1.
小学生の頃、ミスター・チルドレン(以下、ミスチル)の「名もなき詩」のシングルを買って以来、私は大変なミスチルファンでした。まるで写経でもするかのように、学期末試験の問題用紙の裏に歌詞を書いたりしていました。私はミスチルファンですと言うことが一時はミーハー丸出しのようで躊躇われたのですが(特に音楽好きの人たちに言いにくい)、今はもう何の躊躇いもなくミスチル信者でしたと言い切ります。20年間、洋楽をそれなりに聴きましたけど、それでもやっぱりあの頃のミスチルは良かったと思います。
今回はその元ミスチル信者が、彼らの代表曲のひとつである「名もなき詩」について延々と語ります。
「名もなき詩」は1996年2月に発売され、歴史に残るほどバカ売れしたわけですが、小学生の頃の私は「なんじゃこのヘンテコな曲は」としか思わず、しかしよくよく聴いてみるとどハマりしてしまい、そこから抜け出せなくなってしまいました。ただ、私の印象は実は変わっていません。今はもう聴きすぎて違和感を感じにくくなっていますが、やはりこの曲はどう聴いても「ヘンテコ」な曲です。もちろんただ変なだけの曲ならいくらでもあるのですが、私が不思議なのは、この曲は「ヘンテコ」なのに「バカ売れ」したということです。
別に調べたわけでもなんでもありませんが、日本人が聴きやすい曲はまず七五調(五七調)だろうと思います。昔の童謡も、子供向けのアニメソングも、およげたいやきくんも、基本は五か七でつなげていきます。だから「innocent world」や「Tomorrow never knows」が売れるのはよくわかるのです。
たそがれの (5) まちをせに (5)
だきあえた (5) あのころが (5)
むねをかすめる (7)
ところが「名もなき詩」のAメロはまったく違います。おそらくは桑田佳祐の影響で英語っぽく歌っていて、音がつながっていたり強弱があったりするので、七五調どころか音が何個あるのかもよくわかりません。
ちょっとぐらいのーよごれものならばー (10くらい)
のこさずーにぜーんぶたーべてーやるー (10くらい)
「名もなき詩」はわかりやすいイントロやキャッチーなリフもなく、唐突に始まっていきなりこの長口上のAメロに突入します。もう一度、問いに戻りましょう。なぜこんな変な曲が売れたのか?
私が思うひとつの答えは、この「名もなき詩」は言葉のグルーヴ感、古い言葉で言えばビートが飛び抜けて素晴らしいということです。だからこそ、私はこの曲がなぜ売れたのかに興味があります。世の中を巻き込むようなグルーヴ感はどのようにしてこの曲に宿ったのか。彼らはどのようにして日本語をグルーヴさせるたのか。
2.
「名もなき詩」については非常に面白いテイクがあります。当時の歌番組「FAN」で披露された演奏です。
https://youtu.be/hSw17O6fN7g
アコギ+ハーモニカスタイルで、冒頭部分はCDとはまったく違うトーキング・ブルースっぽいアレンジ。完全にボブ・ディランです。もっと言えば、サビに入る前に叫ぶ桜井和寿の姿は、あの1966年のロイヤル・アルバート・ホールで、自分を裏切り者と罵る聴衆の前で「Play it fucking loud!」と叫んだボブ・ディランの姿にそっくりです。しかし、後にボブ・ディラン信者になった私がこの映像を見たときに感じたのは、「名もなき詩」の本当の姿は実はこのトーキング・ブルースなのではないか、ということでした。
ボブ・ディランは年代によって作風がコロコロ変わりますが、もっとも評価されている1960年代初頭の作品は「ビートニク(ビート文学)」に強く影響されています。非常にわかりやすいのがボブ・ディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」の映像です。
https://youtu.be/MGxjIBEZvx0
この映像は世界で初めてのMV(ミュージック・ビデオ)と言われていますが、見ての通りとにかくグルーヴ感がすごい曲で、のちのラップにも影響を与えたと言われています。後ろに映っているハゲたオッサンはビートニクの代表詩人、アレン・ギンズバーグ。ビートニクはその文学性についていえば、明らかに重要なのが「疾走感」で、アレン・ギンズバーグの詩の朗読は韻を踏みまくってシャウトするという代物でしたし、もう一人のビートニクの代表作家、ジャック・ケルアックの小説「オン・ザ・ロード(路上)」を読めば、文章自体が走っていることがわかります。「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」という曲のタイトルはジャック・ケルアックの「サブタレニアンズ(地下街の人々)」からとられていて、その意味ではこの映像で、ボブ・ディランとアレン・ギンズバーグとジャック・ケルアックが交錯しています。
Johnny’s in the basement
Mixing up the medicine
I’m on the pavement
Thinking about the government
The man in the trench coat
Badge out, laid off
Says he’s got a bad cough
Wants to get it paid off
英語の歌詞では韻を踏むのは当たり前なので(あのアホっぽいOasisでもちゃんと韻踏んでます)、もちろん韻は踏みまくっているのですが、それだけではないリズムがこの詩とこの歌い方には宿されています。桜井和寿はこれを自らに取り込もうとしたのではないか、というのが私の仮説です。FANの映像だけでそこまで飛躍するかと言われそうですけど、理由は他にもあります。
3.
まず、1995年にミスチルは桑田佳祐とともに「奇跡の地球」をメインにした洋楽のカバー曲ばかりのライブ、LIVE UFOをやっていますが、ここでボブ・ディランのカバーを2曲やっています。もともとボブ・ディラン好きの桑田佳祐に感化された可能性があります。
次に、この少し前の時期に、ミスチルはピート・シーガーの反戦歌「花はどこへ行った」をカバーしています。これはお蔵入りしてしまったので未発表曲になっていますが、出来は相当良く、ありがたいことにこれもYouTubeで見れます。ピート・シーガーはフォーク・リバイバルの立役者で、デビュー当初のボブ・ディランを後押ししていた人物です。ピート・シーガーまで遡っていれば、当然、ボブ・ディランにも行き着きます。
https://youtu.be/PMFBOsmzBcc
https://youtu.be/Hgp5pki7wcc
さらに、桜井和寿が憧れていたのは浜田省吾であり、あのサングラスからもわかるように浜田省吾はボブ・ディランのファンです。浜田省吾からそのルーツに遡った可能性があります。なお、あのサングラスかけてる人は大体ボブ・ディランファンだと勝手に思っておりまして、井上陽水も吉田拓郎もYO-KINGもみうらじゅんも同じです。ちなみにボブ・ディランがあのサングラスをかけていたのは、彼が憧れていた黒人ブルースマン(レヴ・ゲイリー・デイヴィスやライトニン・ホプキンスなど)がかけていたからで、同じことが繰り返されているわけです。ちなみに浜田省吾が1982年からずっとやっているコンサートツアーの名前は「ON THE ROAD」で、これは明らかにジャック・ケルアックの小説からとっています。もっといえば、ボブ・ディランが1988年からずっとやっているコンサートツアーの名前は「Never Ending Tour」で、「終わりなき旅」(ミスチルの代表曲のひとつ)です。
そして最後に、ミスチルの前身となるバンドの名前は「THE WALLS」ですが、さらにその前身のバンドの名前は実は「Beatnik(ビートニック)」なのです。
誤解を恐れずに言えば、J ポップは欧米のポップミュージックの壮大なパクリです。そしてミスチルは自らを「POP SAURUS」と定義しています。それは、「なんだって飲み込んで、なんだって消化して、全部筋肉に変えてしまおう」とする化け物です。
私はここで「名もなき詩」はボブ・ディランを意識していると主張していますが、同じブルースでも「友とコーヒーと嘘と胃袋」という曲は明らかに吉田拓郎のモノマネですし、「So Let’s Get Truth」という曲は長渕剛っぽいです。この微妙な違いをきちんと表現するほどに、他人の芸を自らに取り込むことが上手い彼らは、まさにJ ポップを体現していると言えるでしょう。
なお、そのポップザウルスという自己定義から、初めてのベストアルバムは恐竜っぽいサイがジャケットに使われていましたが、このアルバムジャケットもMASSIVE ATTACKのMEZZANINEというアルバムジャケットのパクリです。ちなみにMASSIVE ATTACKのメンバーの3Dは、あのバンクシーの正体だと言われており、先見の明というかやはりその引用のセンスが光っています。
4.
「名もなき詩」のグルーヴ感について、まず簡単に説明できるのは「韻」です。わかりやすいのは以下の箇所。
Oh darling 君は誰(ダリ、ダレ)
Oh darling 僕はノータリン(ダリ、タリ)
でも darling 共に悩んだり(ダリ、ダリ)
Oh darling このわだかまり(ダリ、ダリ)
Oh darling 夢物語(ダリ、タリ)
この曲の中心にあるのは、この「ダリ」によって生み出されるリズム感だと私は考えています。「ダリ」を繰り返し、重ね、そしてズラしていくことで、ビートが生まれる。濁音にはドラムを打つようなリズム感が生まれるのは、上記のボブ・ディランの歌詞を見てもわかるし(basement, medicine, pavement, government)、ロックでは特にわかりやすく使われるものだと思います(Jumpin’ Jack Flash It’s a Gas! Gas! Gas!)。
「名もなき詩を」よくよく聞けば、この「ダリ」が他の箇所でもかたちを変えて何度も出てくることがわかります。そして、妙に歌詞に濁音を入れにいっていることと、その部分を強く発声していることもわかるはずです。以下は一例。
ちょっとぐらいのよごれものならば(グラ、ゴレ、ラバ)
どれほどわかりあえるどうしでも(ドレ、ドリ、ルド)
だれかをおもいやりゃあだになり(ダレ、ダリ)
偶然のようにも見えますが、完全に狙ってやっています。というのも、無理矢理に濁音やダリダレの音を入れようとしたために、「名もなき詩」には日本語として不完全な箇所や、陳腐な箇所や、意味不明な箇所がかなりあります。
Oh darling 君は誰 真実を握りしめる (たぶん何の意味もない)
でも darling 共に悩んだり 生涯を君に捧ぐ (日本語がおかしいしやや陳腐)
この他にも伏線はたくさん張られています。「感情」「不調和」「情緒」を続けて出してここでも韻を踏んだり、「リアル」と「わかりあえる」をかけたり、やはり日本語としてはおかしいが音の響きがよい「立ったって」という言葉を選んだり。
ここまで書いてきたように、この曲は言葉の「音」が極端に重視されて作られていると私は考えています。言葉選びは非常に面白いと思いますが、おそらく「意味」はそれほど重要ではない。これはボブ・ディランも同じで、意味より音を重視したからこそ、面白い「詩」になったのです。だからこの歌詞の「意味」を探ることに意味はなくて、この曲に意味としてのテーマは特にないのだろうと思います。だからこそ、「名もなき詩」というタイトルなのだというのが私の見立ててです。意味なんてないさ、単なる「詩」だぜ、というわけです。
5.
さて、Aメロは非常に質の良いトーキング・ブルースでしたが、この曲はサビで一気に曲調が変わり、「Jポップ」化します。これがこの曲のもっとも面白いところで、初めに紹介した「FAN」の動画ではこの境目がものすごくわかりやく現れています。それまで一人でギター弾きながらベラベラしゃべってたのに、急にここでバンドが入りホーンが入り「歌モノ」になるのです。普通、Jポップではサビ前にBメロをはさみますが、トーキング・ブルースにはサビなどありませんので、この「名もなき詩」ではAメロから急にサビに飛ぶという技を使っていて、それはサビの冒頭「あるがまま」の最後の「ま」で一気に音程を上げてテンションを上げることで達成しています(これはその後ミスチルの得意技になります)。サビパートは完全に歌モノですが、基本「あ」行でまとめることで、Aメロとの連続性を感じさせます。このトーキング・ブルースと歌モノの不思議なバランス感こそが、この曲の最大の魅力でしょう。
「名もなき詩」の凄さは、フォーク・ブルースの歴史を感じさせる作家性と、万人受けする歌モノ性が同居し、単純な歌モノではないように感じさせたこと、Jポップの流行性に深みを与えることで、欧米のパクリとしてのJポップ性を強化したことだと思います。
パクリというと語弊がありますが、文化は他から影響を受け合って新しい文化を生み出します。例えばそもそもフォークは口承音楽であり、ボブ・ディランの初期の曲は古い伝承音楽の引用ばかりでした。ビートルズは実はロックンロール・リバイバルであって、過去のロックから影響を受けています。ロックはジャズとブルースから影響を受け、ジャズはクラシックから影響を受けています。
Jポップは「歌謡曲」にロックやフォークやブルースやジャズをまさに飲み込んで、消化して、面白い曲を生み出していったジャンルです。その中で「名もなき詩」が立てた金字塔は非常に大きいでしょう。そこにはボブ・ディランがいて、桑田佳祐がいて、浜田省吾がいて、吉田拓郎などのフォークシンガーたちがいて、それらを受け継いで出てきた国民的大ヒット作なのですから。
「名もなき詩」は多分そのうち忘れ去られるでしょう。もう長い間、ロックやフォークやブルースはほとんど聴かれていないし、ミスチルファンはもうみんないい年齢です。それでもね、私の自分の結婚式の二次会でこの曲を流したときに、あの後半の早口パートで会場のみんながテンション高く歌っていて、妙な一体感を醸し出してことは今思い出しても笑えるし、私にとっては忘れられない瞬間でした。
今年はミスチルのデビュー30周年です。この30年に感謝して、筆を置きます。