「なんだその態度は!」「思わせぶりな態度です」  ミッチー

  • 2014.04.24 Thursday
  • 01:42
前回のとりとめもない文章を読んで下さった方は、有難うございました。

とりとめもない文章の中に、ポツンと「一般に慣習は反省されるべき云々」という抽象的な文言を入れてしまったのですが、今思えば、あれは高校の文芸部時代からの悪い癖でした。ああやって、さも奥がありそうな雰囲気を出そうとしてしまうのです。
文言の中身については稿を改めるとして、今回は自戒の意味も込め、その癖から話を広げてみたいと思います。

実はそこまで中身を作り込んでるわけじゃないけど何か奥がありそうに見せるというのは、芸術やエンターテインメント、広告など表現全般においてよくあるテクニックのように思えます。
鑑賞者としては想像が掻き立てられるわけで、それが魅力的に映る場合も多いでしょうが、こうした魅力なるものは、その都度の個人的な解釈に支えられているに過ぎません。なので、その作品の魅力を語れ、と言われても意外と難しかったりするわけです。

僕はファミコン世代なので、ハッタリさんほどではないかも知れませんがゲームは好きな方です。ファミコン世代のゲーマーが二言目には口にする「今のゲームは綺麗すぎて逆につまらない」というセリフ、年寄りのたわ言に過ぎないとは思いつつも、実はよく分かります。
昔のゲームは表現の手段に乏しかったので、クリエイターはプレイヤーの想像力による補完ありきでゲームを作っていたように思うのです。上のセリフはたわ言に過ぎないとしても、名作のイメージが色褪せることはありません。なぜならそれは抽象的で、人によってそれぞれ内容も違うものだからです。「思い出補正」というやつですね。「魂が震える体験」もそれに含まれる、と僕は考えます。

ショパンの音楽に対するシューマンの感想が荒唐無稽なイメージの羅列でしかなく、ショパン本人はそれを聞いて死ぬほど笑った、というような話を以前どなたかが書かれていたと思いますが、そのような想像をさせたということをショパンは誇っても良いのです。ただ、自分はそこまで考えていなかったのに、というむず痒さが笑いになってしまうのでしょう。

僕は昔、作家になりたかったのですが、大学に入った頃に諦めました。しかし今でも油断すると、思わせぶりな文言を挟んでしまいます。それが文章をいわば立体化する装置として機能しているなら、良い癖なのかも知れません。ただ、適当なことを書いてしまった、という自責の念が僕を悩ませるのです。僕は一人でずっとモジモジしています。

空気兵器廃絶に向けて

  • 2010.11.15 Monday
  • 15:35

中学生の頃、給食時には割り箸を持ってきている生徒が結構いたのですが、そんな中、環境問題への取り組みとして「マイ箸を持参するよう義務付けよう」という話が持ち上がったことがありました。

それは全校集会の議題となったのですが、田舎の少年少女たちの多くにとって1000人の前で発言するというのはかなりのハードルであり、フロアからの発言は全く無いのが常でした。

しかし、この時ばかりはどうしても手を挙げねばならぬとミッチー少年は感じたのです。
目立ちたがりで生意気な盛りだったことは全面的に認めます。
「とにかく反対意見を言ってやろう」とニヤニヤしながらスタンドマイクのもとへ歩いていたような記憶もあります。

けれども決してただそれだけではなく、僕は本気で「マイ箸持参運動」に疑問を感じていたのです。
もし生徒の中に、割り箸屋の子がいたらどうするのか。「マイ箸持参運動」とは「A君(仮)の家を潰そう」運動なのか――。
そう糾弾するつもりでした。

遊んでばかりのガキだった割には中々良いところを突いていた、と今でも自負しています。
環境問題を経済の問題と切り離して論じることは、もちろん理念としてはアリでしょうが、しかし実効的な政策としては余りにも単純でしょうから。

マイ箸運動をやるんなら、A君の家庭に対しては経済的な見返りがなければおかしい。
マイクの前に立つ前に、僕の頭の中のストーリーはそこまで辿り着いていました。

しかし悲しいかな、僕は場の空気を読みきれていなかったのです。
その日は議題が多くて生徒は皆ウンザリしてきており、早く終わって欲しいという雰囲気が漂っていました。
だから集会を長引かせるような行動は、そもそも支持が得られにくい状況だったのです。

まず過激でキャッチーなことを言い放っておいて、後から説明するのが一番盛り上がるだろうというのが僕の計算でした。

「マイ箸運動はおかしいと思います。むしろ割り箸をどんどん使った方がいいと思います」

その瞬間から15年以上経ちましたが、いまだに会場の反応を忘れられません。
ものすごい疲労感の込もった「えー」という声。
まるで無数の手が伸びてきて床に引きずり込まれるかのような「しょうもなー」感。

真意を語って会場ドカン、という戦略が完全に、文字通り完全に裏目に出たことを悟った僕は、二の句も告げられずに着席。
耳に突き刺さる周囲の舌打ち。

空気の力、その恐ろしさを知った瞬間でした。

カモンナウ

  • 2010.11.01 Monday
  • 00:36

少し年を取った程度で失踪癖は治らないと思い知りました。
どうもすみません、ミッチーです。

さて、今年の夏は大変暑くて「温暖化の影響か!」と苛立ったりしましたが、そんなとき思い出すのは漫画『機動警察パトレイバー』で読んだセリフです。
「1年でちがいのわかるような温暖化だったら大変だろが!来年にゃ海面が上昇して東京は水没しちまわあ」

確かにそうだろうと思うのですが、しかし実際海面上昇は結構な速度で進んでいるとも聞きます。
その一方で、そもそも地球温暖化という話は営利目的のでっち上げだ、という過激な反論もあるようですね。
何だかよく分かりません。
いずれにしても、地球規模の話は日常生活にとってスケールが大きすぎやしないでしょうか。
ビニール袋の使用を控えるとか冷房の設定温度を下げるといった活動を受け入れながらも、僕たちは自分がどれほど地球温暖化に影響を与えているのか実感できっこないわけです。
今日の「あつい」と明日の「あつい」の何が違うというのか。

でも、これが今と100年後なら随分違ってくるのでしょう。
今世紀中には水没して無くなると言われるような島々は沢山あります。

経済的な利害がしつこく纏わりついてくるのは如何ともし難いものがありますが、それでも水没で被害を被る人々に対する同情が、環境問題をリアルなものにし、眠っていた関心を呼び覚ますのです。

「100年後の事なんて知らねーよ、どうせ俺もういないし」と突き放すのは簡単だし、多分そうなんでしょう。
けれども、以前書いたように我々は未来を想像するときには現在の延長としか見られないし、むしろ将来への責任ということを考えるならすすんでそのように見るべきではないかと思います。

あなたは、今より10度高い平均気温の中で生活できますか?
呆れるほどに単純なこの問いこそが、環境問題・温暖化問題を支えています。
「ここではないどこか」のことだと考える態度を無関心と呼ぶのだとしたら、例えば100年後のことを文字通り明日のこととして考えるのが関心なのだと思います。

僕らが生活するのはいつでも今日であり、せいぜい明日までだ、ということを否定する必要は別にありません。
問題は、普段遠くに置かれている「ここではないどこか」の中から何を「ここ」へ引っ張ってくるか、なのです。

画家にとっての抽象画は僕にとっての100年後ですが、誰かの訴えによってそれが明日になることもきっとあり得るのでしょう。

なんでこんな文章が

  • 2010.10.04 Monday
  • 23:23

何か適当な固有名詞を思い浮かべて下さい。それを仮にpとしましょう。人名、地名、曲名、ゲームのタイトル、何でも構いません。

いま仮に、
「なんでpが人気あるのか分からない」
と述べる人(Aさん)がいるとします。Aさんは一体何を言いたいのでしょうか。

文字通りに受け取れば、これは以下のことを意味しています。
  1) pは人気がある。
  2) Aには、1)の理由が思い当たらない。

しかし、上の文が1),2)だけを意味していると考える人はいないでしょう。そのようなことを敢えて述べ立てるという行為、その動機を考えなくてはいけません。
Aさんは、1)の理由を思いつかないので教えてくれと頼んでいるのか?いやいや、多くの場合そうではないでしょう。もしも「分かる人いるなら教えてよ」という文が後に続いたとしても、やはりそうではないでしょう。

Aさんは明らかに、pが人気なのはおかしいと主張しているのです。上の文はもちろん、それを皮肉の形で表現しているのです。

整理すると、
  1) pは人気がある。
  3) Aはpに魅力を感じない。
  6) pの人気を支えるファンたちは間違っている。
こんなところではないでしょうか。これは独白でも質問でもありません。

お気付きかと思いますが、これもまだ不十分な定式です。なぜなら、3)と6)の間に論理の飛躍があるからです。(便宜上、番号も空けています。)
そして今回僕が強調したいのは、まさにこの飛躍の内容なのです。僕は、Aさんの意図は上のような飛躍を含んだ定式で組み尽くされると考えます。
そのときAさんは3)と6)の間にある飛躍に気付いていない、いやむしろ、気付いてるが敢えて触れないのです。

では、3)と6)を繋げるために必要なこと、そしてAさんが触れないこととは何でしょうか。それはこうです。
4) Aの判断は妥当である。
5) pには魅力がない。

実は、Aさんが言いたいのは6)よりもむしろ5)であり、その主張は同時に4)を承認しろという要求でもあるのです。
Aさんは5)から6)を導いていますが、5)自身は3)と4)から導かれるのであって、3)は主観的な話ですから、結局5)を支えているのは4)だということになります。
Aさんは4)に議論の余地があることを知っているにもかかわらず、それを認めろ、と要求しているのです。

結論。
Aさんは我々に皮肉を投げかけており、それは同時に挑戦ないし挑発でもあります。
この挑戦への応え方は、また色々あるところでしょう。

II

  • 2010.09.20 Monday
  • 22:59

かなり前になりますが、「過去の自分」は他人も同然ではないか、と書きました。
我々は過去の自分の言動を反省したり、あるいは飽くまでもそれに従おうとしたり出来ますが、「過去の自分」になることはできません。

しかし、もし「過去の自分」が「現在の自分」とは他人だとしたら、過去への責任をどうするのかという問題が生じることになります。
普通、我々は他人の言動に責任は持たなくて良いことになっているはずだからです。

この反論は強力なので、一旦保留しておいて先に「未来の自分」について考えてみましょう。

我々にとって「過去の自分」はもう存在していて、変えることのできないものですが、「未来の自分」は未だ存在してないものであって、どうなるかは分かりません。
だから、「現在の自分」にとって「未来の自分」はまず第一に、自分自身でも他人でもないのです。

それを認めた上で我々が出来ることといえば、想像することです。
手元にある様々な情報を総合的に見て「未来の自分」を想像することになります。
我々の想像力には限界があって、それは多分、いま手元にある「経験」という名の情報のカタマリに大きく左右されます。
つまり、いま頭の中にないものは具体的に想像できないということです。

なので、想像上の「未来の自分」は基本的に「現在の自分」の延長上にあるものにしかならないのではないでしょうか。
「過去の自分」は他人です。しかし「未来の自分」もまた「現在の自分」とは別人だ、という発想は間違いだと思えるのです。

このように言うと、「現在の自分だって過去の自分の延長だろ」という突っ込みが入りそうです。
勿論ある意味ではそうとも言えるのですが、しかし「過去の自分」は、「現在の自分」が想像する前にすでに存在してしまっているのです。
テスト前夜の自分にとって、「未来の自分」は「現在の自分」の分身であり、テスト勉強への責任を自分とシェアしてくれる存在のように映るのでしょう。
しかし当日朝の自分にとって、「過去の自分」は「現在の自分」と責任をシェアしてくれなかった別人なのだ、とは言えないでしょうか。

もしこのように考えても良いのなら、責任というものについて新しい解釈を提案できるだろうと思います。
つまり、我々は常に未来に対してしか責任を持てない。過去への責任は存在しない、ということです。

これはかなりラディカルな考えだと思いますが、その帰結についてはまたいずれ。

ディアロゴス4

  • 2010.09.16 Thursday
  • 22:55

前回までのあらすじ:
「議論に勝ちたい一心なのだね、ソクラテス」(プラトン『ゴルギアス』より)
こうした態度が持つ不思議な力、つまり場の空気に訴える力について考えていました。

あまりにも間が空いたので、今回は例をいくつか並べてみるだけにします。

1. 政治家には政策秘書とかブレーンと呼ばれる人がいるのが普通ですが、ブレーンの言う事をよく聞いて徹底的な想定問答の訓練を積めば誰でも国会に対応できるのでしょうか。
そんなことはないでしょう。政治家本人に求められるものもあるはずです。
それは、人を惹きつける力であり場の空気を支配する力でしょう。
意味不明または辻褄の合わないパフォーマンスでも、それで場の空気を操れるなら千の理屈よりも力があります。

それに対して理屈の側から何ができるのでしょうか。

2. お笑い芸人は客を笑わせることが仕事です。例えネタが滑ったとしても、その滑ったことに笑いが起きれば成功でしょうし、実際スベリ芸という芸風もあるようです。
しかし滑って結果オーライとスベリ芸とではやはり違いがあるように思えます。スベリ芸が滑るということもあるはずです。
天然ボケという芸風もありますが、もし本当に天然なら客が自分の何に笑ってくれるのか、そもそも少しでも笑ってくれるのかどうかすら分からないはずです。
つまり、優秀なお笑い芸人はどんな芸風であれ、客の笑いを自分の意志でコントロールできるのだと思います。

だとすると、ネタそのものにこだわるのは無駄なんでしょうか。

3. 背中で語る、という表現がありますが、背中は語りません。
事細かに口で説明しないことが、結果的にはかえって多くを語ることになっているのであり、言わば「背中で語ること」が語るのです。
教師はしばしば、生徒を敢えて突き放したりします。その方が一から十までを言い含めるより効果的だ、という判断がそこにはあります。
しかしその時の生徒には、それは単なる不親切にしか見えません。親や我が師の恩は時を経て初めて気付くものです。

ではなぜ、その時には解れない、解らせられないのでしょうか。

やや乱暴ですが、これらの例と問いには共通する何かがありそうです。
我々の言動には「文字通りの次元」と「パフォーマンスの次元」があり、意思疎通の鍵を握るのは話の内容よりむしろその際のパフォーマンスだ――。

そう納得したくはありません。
なぜなら僕は文字通りの次元を重視するヘリクツァーですから。

どうでもよろしくってよ

  • 2010.09.05 Sunday
  • 22:48

ハッタリストさんが「天動説か地動説か」といった問いを誰かに突きつけるとき、多くの人はどうでもいいと思うのかも知れません。
同じことを問われたら、僕はたぶん腕組みをして考え込むでしょうが、それでもハッタリストさんほどの切実さは感じないでしょう。

ある種の線分ABがここに存在しているわけではないと思います。
つまり、世の中には「どうでもいい問題」と「切実な問題」というものがあって、どんな問題もその両端ないし中間に分類できる、というわけではないと思います。

「P社と契約すべきか否か」とか「今日一日をどうやって食いつなぐか」という問題には「目の前に見えるリンゴは実在しているか」という問題よりもどこか切実な響きがあります。
しかしそれは結局個々人の事情に依存するのであって、いつどこで誰にとってもそうだとは限りません。
もしも地下組織に捕らえられて、「目の前に見えるリンゴは実在しているか」に正解しないと殺される、という特殊な状況に置かれたとしたら、その人にとって「今日一日をどうやって食いつなぐか」はもはやどうでもいい問題になるでしょう。

無論これは極端な例え話です。
実際には、何が浮世離れしていて何が生活に関連しているのかという判断基準を、我々は緩やかに共有しているはずです。
なぜなら我々はみな日々の生活に追われているからであり、我々の生活が互いに似ているならば、切実さの基準もまた似ることになるからです。

うべべが常々強調しているように、哲学者といえども飯を食わねば生きていけません。
それなのに、「今日一日をどうやって食いつなぐか」よりも「目の前に見えるリンゴは実在しているか」を切実に考えるなんて矛盾しているのではないか?

そうは思いません。
ヒトは動物ですが、我々の問題関心の大部分は単に生理的な希求から来るのではなく、社会的に構成されるものだからです。
「P社と契約すべきか否か」は切実な響きを持つにもかかわらず、生理的な希求と直接関係してはいません。
それが多くの人から切実だと認められるのは、単に経済的利潤の拡大に従事する人が多く、彼らにとっては仕事上の問題だからではないでしょうか。

だとしたら、それは主婦にとっての今晩のおかず、ゲーマーにとってのセーブデータ、画家にとっての抽象画と切実さにおいてそれほど変わらないのではないかと思います。

ここに線分はありませんが、点の分布はあるかも知れません。

無駄なんかじゃないんだ

  • 2010.07.31 Saturday
  • 17:45

ゴビ砂漠の遺跡にキャンプを張ってもう2週間になる。
ひたすら地中から獣の骨を掘り出し、岩に叩きつける毎日だ。
数えてみると、昨日までにマイケルが折った骨は820本、私は1000本を超えていた。

25年余りもの間、世界各地を渡り歩きながらこんなことを続けてきた。
途中仲違いしたこともあったし、そもそも2人の見解は真っ向から対立しているが、今では互いを良きパートナーとしてリスペクトしている。

家族以上の信頼関係で結ばれた私たちが追っているのは、太古の幻獣ヒポポタマタマだ。
標本も詳細な記録も存在しないヒポポタマタマだが、その足の骨は黄金の輝きを持ち、ダイヤモンドをも凌ぐ強度を誇ると言われている。
とはいえ掘り出した骨からいちいち泥を洗い落として黄金色かどうか確かめるのは効率が悪い。
だから、掘り出した骨はとにかく叩きつけて折る。
ポッキリ折れるならそれはヒポポタマタマの骨ではない、というわけだ。そのような骨はこの業界では「無駄骨」と呼ばれる。

気の遠くなるような作業だということは分かっている。
しかしこの灼熱の大地に立つ私たちの決意は揺るがないし、ほんの少しずつでも真理に接近していると思うと勇気がとめどなく溢れてくるのだ。

面白いことに、ヒポポタマタマに関して私とマイケルの見解は全く噛み合わない。正反対だと言っても良い。
例えどれだけ多くとも、地球上に存在する獣の骨には限りがある。
だから、折った無駄骨の数が大きくなればなるほど、次に掘り出す骨がヒポポタマタマのものである可能性が大きくなる。
私は一貫してそう信じてきたし、そうでなくてはこの気が遠くなるような作業を続けてこれたはずもない。

ところがマイケルは違うことを考えているようなのだ。
折った無駄骨の数が大きくなればなるほど、次に掘り出す骨がヒポポタマタマのものである可能性は小さくなる、と彼は言う。

彼が何を考えてそのように言うのか私には全く分からないが、しかし2人とも、折った無駄骨の数が大きくなればなるほど、この作業の、そして次の1本の価値が増してゆくという点では一致している。

そんなわけで、私たちは日々競うように地面を掘り返し、無駄骨を岩に叩きつけてはスコアをノートに付けているのだ。
単調だが充実した毎日。
この作業が永遠に終わらなければ良いのに……と埒もない空想に浸ることすらある。
今もそうだ。

私としたことが、手が止まってしまっていた。
さあ、大事なのは次の1本だ。

神は通信簿をつけない?

  • 2010.07.29 Thursday
  • 17:42

1年ほど前にハッタリストさんとうべべの間で交わされた「将棋論争(または最善手論争)」を、改めて読んでみました。
リンクを貼るのは面倒だし皆さんが読み返すのも面倒でしょうから、簡単にまとめておきましょう。細かい表現は僕が勝手に改変しています。

《ハッタリスト的将棋観》
「将棋」と一口に言っても以下の2つは区別されるべきだ。
神の将棋……純粋に数学的な考察の対象としての、ルールの集合体
人間の将棋……持ち時間などの追加ルール、人間の能力的制約、その場の状況といった文脈込みの勝負

《うべべの疑問》
ハッタリストは「最善手」という概念を人間の将棋に属するものと考えているが、果たしてそうだろうか。

《うべべの主張》
1. 詰将棋同様、勝ちの側にとっては終局までの手数が最短となる手が最善手であり、負けの側はその逆だ。
2. この最善手は人間の将棋に適用することもできるが、神の将棋に属する概念だ。従って、1を採用すれば「最善手は人間の将棋に属する」という見解を否定できる。

以上です。
なお、この論争の途中でがりはさんの乱入がありましたが、ハッタリストさん同様、僕もそれに対する応答は回避します。

ハッタリストさんがこぼしていた通り、この論争がこじれた主な原因は、うべべが主張1の根拠をなかなか示さなかったことにあると思います。
最終的には「それが『最善』な気がするから」だと説明されましたが、それを踏まえての総括に至るまで、僕は一貫してハッタリスト派です。
とは言え、うべべの独創性は我々にとって得難いインスピレーションだと感じています。

さて、一連のやり取りに対して僕は次のような質問を投げかけたいと思います。
「評価値という概念をどう考えますか?」

ハッタリストさんが指摘しているように、手数の長短にこだわる必然性は感じられません。
むしろ、一般に形勢判断では「駒の損得」「駒効率」「玉の安全度」「手番」といった概念が使われています。
将棋ソフトでは、これらを総合した「評価値」という概念が使われています。
ソフトにとっての最善手は「予想の範囲内で最終的に評価値が最も高くなる手」でしょう。

将棋の神様にとってはどうか。
ハッタリスト的将棋観では、神は評価値の算出方法を知らないとされそうです。
しかし、人間では知り得ない評価基準まで含めた、「ルールに内在する」評価値を想定することもできそうに思えるのです。
いかがでしょう?

修羅の世界へ

  • 2010.07.20 Tuesday
  • 17:35

「なんだか小奇麗になりましたね」と言われることが最近多いです。

僕は元来おしゃれとは無縁な人間でして、身だしなみに気を遣っていませんでした。
これも「傘を差したくない」という気持ちに通じると思うのですが、他人の視線に右往左往するのは嫌だったのです。
簡単で機能的な服装を好んできました。サンダルが便利だと思ったので、一年中どこに出かけるのにも履いていました。

それが年齢と共に変わってきたのかも知れません。

僕の音楽の趣味は狭く深くですが、ともかく一定の趣味に従って熱心に聴きこんでいます。
それは自分で選び取ったものです。
自分が聴く音楽くらい自分で選ばなくてどうするのか、と強く思ってきました。
音楽市場を手段化するマスメディアから「ハイこれ」と手渡されるものを聴くのは、もはや音楽鑑賞とは呼べないと。

でも、それは身だしなみについても言えるのではないかと思うようになりました。

考えてみれば子供のころから、自分で服を買った記憶がほとんどありません。
親が買い与えてくれたものを何年も何年も着ていました。
流行りのファッションに夢中な人々を鼻で笑ってバカにしていましたが、自分はどうだったのか。
能動的でない点では彼らと同じでは無かったのか。

音楽ならば、実際にそんな人がいるかどうかはともかくとして、全く聴かず一切の興味も持たないという態度を取ることも可能でしょう。

しかし身だしなみの場合、そうはいきません。
人間である限り、僕らは社会からのプレッシャーによって強制的に服を着させられます。音楽と違って、全く着ないという選択肢は事実上ありません。
つまり、好むと好まざるとにかかわらず、僕らは生まれつき「身だしなみゲーム」のプレイヤーなのです。そしてこのゲームから脱出することはできないのです。

僕は横山光輝の歴史漫画が好きなのですが、『徳川家康』に次のようなシーンがあります。
女性関係で失敗した家康が、家臣に説教されるシーンです。
「これで少しはこりましたかな」
「では予に女はつつしめと」
「つつしめとは申しませぬ。ただ、尻に敷かれたり殺されかかってもわからぬようでは、兵法ならば語るに足らぬ未熟者。やるなら達人におなりなされ」

自分がプレイヤーであることすら自覚していなかった僕は、まさに語るに足らぬ未熟者でした。
僕が最近小奇麗になっているとしたら、それは僕なりに達人を目指している兆候だと思って下さい。

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