようですから」

 

 危険を感じました。このままでは、訳の分からぬまま入院させられ、隔絶され、精神異常だと診断させられてしまうではありませんか。やはりこの精神科医も信用ならない男だったのです。誰も彼もが共謀して陥れようとしてきます。権威に真っ向から挑んでも負けるのが目に見えていますから、ここは逃げるしかありません。僕はすっと立ち上がり、突然走り出しました。こうすれば着いてこれないだろうと思ったのです。しかし、診察室の出口には警官が待機していて、あえなく御用となりました。

 

「放してくれ!助けてくれ!」

 

 相手が警官だということも忘れて何とか逃げおおせようと力任せに暴れました。

 

「緊急入院だ!」

 

 精神科医がそう叫んだあと、僕はあの肉体派の看護師に取り押さえられたまま、ズボンを脱がされ臀部に注射を打たれました。そして眠りにつきました。

 

 目が覚めると独房にいました。むき出しの和式便所が部屋の隅に置かれていて、それ以外何もない部屋でした。扉は固く閉められていてとても空きそうにはありませんでした。ちょうどそこにあの精神科医が来ました。

 

「Kさんご気分はどうですか」

「ご気分はと言われても、こんなとこに入れられて……」

「昨日のことは思い出せますか?ここに来るまでのいきさつです」

 

 昨日は看護師に捉えられて注射を打たれて、その前は確か警官に連れられて、というのもそれはそもそもコンビニであの店員が訳の分からないことを……。

 

「発泡酒と柿の種を買おうとしたんです。273円だったのに300円を出したんですよ。そうしたら店員さんが500円じゃないんですかって親切に聞いてくださったんです。なのに僕は300円で買わせろと叫んでいたんです。おかしな話ですよね。273円なんだから300円で買えるはずがないじゃないですか。あのとき僕はどうかしてたんです。よく分かりました」

 

 話しているうちに頭の霧が晴れていくような思いでした。

 

「分かっていただけましたか。妄想状態にあったようですね。この薬を飲んでください。また妄想状態にならないように薬でコントロールしていきましょう」

 

 医師から赤い錠剤を渡されました。

 

「ありがとうございます。でも本当に笑っちゃいますよね。店員さんもびっくりしたと思います。273円なのに300円しか出さないなんて。ああおかしい。でもこれでようやく僕も”まとも”になりました。この薬で狂気から解放されました。先生、本当にありがとうございました」

【テーマ】眠りを丁寧に Mr.ヤマブキ

  • 2018.06.29 Friday
  • 00:04

良き眠りを求めましょう。

良き眠りを与えましょう。

 

良き眠りは良き覚醒から始まります。

木漏れ日の降り注ぐ時間に体を動かしましょう。

激しく運動する必要はありません。

ミケランジェロのように肉体を躍動させましょう。

 

良き眠りには良き準備が求められます。

夕食はたっぷりと時間をかけましょう。

スープを多めに、肉は少なめに。

最後の晩餐のように噛みしめて食べましょう。

 

入浴の際は浴槽にお湯を張りましょう。

熱すぎても温すぎてもいけません。

卵が固まるか固まらないかくらいの温度にしてください。

きっかり半刻浸かったなら、しっかり体を拭き、髪を乾かしましょう。

 

照明を一つ落として本を読みましょう。

カズオ・イシグロや川端康成のように美しい風景の描かれた作品を選びましょう。

ヴェルヴェットの如き時間を揺蕩うのです。

 

眠る前にココアは欠かせません。

鍋に引いたミルクを弱火でじっくりと温めてください。

たっぷりの砂糖とシナモンを足して温かいうちに飲んでしまいましょう。

 

パジャマは漆黒のシルクを着ましょう。

引っ掛かりのないパジャマが闇と同化することでしょう。

そこにあなたが溶け、あなたという存在者を抜け出した裸の存在が浮かび上がるでしょう。

そこでは意識が時空となり、あなたは全てで、全てはあなたです。

 

祈りましょう。

祈りましょう。

 

無宗教でも祈りましょう。

超越的な存在への根源的な畏怖を捧げましょう。

あなた自身を開放し、超自己的な存在全てにあなたを委ねましょう。

大いなる自然と、超自然が心に去来することでしょう。

心に石碑を建ててください。

去来した全てに言葉を刻ませなさい。

石碑の前で跪き、恐れ戦き、祈りましょう。

 

それでも眠れないとき、誰かが邪魔をしているかもしれません。

外に騒ぐ人がいれば静かにさせましょう。

あなたの神秘を妨げる者を許してはなりません。

その手に付いた血を洗いましょう。

それが誰の血であれ、きっとあなたはよく眠れることでしょう。

全ては神秘に帰ります。

 

 

おやすみなさい。

iron sea Mr.ヤマブキ

  • 2018.06.18 Monday
  • 00:00

 「Under the Iron Sea」を制作した頃、Keaneのヴォーカルを務めるTomはアルコールとドラッグに悩まされる生活を送っていました。彼はそのころを振り返って、「暗黒の時代だった。答えはUnder the Iron Seaの中にある」と答えています。また、ピアニストであるTimもインタビューでこんな趣旨のことを答えていました。「Iron seaという踏み込むことのできないバリアがあって、僕らは息苦しさを感じている。そんな僕らの世代の思いを代弁したかった」と。

 鉄の海はそんな閉塞感を込めています。救命を目指して燃える医療ではない、現代の一般的な医療の状況。高齢者医療が中心となり、生かすだけではなく、殺すわけでもない医療。救命に向かって次々と決断するのではなく、そもそもの目標を設定せよと次々と決断を迫られる医療。その中で茫漠とした状況に振り回され、医療の無力に絶望し、どうにもならない閉塞感を抱えた医療者の思いです。そして、時に煌くCrystal ballも(南木佳士はそれをダイアモンドダストと表現しました)。

 今はwordで書いて一部を投稿しているのですが、文字数を見るとどうやら99000字に到達しているようで、10万字もすぐそこです。ここまで来れたのも皆さんに読んでもらえていることと、それを直接投票コメントで聞けることのように思います。

 

「これからも『鉄の海』を読みたいので」

 

 いつもハッタリストさんはそうコメントしてくださいます。単刀直入な物言いこそ最も合理的です。本当に励みになります。これまでの分も含めて、ベストコメント賞を差し上げたいと思います。

 

 鉄の海については、今後は収束に向かっていく予定です。今の章が最終章になるだろうと思います。まだどれくらいの分量になるか分からないのですが、おそらく今年中には(毎週間に合えば)書き終えるような気がします。乞うご期待ください。

 

 他のコメントでは、ホワイトさんの「挿絵がとてもノスタルジックで、小学生のときに読んだ何かを読んでいるような幸せな気持ちになれた」というコメントは嬉しかったです。小さい頃読んだ本の挿絵はどれもなぜか少し不気味で絵画めいていた覚えがあります。まさにそれを意図した選んだ挿絵だったので、伝わったことが嬉しかったです。

 

 最後に、次のテーマについては意味深な「24」にしたいと思います。

【テーマ】間隙婦人 Mr.ヤマブキ

  • 2018.05.28 Monday
  • 00:22

 安い物件には色々理由があって、ここを選んだときは駅から多少遠いくらいかと思っていたが、いざ住んでみると分かる。こちらのベランダのすぐ向かいにもう一棟アパートがあって、その廊下側が面している。要するに、丸見えなのだ。どちらが丸見えなのかこの際不問に付しておくが、とにかく落ち着かない。特に、夜寝る前にベランダで煙草を吸う習慣があるせいで、飲んで帰った住人が廊下を歩いて自室へ入るまでの一部始終を目撃する羽目になる。ほとんどは途中でこちらに気付くので、気まずそうに鼻歌を止めてさっさと自宅へ入ってしまう。

 そこに新しい入居があった。といっても元々空いていたのも知らなかったし、ただある日、廊下で見かけた見知らぬ女がさっと部屋に入っていっただけのことだった。その女は濃い青の嵩高い帽子を被り、こちらに気付くと目深にして、走るみたいに速足で扉の向こうへと逃げ込んだ。変わった女だと思ったが、見かけたのはそれきりだった。

 

 挿絵1

 

 その夜、いつものように煙草を吹かしているとガチャリと小さな音がした。星の瞬きの聞こえてきそうな静かな夜、それ以上の物音は聞こえなかった。特に気にもしなかったが、しばらくして刺されるような居心地の悪さに気付く。ベランダの向かいでは、玄関の扉の一つがわずかに開いている。目だ。たった5cmの隙間から誰かがこちらを覗いている。あの扉は、例の女が逃げ込んでいった部屋だ。変わった女。あの女なら合点がいく。とはいえ、何のために?安部公房は「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」と言った。あの夜に僕が彼女を見たことへの腹いせだろうか。逃げるような足取りは、確かに見られることへの憎悪があったはずだ。それ以上、何が起こるわけでもないが、不気味さは一層増して、さっさとベランダから撤退してカーテンを閉め切った。

 それからというもの、ベランダでの喫煙は止めざるをえなくなった。大丈夫だろうと閉め切ったカーテンを少し開けてみると、いつでもあの女がこちらを覗いているのだ。ほんのわずかな隙間から目がこちらを探っている。目的もよく分からないが、だからこそ気味が悪い。家にいてもあの女のことが頭を離れず、見透かされてしまうような心持ちで、とにかくカーテンから離れて生活をするようになった。

 しばらく寝苦しい日が続いた。喉が渇いて闇の時間に目が覚める。キッチンへと立つと、カーテンの下から光が漏れていた。心拍数が上がる。カーテンを人差し指と親指でつまんで恐る恐る開ける。目だ!ライトを持って、顔を窓ガラスに張り付かせた女の目がこちらの姿を捉える。大声をあげて、慌ててスマホを取って警察に連絡する。どうしました?……すでに女の姿は無かった。説明に困る。せいぜい不法侵入くらいのものだが、証拠もない。経緯を一から話してみたが、見られるばかりでほとんど何も起こっていないのだからまともに取り合ってはくれなかった。女の目が思い出される。カーテンを開けるかどうかなど分からないのに、ベランダで一晩中覗き見ようとしていたかと思うと、その異常性に体が震える。

 

 挿絵2

 

 もうベランダで煙草を吸うなんてことは考え付きもしなかった。どこから見られているか分からない。窓という窓はカーテンで閉め切ってしまった。それでも、心は落ち着かない。寝苦しい夜に女の夢でうなされる。女が家に入ってくる夢をすでに何度も見た。今日も同じ夢、女が家に入りベッドに近づいてきたところで夢であることに気付き、夢と現実の狭間へと意識が連れ戻される。目を閉じたまま、イメージだけが頭の中を駆け巡る。体が暑苦しい。顔ものぼせたように暑い。手で顔を拭う。手も暑く感じる。嫌な感じがする。やたら顔や手が暑いのは……ゆっくりと手を下ろし、目を開いてみる。目だった。体熱が感じられるほど近づいた女の顔だった!

 

 

※挿絵1 モディリアーニ作

※挿絵2 中野健夫作

雲山 Mr.ヤマブキ

  • 2018.05.04 Friday
  • 00:00

 清太が孝の引っ越しの話を聞いたのは、枯葉も残らぬ真冬の頃だった。鈍色の不揃いな空模様が学校の裏山を超えて広がっていた。いつものように二人で下校した途中、一言も話さなかった孝が、ぽつりと言ったのだ。孝だって勇気を出して言ったのだろう。二人の仲であんなに言いにくそうなのは初めてだった。清太も何も言えなかった。寂しさと、寂しさを口にする気恥ずかしさがあった。そのうちに、大粒の牡丹雪が、ひとつ、ふたつと舞い落ちて、二人が別れる頃には白い夜のように町を包んだ。清太が遠ざかる孝を振り返ると、孝も清太を見ていた。清太はすぐに向き直り、やたらに歩を速めた。

 それから、清太はいつか孝の教えてくれた、石を食べる動物の話を思い出していた。消化を良くするために食べるのだと孝は熱弁を振るったが、清太は胃が重いだろうなと思った。丁度、そんな気分だった。孝とは変わらずに遊んだけれど、透明な一枚の膜を隔てているような、二人にしか分からない距離があった。

 そうしてそのまま冬は去ろうとしていた。道端の蕗の薹が残雪の中から顔を覗かせる。孝の引っ越しは刻一刻と近づいていたが、清太は何もできないままでいた。焦燥から、居間やら仏間や奥座敷を忙しなく回って祖父に叱られた。仕方なく、奥庭で大人しくしていた。

 孝の父は転勤族だ。孝がこの町に来たのは五年前で、また家を替えるのだという。地主の家に生まれ、この町の外へ出かけたのも数える程しかない清太には、とてもその気持ちを推し量ることはできなかった。ただ、巨大な不安があって、それに相対しているのはもはや孝なのか清太なのか分からなくなっていた。居たたまれなくなって懲りもせず庭の飛石を一つ飛ばしに歩いてみる。左手には石灯篭と松が置かれ、右手には池がある。赤、白、黒の三匹の錦鯉が頭を揃えて艶やかに泳いでいた。水面に波紋が広がる。そのすぐ隣にもう一つ波紋が広がる。残雪を解かさんばかりの日光はすでに翳り、雨が降り始める。一気に雨脚は強まり、庭奥の竹林を白く染め上げた。その模様を清太は廊下から見ていた。くすんだ木目から冷気が忍び寄る。村雨に冴え返ったようだ。清太は、来るぞ、と呟いた。

 次の朝はよく晴れた。清太は孝を誘って学校の裏山を登った。道には蕨が芽吹き、青葛が黄色い蕾を付けていた。小さな動物の糞が転がり、その側を名も知らぬ虫が通り抜ける。鶯の囀りが響き渡る。春の気配だ。清太は胸が締め付けられた。とりもなおさず、それは別れの気配だからだ。

 とうとう山頂に登りつこうかというところ、木々が突然無くなり、一気に視界が開ける。わあ、と孝が歓声をあげる。雲海だ。山頂の周りをぐるりと雲が覆っている。連なる山々に囲まれたこの町をすっぽりと隠し、さらにその奥までも伸びている。白縹の淡い空模様に春霞が化粧染みて、溶け合わさり、清太たちのいる山頂と、雲と空と、太陽までもが一続きに感じられた。孝が遠くを指さして、あそこが次の町だよ、と清太に教えた。清太が黙って目を凝らしていると、孝はありがとう、と呟いた。

 引っ越しの日、清太は一家で孝を見送った。清太は孝と、父母は父母同士で手短に別れを伝えた。孝たちが車に乗り込むと、清太は父母の静止を振り切って車の真後ろに陣取った。すると車の排ガスが清太を直撃し、咽て顔を背けているうち、孝の乗る車はすでにだいぶ離れていて、すぐに路地を曲がり消えていった。あれだけ恐れていたのに、あっけない別れだった。だが、清太の心は晴れやかさを取り戻しつつあった。清太は空を見上げた。孝の住む新しい町とも雲続きのような気がした。

【テーマ】日めくりカレンダー by Mr.ヤマブキ

  • 2018.01.28 Sunday
  • 00:00

 消灯!と鋭い声が響き暗闇が訪れる。僕はこっそりと独房の日めくりカレンダーを一枚めくる。今日という日を終え、一日、一日、とその日が近づいてくる。僕の命日になるだろう。徐々に近づいてくる死の足音は確実に大きくなってきて、その一音ごとに体が震えてしまう。まだ人生に色んな悔いがあって、なおさらだ。そもそも僕が死刑にされるのも冤罪なのだ。一家三人惨殺事件の単独犯として挙げられたのは、宅配で訪問したときの扉の指紋という薄弱な証拠だけだった。無実を訴えたが他にめぼしい犯人もおらず検察のメンツもあってか、そのまま犯人に仕立て上げられてしまった。両親のもとに良識を名乗る報道陣が押しかけ、僕の生い立ちや生活歴が暴かれ、無いことまで好きに書き足されてしまった。両親が今も信じていてくれるのは嬉しかったが、だからこそ迷惑をかけたことや早くに自分が死んでしまうことが心苦しくてならない。

 死刑の日は当日に知らされることになっている。午前九時に刑務官がやってきて、十時に執行される。九時が近づくと死刑囚たちの空気は張り詰めていく。その時間を過ぎると徐々に緩まって、九時半ごろになるとすっかり元通りになる。皆、明日がそうかもしれないと思いながら一日を過ごす。カレンダーを一枚めくることで、今日一日生き延びたことと明日死ぬかもしれないことを確認する。そうしないと自分が時間の中でどこにいるのか分からなくなってくるのだ。どこかで突然死ぬことは分かっていて、それ以外に行くべき方向はない。流れるべき方向がないから時間は留まったままだ。その僅かな頼りがカレンダーだというわけなのだ。

 

 その日の午前九時、いつもの緊張の後に刑務官が僕の部屋に入ってくる。今日が死刑執行日であることを言い渡される。とうとうこの日が来たのだ。言い渡されたとき、自分ではもう少し落ち込むだろうと思っていたが、案外晴れやかな気持ちになっていた。死に怯える日々が終わると思うと逆に清々しい。ここに至って急に覚悟も出来てくる。

 仏間に通され、次の部屋に案内される。死の準備を整えるためのようだったので遺書に両親への感謝を記した。その他には何も希望しなかった。白装束に着替え、執行場に通される。首に縄が巻かれる。足元の床が開けば終わりだ。人生を振り返ろうと思うが縄の感触や埃っぽい処刑場の匂いにばかり気を取られる。いつだろうと思っていると後ろから足音がして刑務官が入ってくる。

 

「死刑は中止だ」

 

 わずかな安心の裏から強烈な不安が這い上がってくる。

 

「どうしてですか」

「それは知る必要はない。死刑は中止だ」

 

 またあの死に怯える日々を送るのだ。死と後悔に煩悶するあの夜闇。不安に包まれた見せかけの安寧。一枚一枚カレンダーをめくり正気を繋ぎ止めるあの日々を。仮初の覚悟はあっさりと吹き飛んで、絶望に満ちた独房へと戻されてしまう。今晩もまた、カレンダーを一枚めくる。

【三題噺】風の調べ by Mr.ヤマブキ

  • 2018.01.19 Friday
  • 00:00

 

 ごうごうごう……

 ごうごうごう……

 

 次のコンサートが近い。いつもそうだが、この時期は夜遅くまで練習漬けになってしまう。マリンバなんて、オーケストラの打楽器奏者であれば誰だってできる楽器ではあるが、だからこそ甘い演奏は見透かされてしまう。でもそんな後ろ向きの理由ではあまり質は向上しないので、プロとして、意図的に最高の公演にするつもりに心を入れ替える。

 主にマンションで練習をしているので、たまにペットのラブが乱入してくることもある。ラブはチワワのオスで、ここに引っ越す前から飼っている。多少邪魔されるくらいの方が本番に強くなれるからこれくらいは気にしない。ただ、最近は夜になるとけたたましく吠えることがあって、少し困っている。考えてみると駅前の風車が建ったその日からだと思う。

 何でもこの街は風が強いことで有名らしく、街の中心にある駅の真向かいに風車を建ててアピールしているらしい。それはちょうどビル三階建てほどの高さで、太い羽は完全に風力のみで動いている。昼間に近づいてもがらがら、という程度の大した音しか鳴っていないのだが、夜になるとあの音が聞こえてくるのだ。

 

 ごうごうごう……

 ごうごうごう……

 

 窓を閉めて練習していても聞こえてくる。ラブが吠えるのも無理はない。次の公演は風の調べのような繊細な曲が中心で、演奏にも影響が出てくる。深夜1時。マリンバの手を止めて風車を見に行くことにした。どうにもこうにもいられない。ラブを抱いて街の中心まで歩いていく。彼は、初めは吠え続けて腕の中から飛び出ようとしていたが、途中からは静かに腕の中で震えていた。

 風車の唸りがいっそう強く聞こえてくる。青白い月に煌々と照らされて、風車は立つ。その日は珍しく全く風のない日だったが、ぐるぐるとそれは回り続けていた。眺めている間、変わることなく一定のリズムで回り続けごうごうと音をたてる。ただそれだけだった。しかしそれはとても恐ろしいもののように思われた。ゆっくりと、背を向けないようにして家に戻った。

 

 それから、ラブは吠えなくなった。一日中寝そべって縮こまっているだけになった。私は事あるごとに風車を思い出す。聞こえてくるのだ。

 

 ごうごうごう……

 ごうごうごう……

 

 奏でようとする風の調べはいつの間にか風車の羽音にすり替わってしまう。

 

 ごうごうごう……

 ごうごうごう……

【テーマ】寿司屋 by Mr.ヤマブキ

  • 2017.12.31 Sunday
  • 00:00

 休日の昼には行きつけの寿司屋によく行く。そこは大将が女性で、男性社会の寿司屋には珍しい。女性ならではの気遣いというか、頑固な大将とは違う魅力があるように思う。それに正直言って美人なのもある。

 その日は空いていた。自分の他にはカウンターの少し離れたところに一人、中年男性がいるだけだった。いつもと同じように光り物から入り、白身を食べて、鮪を二貫頼んだ。細く白い指が酢飯を掴み、寿司が握られていく様を見つめる。実は、何度か彼女を誘ったがなびいてくれなくて困っている。そこで一芝居打つことにした。

 鮪が出てくる。その一つを食べる。申し分無い味だ。

 

「大将、この味はなんだい」

「え、どうかされましたか」

「この鮪、傷んでるんじゃないかい?この辺りで構えるのにこれじゃあねえ」

 

 そして小声で付け加える。

 

「まあ、黙っておいてあげないこともないけど」

 

 大将は面食らっていた。容易に懐柔できるだろう。と、彼女はこちらに手を伸ばし、ひょいともう一つの鮪をぱくりと食べた。

 

「良い味ですよ。この味がお分かりになりませんか」

 

 別の客がこちらをじっと見ている。白旗を上げざるを得なかった。

 

 それから、時価五千円の大トロを三つも頼まされた。

最優秀作品賞受賞記念会見 by Mr.ヤマブキ

  • 2017.12.21 Thursday
  • 01:44

「それでは、Mr.ヤマブキの登場です!」

Mr.ヤマブキ、颯爽と四次元から現れる)

 

「こんばんは」

(椅子に座ったMr.ヤマブキは渦巻きを象った仮面を被っている。肩を縮めマイクに前傾で近づき、くぐもった声でひっそりと挨拶をする)

 

「それでは最優秀賞受賞会見を始めます。まずはMr.ヤマブキから受賞の挨拶をお願いいたします」

 

Mr.ヤマブキは話しはじめることを逡巡するような態度で沈黙を貫く。司会や記者たちがしびれを切らすそのわずか手前で不意打ちのように話し始める。それはあたかも、沈黙それそのものに呼吸があって、その呼吸の途中に現れる無意識を射抜くようなやり方であった)

 

「のっぺらぼうを知っていますか?」

(冷や水を浴びせられた記者たちの中に、その一言で話の方向に感づいた者の安堵と、読めない者の混乱が漂い始める)

 

「夜道でのっぺらぼうに会った男が家に帰るとその妻ものっぺらぼうだったという話です。安全である居場所を奪われる恐怖が幼い私の心に深く刻み込まれました」

 

(記者たちはそこから展開される物語を期待し、待つ)

 

「……ということです」

 

(間髪入れずに司会が続く)

「ありがとうございました!それでは質疑応答に参ります。挙手をお願いいたします」

(記者たちのざわめきの中、一人の女性が迷いなく手を上げる)

 

「ヤマブキさんおめでとうございます。フリー記者のEです。いつも素敵な作品を書かれるときに何を考えて書いておられるのか教えていただけませんか」

 

「ありがとうございます、アールグレイさん。誰も思いつかないような作品、つまりそれは単に奇抜ということだけではなくて、読者を未知の世界に連れて行ってくれるような作品を書きたいと思っています。それは自分がそんな作品を読みたいという気持ちからです」

「具体的に、どこをどうやるとMVPと最優秀作品を連覇できますか?」

「僕は賞からしばらく遠ざかっていましたから答える資格はありません。がりはさんやマルーンさんたちに聞かれてはどうでしょうか」

「私はヤマブキさんに聞きたいんですよ」

(柔和な笑みは崩れないが、崩れないという事実そのものが軽い狂気と執着を示唆している)

「そこをそうやればできますよ。次の方どうぞ」

 

(上裸にショートタイツを履きチャンピオンベルトを巻いた男が挙手をする。似つかわしくないその出で立ちに周囲の潮は引いている)

「おい、来てやったぞ。久しぶりに賞を取ったみたいだな、おめでとう。だが俺は最優秀にふさわしい作品を二作品も書いたんだからこのベルトは渡せねえな」

 

「質問をどうぞ」

「なんだ、かかってこねえのか?」

「トランキーロ。かかっていきません。次の方どうぞ」

 

(如何にも俳人のような和服の中年男性が挙手をしている)

「青い中年です。SEKAI NO OWARISaoriの処女作が直木賞候補に挙げられたことは大変素晴らしいことと思うのですがいかがお考えでしょうか」

 

「大変素晴らしいと思う一方、もしこれで賞を取ることになったら恩田陸のファンの気持ちも考えろよと感じます」

 

(時間の関係か、またも司会が間髪入れずに終了を告げる)

「ヤマブキ先生ありがとうございました。質疑応答および当会見はこれをもちまして終了といたします。お集りの皆様、本日は誠にありがとうございました。ヤマブキ先生に盛大な拍手をお願いいたします」

 

Mr.ヤマブキはなかなかその場をたとうとせず、記者たちをおもむろに眺めまわした後、突如仮面を剥ぎ取る。悲鳴のこだまする会場を後に、颯爽と四次元へと帰っていく)

【テーマ】夕焼け人間 by Mr.ヤマブキ

  • 2017.11.16 Thursday
  • 17:00

 日が高さを落としはじめた頃、ぼくは家から散歩に出ます。するとたちまち日は沈もうとし、黄色い街はオレンジ色に染まってしまいます。今日も夕焼けの時間がやってきました。ぼくは夕焼けを背負った夕焼け人間です。ぼくの夕焼けが淡い水色の空に滲んで溶けてしまって街に夕焼けが訪れたのです。

 夜の匂いを嗅ぎつけて、こうもりがやってきました。

 

「今日も散歩かい。それにしてもきれいな夕焼けだねえ」

 

 こうもりはいつもぼくのところへ来て優しい声をかけてくれます。でもそれはぼくのためではなく、こうもり自身のためなのです。こうもりは弱い人間の匂いに集まって、わざと優しく接するのです。彼が言うには弱い人間は夜の匂いがするんだそうです。

 

「こんな素敵な空を見れないなんてね」

「仕方ないさ。夕焼けを背負ってるんだから。それに、鏡やカメラでは見たこともあるからね」

 

 夕焼け人間の欠点は、自分の背中を見れないということです。ぼくの向く方は常に日が通り過ぎた後の夕闇です。それはいつも、すみれ色の澄んだ香りがします。全然嫌いではないのですが、ときどき、その香りに寂しくなることがあります。一度でいいからぼくの背負った自慢の夕焼けをこの目で直接見てみたいと思うのです。写真では見れても、自然の大パノラマで見るのは格別なものがあるからです。

 

 ある雨の日、空は雲で覆われ夕陽の射し込む隙間はありませんでした。そんな日でもぼくは行かなければなりません。雲の裏にでも夕焼けが広がることが重要なのです。なぜなら夕焼けが来ないと夜が来ないからです。

 そんなわけでいつもの道を散歩していると、ハトの羽のような薄暗い空に虹がかかっているのに気付きました。ぼくの夕焼けが雲に隠れてしまっているのに虹が出るはずがないのです。だからこそぼくは確信しました。虹人間しかありえません。これからすれ違う人の誰かが虹人間なのです。

 

「君かい、夕焼け人間は」

 

 そう思ったときにはすでにぼくは彼を通り過ぎようとしていて、ほとんど後ろから声をかけられてびっくりしてしまいました。期待と緊張で、返事はひっくり返ってしまいました。

 

「私のような人間に出会ったのは初めてだ」

「はじめまして、ぼくは夕焼け人間です」

「君が心配だ」

「どうしてぼくが夕焼け人間だと分かったのですか」

「私と同じようなつらい思いをしているんじゃないだろうか」

「もしかして、ぼくの背中の夕焼けが見えるのですか」

「自分の背負った美しいものを一生見ることができないという悲しみを」

 

 そこにこうもりがやってきて笑います。

 

「なんてへんてこりんな話をしているんだ」

 

「そうか、虹と夕焼けが同じ方向に見えることはないから二人の話が合うわけがない」

「こうもり君よ、これを見たまえ」

 

 虹人間はぼくと肩を並べます。たちまち曇り空が立ち退いて、茜色の光が射し込んできます。こうもりは驚いてふらふらと力なく飛んでいます。それを見て、夕焼けに虹がかかっているのだと気付きました。

 

「さあ行こう、悲しむことはない。皆に私たちの宝を見てもらおう!」

 

 こうもりが言います。

 

「ほ、ほんとうに行くのかい?」

 

 ぼくはこうもりの本当の気持ちを知っていました。虹人間とは話が合うはずがないと言って引き離そうとした意味もよく分かりました。

 

「一緒に行こうよ」

 

 こうして三人は夕暮れの町をどこまでもまっすぐ歩いたのでした。

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