タイトルはどうしましょうか byミッチー
- 2019.05.28 Tuesday
- 22:08
音楽や絵画は、専門的知識を持った人が作品の趣旨を解釈し評論してくれるおかげで、やっと意味が分かったり、気づかなかったところに気づいたりできるのだと思っています。
だから評論を読むのは好きです。
しかし、インタビューは嫌いです。
具体的には、歌詞の意味にかんするインタビューが嫌いです。レコーディング時やライブの裏話などはそうでもないのですが、その際に何を考えていたか、などは近いものがあります。
どうも、気づかないうちに、僕はその手のやり取りを目にすると不愉快に感じる体になってしまったようなのです。
昔々、鬼束ちひろという歌手がブレイクした頃に出たラジオ番組を、たまたま耳にしたことがあります。
女性DJが「鬼束さんは歌詞についての質問には答えないので」と断ったあとで、自分はこういうことなんじゃないかと思った、と本人に対して感想を述べていました。
当時は「それいる?」くらいにしか思わなかったのですが、しかし15年以上経った今でも思い出すところを見ると、僕にとって印象的なやり取りだったのでしょう。悪い意味で。
僕が知る限り、今も昔も音楽雑誌のインタビューではしばしばその手の質問がなされています。
答えるか答えないかはアーティスト次第だと思いますが、もし本人が嬉々としてそれに答えている記事を目にしようものなら、僕は奇声を挙げて雑誌を床に投げつけてしまうかもしれない。だから、僕はもう音楽雑誌を読めません。
いや、正確には、評論の記事だけを読みたいのですが、インタビューが目に入ってしまうのが嫌なので、手に取る気がしないのです。
人生の何割か損している、というベタなフレーズがありますが、ここまでくると、本当に損しているかもしれません。
では、一体何がそんなに嫌なのか。
これがなかなか説明しにくいのです。
音楽以外のジャンル、たとえば映画などがどうなのかは、そもそも詳しくないのでよくわかりません。ただ、言語芸術の場合、その手のインタビューは少ないような印象があります。
小説が掲載されている雑誌に、本人の内容解説が付いていたらどうでしょう。違和感を覚える方が多いのではないでしょうか。
ところが、言語を用いる芸術でも、歌詞については例外的に質問されるのです。だから特に気になるわけです。
とは言え、言語芸術の場合でもそういうやり取りが起こりやすい場があります。文学賞がそれです。
数年ほど前、蓮見重彦という評論家が珍しく小説を書いて賞を取った際に、会見で内容についての質問を馬鹿にするような態度に終始して、話題になったことがありました。
その気持ちは分かる、というのが僕の第一印象でした。
ところが彼は、売り言葉に買い言葉の険悪なやり取りの中で「何かを描こうとしたのではなく、ただひらめいたことを組み合わせて書いたのだ」といった趣旨の発言をしてしまったのです。
あーあ、口が滑ったな、と僕は思いました。
実際にそういう風に書かれた作品なのか、それとも本当は、綿密に練ったプロットや作品に込めたメッセージがあったのに、隠しているのか。それは問題ではありません。
本人の口からその次元の話が出てしまったのが問題なのです。
その記事を読んでしまったときに、僕がくだんの小説を読むことは決してないだろうと確信しました。
それは決して、彼の不遜な態度への反発からではなく、むしろそこには作品という存在自体へのリスペクト、あるいは武士の情けに近い動機があります。
「ちょっと何言ってるか分からない」という感じでしょうか。
そうかもしれません。僕自身にもよく整理できていないのです。
ただ一つ言えることは、こうした考え方にもどこか暴力的なところがあり、おそらくそれは、このたび最優秀作品に選んでいただき皆様に感謝している「僕とゲバルト」で吐露した考え方と、根っこのところで繋がっている、ということです。