タイトルはどうしましょうか byミッチー

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 22:08

音楽や絵画は、専門的知識を持った人が作品の趣旨を解釈し評論してくれるおかげで、やっと意味が分かったり、気づかなかったところに気づいたりできるのだと思っています。

だから評論を読むのは好きです。

しかし、インタビューは嫌いです。


具体的には、歌詞の意味にかんするインタビューが嫌いです。レコーディング時やライブの裏話などはそうでもないのですが、その際に何を考えていたか、などは近いものがあります。

どうも、気づかないうちに、僕はその手のやり取りを目にすると不愉快に感じる体になってしまったようなのです。


昔々、鬼束ちひろという歌手がブレイクした頃に出たラジオ番組を、たまたま耳にしたことがあります。

女性DJが「鬼束さんは歌詞についての質問には答えないので」と断ったあとで、自分はこういうことなんじゃないかと思った、と本人に対して感想を述べていました。

当時は「それいる?」くらいにしか思わなかったのですが、しかし15年以上経った今でも思い出すところを見ると、僕にとって印象的なやり取りだったのでしょう。悪い意味で。


僕が知る限り、今も昔も音楽雑誌のインタビューではしばしばその手の質問がなされています。

答えるか答えないかはアーティスト次第だと思いますが、もし本人が嬉々としてそれに答えている記事を目にしようものなら、僕は奇声を挙げて雑誌を床に投げつけてしまうかもしれない。だから、僕はもう音楽雑誌を読めません。

いや、正確には、評論の記事だけを読みたいのですが、インタビューが目に入ってしまうのが嫌なので、手に取る気がしないのです。

人生の何割か損している、というベタなフレーズがありますが、ここまでくると、本当に損しているかもしれません。


では、一体何がそんなに嫌なのか。

これがなかなか説明しにくいのです。


音楽以外のジャンル、たとえば映画などがどうなのかは、そもそも詳しくないのでよくわかりません。ただ、言語芸術の場合、その手のインタビューは少ないような印象があります。

小説が掲載されている雑誌に、本人の内容解説が付いていたらどうでしょう。違和感を覚える方が多いのではないでしょうか。

ところが、言語を用いる芸術でも、歌詞については例外的に質問されるのです。だから特に気になるわけです。


とは言え、言語芸術の場合でもそういうやり取りが起こりやすい場があります。文学賞がそれです。

数年ほど前、蓮見重彦という評論家が珍しく小説を書いて賞を取った際に、会見で内容についての質問を馬鹿にするような態度に終始して、話題になったことがありました。

その気持ちは分かる、というのが僕の第一印象でした。

ところが彼は、売り言葉に買い言葉の険悪なやり取りの中で「何かを描こうとしたのではなく、ただひらめいたことを組み合わせて書いたのだ」といった趣旨の発言をしてしまったのです。


あーあ、口が滑ったな、と僕は思いました。

実際にそういう風に書かれた作品なのか、それとも本当は、綿密に練ったプロットや作品に込めたメッセージがあったのに、隠しているのか。それは問題ではありません。

本人の口からその次元の話が出てしまったのが問題なのです。


その記事を読んでしまったときに、僕がくだんの小説を読むことは決してないだろうと確信しました。

それは決して、彼の不遜な態度への反発からではなく、むしろそこには作品という存在自体へのリスペクト、あるいは武士の情けに近い動機があります。


「ちょっと何言ってるか分からない」という感じでしょうか。

そうかもしれません。僕自身にもよく整理できていないのです。


ただ一つ言えることは、こうした考え方にもどこか暴力的なところがあり、おそらくそれは、このたび最優秀作品に選んでいただき皆様に感謝している「僕とゲバルト」で吐露した考え方と、根っこのところで繋がっている、ということです。


着脱式の世界 その3 着脱化と社会 byミッチー

  • 2019.04.30 Tuesday
  • 14:44

着脱式の世界 その0 byミッチー

着脱式の世界 その1 据え置き型と着脱式 byミッチー

着脱式の世界 その2 着脱性とモード byミッチー

 

さて、社会を構成する個人がそれぞれ頻繁にモードを乗り継ぐようになり、各々にとっての「今ここ」が希薄化していくと、どういうことが起こるのでしょうか。

 

当然ながら、「今ここ」が共有される機会は減り、また共有される単位も小さくなっていくと考えられます。

同じ空間にいても違うことをしており、また違うものを見聞きしており、会話もしない。

そういったことが普通になっていく、ということです。

 

満員電車の中では、ときに全員ではないかと思える割合の人々がスマホと睨めっこしています。

僕自身、自分とは異なる言語的・文化的背景を持つ人々と乗り合わせる機会もずいぶん増えたと感じています。

もはや、ヘッドホンをしている若者だけが、据え置かれた「今ここ」から自分だけの「今ここ」へ脱出している、という話ではありません。

互いに身を寄せ合う据え置き式の空間がそこに在るにもかかわらず、同じものを見聞きし、コミュニケーションを通じて共有している、という意味での空間はそこには無いわけです。

 

都会での生活はもうずっと以前からそんなもので、恐らく江戸時代や、それどころか平安時代でも、人通りの多い道ですれ違う人にいちいち挨拶すれば、変人扱いされたことでしょう。

 

しかし、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の世界ではないですが、家族付き合いと近所付き合いが世界のすべてであるような据え置き式の社会では、道ですれ違う人同士が何の会話も交わさないということはおよそ考えられません。

以前、ふと思い立ってトレッキングに行ったところ、都会にほど近い山でも、すれ違った人とは挨拶を交わすという慣習があることに気づきました。僕にとっては新鮮な体験でした。

 

都会の生活に疲れて田舎へ引っ越す、といった話はよく聞きますが、「でも田舎の人間関係はしんどい。そこは都会の方が楽だった」という愚痴が付いてくるところまでがワンセット、という感じがします。

逆に、都会では町内会やPTAが機能不全を起こしたり、維持できなくなったりしてきているようですが、もしかすると、「今ここ」の共有度が希薄な空間に据え置き式の互助組織を形成しようというコンセプトにそもそも無理があり、都会が都会らしくなっていく過程でそれが表に出てきているだけなのかも知れません。

 

昔ながらのムラ社会に田舎から上ってきた人々が合流して都会が生まれるのだとして、その第一世代の場合は、どちらのグループに属する人々にとっても、共有される「今ここ」があるということは自明であり、その管理のために組織を作ることは当然だったと思われます。

それが自明でも当然でもでなくなったのは、世代交代や各種の着脱式ツールの普及によって意識が都会的に変わった結果とも言えるでしょう。

このように考えることが間違っていないのであれば、すでに意識の面でも都会化している都会に後から上ってきた人々が、県人会や同窓会を作りたがるのもよく分かる気がします。

 

もっとも、ここまで着脱化が進んだ時代においては、もはや「俺ら東京さ行ぐだ」的な純粋なムラ社会など、どこにも存在していないのかもしれません。

逆に、どれだけ着脱化が進んでも、共有された「今ここ」が消えてなくなるわけではないとも言えそうです。

というのも、モードの切り替えは現在性の消去ではなく、別の「今ここ」への切り替えなのであって、切り替えられた先の「今ここ」は別の誰かと共有されているからです。

満員電車で乗り合わせた目の前の人とはコミュニケーションしないが、しかしスマホを通して、いま現に誰かとつながっているのです。

あるいは、同じサイトを見ている人々と、同じ情報を、そして時には同じ思想を共有しているのです。

 

ただ、その単位の数がどんどん増えており、また共有の規模がどんどん小さくマニアックになっていっているのは間違いなさそうです。

 

それは問題なのでしょうか?

わかりません。

ただ、実態と意識が乖離している場合には、問題が生じやすいだろうと思います。

 

人間社会には、大きくて基礎的な、現在性のプラットフォームとなるような「今ここ」が必要なのか?それとも、着脱化を通じた相対化を徹底するべきなのか?

それもわかりません。

少なくとも、僕は伝統文化というものに気持ち悪さを感じるタイプの人間です。

 

しかし、フェイクだのヘイトだのという分断社会の有様を目の前にして、こうした問題を再び真剣に考える必要があるのではないか、と思うようになったのは事実です。

こうした問題とはつまり、社会が着脱化する過程で生じる歪みや、着脱化しきった先に何があるのか、という問題です。

それが、今回の退屈極まりない駄文を並べ、皆さんと共有しようと思った理由でもあります。

僕とゲバルト ミッチー

  • 2019.04.01 Monday
  • 15:01

僕はもともと頭の柔らかい方ではないのですが、ある程度年齢を重ねたせいか、それとも環境のせいか、年々、思考が暴力的になってきている気がします。

頑固になっていってる、あるいは我慢強さが減退している、とも言えるかもしれません。

もろもろの細やかな事情を一切無視して、ある一定の方向に突き放したくなるのです。

たとえばこんな風に。


(1)「単純なミスであり、悪意はなかった」「悪意の有無は関係なく、一律に厳しい処分を科すことになっています」

(2)「本店では、環境面への配慮から〇〇は置いておりません」「素晴らしい。でも、置かないという選択よりも、別のアレを置いた方がさらに環境に優しいですよ。ちょっとコストはかかってしまいますが」

(3)「ドッキリ、大成功〜!」「あ、すいません。私、そういうのやってないんですよ。当たった一億円は、今月中に入金をお願いしますね」

(4)「第一条 本規則の改正は将来にわたって一切認めないものとする。社会の実情に照らして著しく齟齬が生じた場合には、社会の方を本規則に合わせることを義務付ける」


もちろん、日常生活の中でこんなことを言い出したりはしません。

でも、このように言いたいという衝動は常にあります。ことあるごとにその衝動と戦い、無理やり押さえつけて、どうにか普通の会話を成立させています。

白鳥は水面下で必死に足をバタつかせている、とよく言いますが、そんな感じです。


上では「ある一定の方向に」と書きましたが、本当に首尾一貫しているのか、自分でもちょっと分からなくなってきています。それがまた悩みの種なんです。

というのも、(1)から(4)までの例はそれぞれ似ているようでも、問題にしているところが少しずつ違うのです。

僕は初め、これらの例を思いつくままに書いたのですが、眺めているうちに違いに気が付いたので、並べ替えました。


(1)には、《本音とタテマエの使い分けを排除し、本音を抽出したいという動機》が感じられます。というか、僕はそういう動機を持っていました。青年時代から続く、欺瞞への反発です。これをAと呼ぶことにします。

(2)も同じような感じに見えると思いますし、実際、同じ動機からも来ているのですが、別の要素が混じっています。それは、《相手の発言を文字通りに受け取り、拘束力を持つものと見なす意志》です。これをBと呼ぶことにします。


AとBは結局同じことじゃないか、と思われるかもしれませんが、違います。Bの方は、タテマエを真に受けようとする意志なのです。真に受けたいという願望でもありますし、真に受けるべきだという義務感ですらあります。また、話し手はその覚悟と責任を持つべきだ、という問題意識でもあります。「武士に二言はない」と言いますが、別に武士じゃなくても二言は無いだろ、と思うのです。


(2)では、AとBという二つの要素が合わさって、皮肉を形作っています。A+Bというわけです。ただし重点はAに置かれています。だからこそ皮肉なのです。


(3)になると、同じA+Bでも今度は重点がBの方に移ってきています。皮肉であれば、述べただけですでに目的は達成されているのですが、(3)は違います。もしこれを言う機会があるとすれば、そのとき僕は本気も本気、完全に真顔になっているだろうと思います。


そして(4)。ちょっと話が違ってきている。普通に考えればとんでもない規則なのですが、僕はたしかに、心のどこかでこういう拘束力を欲しています。

つまり、何かの規則を制定したり、あるいはもっとカジュアルに、約束や宣言、主張などをするときには、いかなる例外も認めず、未来永劫にわたって有効であるというつもりで行ってほしい、むしろ行うべきだ、という思いです。

格好をつけるなら、過去に縛られるというマイナスの側面に目をつぶってでも、未来への責任を重く見たいのかもしれません。まあ格好をつける理由はないのですが。

Bを突き詰めると、こういう発想に行きつくことでしょう。


もっとも、(1)にも少しBが反映されており、(4)にもAが混じっている、ということはありえます。だとすると、僕が年齢と共に凝り固まっていっているのは、A+Bという考え方なのかも知れません。


どうにも青臭いし、もし実際にこれを徹底すればトラブルしか起こさないでしょう。そもそも僕自身、この考え方に照らせばダメダメな言動を日々垂れ流しています。この文章も、がりはさんとの約束では昨日書くはずでした。まして(4)のような条文は、暗黒の社会を作ってしまうかもしれません。


だから、この考えはどこか暴力的なのです。

にもかかわらず、年々そちらへと傾き、何なら今にも口に出してしまいそうな僕がいます。もちろん、似たような考え方の人は僕のほかにも少なからぬ数いて、日々自分を抑え込んでいることでしょう。だが我々がひとたび蜂起すればどうなることか。

止めるなら今のうちですよ。


1788 byミッチー

  • 2019.02.08 Friday
  • 12:00

ケーニヒスベルク大学は7日午後に記者会見を開き、人間の意志が自由であることを示唆する新たな事実を特定したと発表した。同成果は、同大学哲学部のイマヌエル・カント教授の研究によるもの。詳細は、同教授の最新刊『実践理性批判』に収録された。

 

一般に、人間は他の動物とは異なる理性的な存在であり、自由な意志に基づいて行為することができるとされている。だが動物である以上、その振る舞いは単なる本能や生理的欲求といった衝動に支配されているという見方も根強く、実際に人間が自分の意志によって行為を決定する仕組みは解明されていなかった。

 

カント教授は今回、人間が行為への意志決定をしようとするたびに直接に意識する道徳法則に着目。人間が道徳法則を意識することができるのは、理性が人間に対して道徳法則を示しているという事実に注意を向けるからであるが、天使など完全に理性的な存在者は、自然法則と全く同様に道徳法則に従って行為するのに対して、動物的な衝動の影響を受ける人間の場合は、道徳法則を命令として意識し、それに従うとは限らないことが知られている。

 

同教授はすでに85年の『人倫の形而上学の基礎』において、定言命法という独自の形式を採用し、意識される道徳法則の言語化に成功していたが、その段階では意志が自由であることは単に前提されていた。今回新たに、道徳法則が全くそれ自体でア・プリオリな総合的命題として人間の意識に迫ってくるという特殊な事実を突き止め、「理性の事実」と名付けたという。

 

「理性の事実」の再現実験により、道徳法則はその存在の根拠(ratio essendi)として意志の自由の存在を強く示唆し、人間が自らの自由を認識する根拠(ratio cognoscendi)となることが確認された。

 

これまでは単なる前提であった意志の自由が証明されたことは、理論理性に対する実践理性の優位を改めて示す結果であり、魂の不死や神の存在といった実践理性からの要請の分野に対する今後の応用が期待される。

 

【関連ニュース】

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素足で駆けてく真冬のビーチ ――12月度テーマコンテスト受賞の御礼――Byミッチー

  • 2019.01.20 Sunday
  • 13:43

こんにちは。

僕の作品「出来の悪い落語」を6名もの方が支持してくださったことを知り、とても驚きました。本当にありがとうございます。

とは言え、久しぶりということで、昔を知るメンバーの方々を中心に下駄を履かせて頂いたところもあるのかな、と思っています。


僕の名前のタグで時系列を追って頂くとお分かりになるかと思いますが、昔から定期的に書くというのが大の苦手で、失踪と恥ずかしながらの復帰を繰り返してきました。

ルーティンに則って生活することがそもそも苦手なので、その意味では、僕の文章は生活感と言うか、本人の状態や置かれた状況がにじみ出るものになっているのかも知れません。


今後も、テンションに任せて月イチくらいで書かせて頂く予定です。数はその時々で偏りが出るでしょうが、その分、出すものは良いものでなくてはいけないと思っています。

ご祝儀投票という下駄を脱ぎ捨てた後、どこまでやれるのか。僕にとっても、これは挑戦です。


来月のテーマは、みしぇるさんからご提案頂いた「都道府県」でいきましょう。


これからよろしくお願いいたします。



【テーマ】できの悪い落語 ミッチー

  • 2018.12.31 Monday
  • 22:00


子供のころ、ちょっと不気味な実験の話を読んだことがある。

人間が亡くなる瞬間に体重がいくら減るか調べて、魂の重量を割り出そうとする実験の話だ。

結論としては21グラムだったそうだが、データが少なすぎて科学的にはあまり意味がない数字だったようだ。


それが、ここに来て決定的な役割を果たすとは、だれも予想していなかったに違いない。

人工生成に成功した魂のうち、われわれに適合するのは、まさに21グラムのものだけだったのだ。


この事実が発表された時の反響の凄さは、筆舌に尽くしがたい。

ロゼッタストーン解読やフェルマーの最終定理の証明もかくや、という熱狂ぶりであった。

もともとは人間の老朽化した身体のスペア、あるいは機能強化の手段であったわれわれにとっては、アイデンティティーの確保、あるいは回復とも呼ぶべき歴史的瞬間なのかも知れない。

人間が記録上にしか存在しないものとなった今、われわれはもはや手段ではない。

にもかかわらず、実用化が決定したとたんに応募が殺到し、早くも魂の供給が追い付かない状態なのだ。


みな、何かを確認、あるいは証明するために、一刻も早く魂を――「注入」と言うべきか、それとも「吸収」か、あるいは機械に見立てて「インストール」か、なんとも表現が難しいが――獲得したがっている。

手術も拍子抜けするほど簡単らしく、行ったその日にすぐ終わる。


とは言っても、劇的に何かが変わるわけではないようだ。

日常生活での振る舞いが変わったのかというと、全然そんなことはないのだ。

みな朝起きて、働いて、夜寝るまで、それまでと全く変わらない生活を送っているように見える。


「おはようございます」

「ちょっと佐藤さん、聞きましたよ。ついに手術を受けたんですって?」

「いやーお耳が早い。恥ずかしながら、この週末にデビューさせてもらいました。これで私も、魂持ちの端くれというわけです」

「どうです。やっぱり違うもんですか?」

「そりゃもう、世界が違って見えますよ。人生の半分なんてもんじゃない、全部損していたような気がしますな」

「へえー、そういうもんですか。失礼ながら、こうして見ると外見は先週の佐藤さんそのままなんですけどねえ」

「ははは、そりゃそうですよ。変わったのは中身ですからね。まあ正確には、体重が21グラムほど増えてるんでしょうが」

「いや、21グラムじゃ分かるわけないですよ。「ねえ、今日の私、どこか違うと思わない?」ってね!ははは」

「総務課の鈴木さんも、実はもうやってるって噂ですよ」

「へええ、あの人がねえ。人は見かけによりませんなあ」

「これからは、町ですれ違う人は誰もかれも、魂持ちの可能性があるってわけですなあ」

「ひえー。くわばらくわばら」

「まあ、私が言うなって話ですがね!」

「ははは」


「なんだその態度は!」「思わせぶりな態度です」  ミッチー

  • 2014.04.24 Thursday
  • 01:42
前回のとりとめもない文章を読んで下さった方は、有難うございました。

とりとめもない文章の中に、ポツンと「一般に慣習は反省されるべき云々」という抽象的な文言を入れてしまったのですが、今思えば、あれは高校の文芸部時代からの悪い癖でした。ああやって、さも奥がありそうな雰囲気を出そうとしてしまうのです。
文言の中身については稿を改めるとして、今回は自戒の意味も込め、その癖から話を広げてみたいと思います。

実はそこまで中身を作り込んでるわけじゃないけど何か奥がありそうに見せるというのは、芸術やエンターテインメント、広告など表現全般においてよくあるテクニックのように思えます。
鑑賞者としては想像が掻き立てられるわけで、それが魅力的に映る場合も多いでしょうが、こうした魅力なるものは、その都度の個人的な解釈に支えられているに過ぎません。なので、その作品の魅力を語れ、と言われても意外と難しかったりするわけです。

僕はファミコン世代なので、ハッタリさんほどではないかも知れませんがゲームは好きな方です。ファミコン世代のゲーマーが二言目には口にする「今のゲームは綺麗すぎて逆につまらない」というセリフ、年寄りのたわ言に過ぎないとは思いつつも、実はよく分かります。
昔のゲームは表現の手段に乏しかったので、クリエイターはプレイヤーの想像力による補完ありきでゲームを作っていたように思うのです。上のセリフはたわ言に過ぎないとしても、名作のイメージが色褪せることはありません。なぜならそれは抽象的で、人によってそれぞれ内容も違うものだからです。「思い出補正」というやつですね。「魂が震える体験」もそれに含まれる、と僕は考えます。

ショパンの音楽に対するシューマンの感想が荒唐無稽なイメージの羅列でしかなく、ショパン本人はそれを聞いて死ぬほど笑った、というような話を以前どなたかが書かれていたと思いますが、そのような想像をさせたということをショパンは誇っても良いのです。ただ、自分はそこまで考えていなかったのに、というむず痒さが笑いになってしまうのでしょう。

僕は昔、作家になりたかったのですが、大学に入った頃に諦めました。しかし今でも油断すると、思わせぶりな文言を挟んでしまいます。それが文章をいわば立体化する装置として機能しているなら、良い癖なのかも知れません。ただ、適当なことを書いてしまった、という自責の念が僕を悩ませるのです。僕は一人でずっとモジモジしています。

マリオカートやないねんから  ミッチー

  • 2014.04.05 Saturday
  • 01:09
2周目に入った。最近、そう感じます。

子供の頃は、人並みにクリスマスや正月を楽しんでいた記憶があります。
赤と緑にデコレートされた通りを歩けば心が躍るし、凧揚げや羽根つきもノリノリでやる。バレンタインデーが近付けばクラスメートと牽制し合う。花好きではないが花見は好き。年中行事に対して素直な反応を見せる、ごく素直な少年でした。

いつからなのか正確には思い出せないし、徐々にそうなっていったような気もしますが、やがて僕は斜に構えた態度を取るようになりました。
バレンタインデーは菓子メーカーの「陰謀」に過ぎない。クリスマスや正月を必死に盛り上げようとしているのはデパートや外食産業である。彼らに踊らされて無邪気に喜ぶほど、愚かなことはない――。もちろん僕だけでなく、周囲からもそういう発言が多く聞かれたものです。欺瞞の臭いに敏感な時期でした。

さらに年齢を重ねると、今度はそうした反発を青臭いと感じるようになりました。「何も知らずに踊らされているバカ」など妄想の産物であり、どこにもいないのだと気付いたからです。
分かっていて踊る。踊らされることを楽しむ。それが大人の余裕というものであり、表面しか見えていなかったのはかつての自分の方だったのだと。

かつてのクラスメートたちの多くはすでに家庭を持ち、子供を持つ身となりました。
子供たちと一緒になってクリスマスや正月や花見を「無邪気に」楽しむ彼らの姿を目にするとき、僕はこう感じるのです。
「ああ、1周したんだなあ」と。
子供たちは無邪気に楽しんでいる。親たちは上のサイクルを経て、「大人の余裕」を持って楽しんでいる。中には、文字通り童心に帰って楽しみ、「0周」と「1周」の区別が付かない、もしくは一体化している人もいる。
実際の人物像はおくとして、仮に、何周もした結果その境地にいたのだとしたら、良寛は凄い人物だったのだなと思います。

僕はと言えば、最近また年中行事への関心が薄れてきました。家庭を持たない引きこもりがちな生活のせいかも知れません。ただ、1周目のような感情的反発を反復しているわけでもないと思っています。内容に関わりなく、一般に慣習は反省されるべきだと考えるようになったのです。
いや、もしかすると、1周目と一体化しつつあるのかな……。

何年振りなのか自分でも分かりませんが、また時おり書かせて頂ければと思います。ミッチーと言います。よろしくお願いします。

空気兵器廃絶に向けて

  • 2010.11.15 Monday
  • 15:35

中学生の頃、給食時には割り箸を持ってきている生徒が結構いたのですが、そんな中、環境問題への取り組みとして「マイ箸を持参するよう義務付けよう」という話が持ち上がったことがありました。

それは全校集会の議題となったのですが、田舎の少年少女たちの多くにとって1000人の前で発言するというのはかなりのハードルであり、フロアからの発言は全く無いのが常でした。

しかし、この時ばかりはどうしても手を挙げねばならぬとミッチー少年は感じたのです。
目立ちたがりで生意気な盛りだったことは全面的に認めます。
「とにかく反対意見を言ってやろう」とニヤニヤしながらスタンドマイクのもとへ歩いていたような記憶もあります。

けれども決してただそれだけではなく、僕は本気で「マイ箸持参運動」に疑問を感じていたのです。
もし生徒の中に、割り箸屋の子がいたらどうするのか。「マイ箸持参運動」とは「A君(仮)の家を潰そう」運動なのか――。
そう糾弾するつもりでした。

遊んでばかりのガキだった割には中々良いところを突いていた、と今でも自負しています。
環境問題を経済の問題と切り離して論じることは、もちろん理念としてはアリでしょうが、しかし実効的な政策としては余りにも単純でしょうから。

マイ箸運動をやるんなら、A君の家庭に対しては経済的な見返りがなければおかしい。
マイクの前に立つ前に、僕の頭の中のストーリーはそこまで辿り着いていました。

しかし悲しいかな、僕は場の空気を読みきれていなかったのです。
その日は議題が多くて生徒は皆ウンザリしてきており、早く終わって欲しいという雰囲気が漂っていました。
だから集会を長引かせるような行動は、そもそも支持が得られにくい状況だったのです。

まず過激でキャッチーなことを言い放っておいて、後から説明するのが一番盛り上がるだろうというのが僕の計算でした。

「マイ箸運動はおかしいと思います。むしろ割り箸をどんどん使った方がいいと思います」

その瞬間から15年以上経ちましたが、いまだに会場の反応を忘れられません。
ものすごい疲労感の込もった「えー」という声。
まるで無数の手が伸びてきて床に引きずり込まれるかのような「しょうもなー」感。

真意を語って会場ドカン、という戦略が完全に、文字通り完全に裏目に出たことを悟った僕は、二の句も告げられずに着席。
耳に突き刺さる周囲の舌打ち。

空気の力、その恐ろしさを知った瞬間でした。

カモンナウ

  • 2010.11.01 Monday
  • 00:36

少し年を取った程度で失踪癖は治らないと思い知りました。
どうもすみません、ミッチーです。

さて、今年の夏は大変暑くて「温暖化の影響か!」と苛立ったりしましたが、そんなとき思い出すのは漫画『機動警察パトレイバー』で読んだセリフです。
「1年でちがいのわかるような温暖化だったら大変だろが!来年にゃ海面が上昇して東京は水没しちまわあ」

確かにそうだろうと思うのですが、しかし実際海面上昇は結構な速度で進んでいるとも聞きます。
その一方で、そもそも地球温暖化という話は営利目的のでっち上げだ、という過激な反論もあるようですね。
何だかよく分かりません。
いずれにしても、地球規模の話は日常生活にとってスケールが大きすぎやしないでしょうか。
ビニール袋の使用を控えるとか冷房の設定温度を下げるといった活動を受け入れながらも、僕たちは自分がどれほど地球温暖化に影響を与えているのか実感できっこないわけです。
今日の「あつい」と明日の「あつい」の何が違うというのか。

でも、これが今と100年後なら随分違ってくるのでしょう。
今世紀中には水没して無くなると言われるような島々は沢山あります。

経済的な利害がしつこく纏わりついてくるのは如何ともし難いものがありますが、それでも水没で被害を被る人々に対する同情が、環境問題をリアルなものにし、眠っていた関心を呼び覚ますのです。

「100年後の事なんて知らねーよ、どうせ俺もういないし」と突き放すのは簡単だし、多分そうなんでしょう。
けれども、以前書いたように我々は未来を想像するときには現在の延長としか見られないし、むしろ将来への責任ということを考えるならすすんでそのように見るべきではないかと思います。

あなたは、今より10度高い平均気温の中で生活できますか?
呆れるほどに単純なこの問いこそが、環境問題・温暖化問題を支えています。
「ここではないどこか」のことだと考える態度を無関心と呼ぶのだとしたら、例えば100年後のことを文字通り明日のこととして考えるのが関心なのだと思います。

僕らが生活するのはいつでも今日であり、せいぜい明日までだ、ということを否定する必要は別にありません。
問題は、普段遠くに置かれている「ここではないどこか」の中から何を「ここ」へ引っ張ってくるか、なのです。

画家にとっての抽象画は僕にとっての100年後ですが、誰かの訴えによってそれが明日になることもきっとあり得るのでしょう。

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