2023年の日本ダービー Mr.ホワイト

  • 2023.05.29 Monday
  • 08:50

2023年5月28日。出資馬タスティエーラが日本ダービーに出走するこの日を楽しみに、4〜5月の繁忙期を乗り切ってきました。疲れが取れていない体で、ダラダラと起き上がる朝。4年前のように東京競馬場に観戦しに行くことは最初から考えていませんでした。何だかんだで、テレビのほうが見やすいな、という身も蓋もない結論に至ったためです。


祭りの前がもっとも楽しいものです。ただソワソワするだけで時間を無為に過ごすことになりますが、午前中は子供の塾の宿題に付き合うことで有意義に時間を過ごせました。小五で安岡章太郎を読まされていて、顔をしかめる子供に同情。


もちろん誰よりもタスティエーラを応援しているのですが、正直なところ、1番人気の皐月賞馬ソールオリエンスが後方からぶっこ抜くイメージしかできませんでした。パドックを見ていても、ソールオリエンスがずば抜けて良く見えて、「ああ、この馬ほしいなあ」と思ってしまいます。


大きなレースのときは、妻と子供2人もテレビの前で応援してくれます。大の大人が目を血走らせて「頑張れ!頑張れ!」と叫んでいる姿を見て子供が内心どう思っているのかわかりませんが、好きなことは徹底的にやるべしというのが我が家の教育方針ですので、気にせず叫んで応援します。


レースはスタートでドゥラエレーデが大きくつまずいて騎手が落馬する波乱で始まりました。逃げることも予想されていたこの馬がいなくなったこと、そして同じく前に行くことが想定されていた横山典のトップナイフがなぜか控えたことで、今年のダービーは極端なスローペースとなってしまいます。一方のタスティエーラは、スタートでタイミングが合わず半歩遅れたものの、機動力で5番手につけることに成功しました。ソールオリエンスに勝つには先攻抜け出ししかありませんので、まずこのポジション取りに膝を打ちました。


2コーナーから向正面へ。ぱっと見てもわかるくらいに遅いペース。個人的にはタスティエーラにはある程度速いペースが欲しいと思っていたので、これはあまり良くない流れ。しかもタスティエーラのすぐ後ろにソールオリエンスがつけていました。さすが横山武史、ペースの遅さを見越して皐月賞とは打って変わってポジションをとってきたのでしょう。このまま同じポジションにいればキレ負け必至。それにしても緩いペースの中で、ハーツコンチェルトの松山騎手だけがスルスルとポジションを上げる抜群の騎乗を見せていました。


3コーナーから4コーナーへ。変わらずタスティエーラの後ろにはソールオリエンスがつけていますが、変わらず内を走っていることが私の想定と違っていました。ブロックされて、外に出せなくなっていたのです。そしてそうなるように誘導したのがタスティエーラのダミアン・レーン騎手だったことに気づいたのは、レースが終わった後のことでした。


最後の直線、タスティエーラは真っ直ぐに逃げ馬を捕まえにいきます。一方のソールオリエンスはタスティエーラの後ろで進路を探し、はじめ内に潜ろうとして失敗し、外に進路をとっています。この一瞬のタイムロスが最後に響きました。先に抜け出したタスティエーラの脚色は衰えず、追撃するソールオリエンスをクビ差しのいで、見事に勝利。


ダービー勝利なんて夢のまた夢。私は現実に起こったこととはちょっと信じられないような気持ちでしたが、家族みんなで喜んで、ああ、テレビで観ることにしてよかったなあと心の底から思いました。4年前のサートゥルナーリアでの借りを、レーン騎手には神騎乗で返してもらいました。


それにしても、どうにも後味の悪いレースではありました。スタート直後の落馬に加えて、急性心不全でレース直後に亡くなってしまった馬がいたためです。この祭典で誰もが見たくはなかったのですが、競馬には残酷な面がやはりあるのだということを突きつけられてしまいました。そして不可解なレースでもありました。なぜソールオリエンスが負けてしまったのか。これはおそらく「負けたことがないこと」だったのだろうと思います。タスティエーラは過去の負けから学んでレーススタイルを身に付けました。負けた経験がなければ、自身の弱点には気づかないものです。


客観的に見ればペースが遅かったりケチのつくレースだったと思いますが、それでも勝ったタスティエーラ陣営がとんでもない努力を積み重ねてきたことを私は知っています。その小さな積み重ねが今回の結果に結びついて、本当に感動しました。


あれこれ語ると終わりませんので、このあたりで終わらせていただきます。先日の記事を読んで応援いただいた方もいらっしゃいました。私が頑張ったわけでもなんでもないですが、御礼申し上げます。ありがとうございました。




2019年のダービー  Mr.ホワイト

  • 2023.05.26 Friday
  • 07:00

 

2019年5月26日。朝早く起きて新幹線に乗り、私は初めて東京競馬場を訪れていました。競馬の祭典、日本ダービーを見るためですが、私にとってはその日本ダービーは特別な意味がありました。

 

 *

 

マヤノトップガンの天皇賞・春を見て以来、競馬の虜になってしまった私の中学生からの夢は一口馬主になることでした。一口馬主というのは一頭の馬を数百人で共同所有する制度のことです。普通、よほどの金持ちでなければ馬主にはなれませんが、一口馬主なら庶民でもなれます。働き始めて1年と少し経った2008年、私は早速、一口出資を始めました。多少のお金があれば叶えられる安易な夢です。初めて出資した馬はダンスインザダーク産駒の牝馬で、1口3万円でした。その馬は3戦して未勝利、調教中に骨盤骨折して亡くなりました。1勝することの難しさ、無事に牧場に戻ることの難しさ、生き物を買うということの意味。いきなり頭をガツンと殴られたようでした。

 

 *

 

2019年の日本ダービーは、4戦4勝の皐月賞馬、サートゥルナーリアが1.6倍の圧倒的な一番人気。私は運良くそのサートゥルナーリアに出資していて、さらにその日は出資者の中から抽選で選ばれる口取り(優勝時記念撮影)にも当たっていました。日本ダービーは日本のホースマンの誰もが憧れる特別なレースです。一口とはいえ出資した馬がダービーに出られるなんて夢のようでしたが、あまりにも人気しすぎていて、自分が走るわけでもないのに妙に緊張していました。

 

圧倒的な本命ではありましたが、不安がありました。皐月賞で騎乗していたルメール騎手が騎乗停止になった影響で、乗り役がレーン騎手に急遽変更になったのです。日本ダービーは特別なレースで、乗り替わりでは勝てません。これは単なるジンクスではなく、実際に70年ほど勝ったためしがないのです。デビュー戦からずっと一緒に戦ってきた馬と騎手が人馬一体となって初めて勝てる、それが日本ダービーというレースなのです。

 

その日はものすごく暑い日でしたが、口取りはスーツでなければならないので上下スーツです。口取り当選者は勝った場合の撮影準備のためにゴール板のかなり先の場所でレースを見なければならず、汗だくになりながら向かいましたが、そこはまったくレースが見えない場所なのでした。

 

スタートがきられ、スタンドからどよめきが起きましたが、見えないので何が起こっているのかがわかりません。あとでわかりましたが、サートゥルナーリアがスタートに失敗し大きく出遅れ。致命的なほどの出遅れでした。最後に追い込んだものの、前が止まらない馬場状態ということもあり、出遅れの不利は埋められず、結果は4着に終わってしまいました。

 

汗だくのスーツ姿で、敗残者はトボトボと家路につくしかありません。しかし私は不思議と、「競馬は、やっぱりおもしれえ」と、妙にワクワクした気持ちになっていました。大の競馬好きだったかのウィンストン・チャーチルは、「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になることよりも難しい」という名言を残しました。難しいからこそ彼は競馬狂だったのだと、そのときに心の底から納得できました。

 

 *

 

今週、2023年の日本ダービーが開催されます。幸運なことに、私の出資馬タスティエーラが出走を予定しています。毎年生産されるサラブレッド約7,000頭のうち、ダービーに出走できるのはたった18頭。まさか前回からたった4年後にもう一度ダービーに出走できるとは思ってもいませんでした。タスティエーラはその母にも出資しており、それが故に出資できた馬です。負けに負けた私の15年の一口馬主歴ですが、長く続けたことでこの幸運が舞い込んできたのだと思います。

 

タスティエーラはそこまで人気するわけではなさそうなので、前回と違って落ち着いて見ることができそうです。しかし、鞍上はまさかの乗り替わりでのレーン騎手。不思議なことに、4年前とまったく同じ乗り替わりです。テン乗りでは勝てないというジンクスに、同じ騎手でまたも挑むことになります。とにかく出られるだけでもう十分に幸せなレースなので、なんとか当日、無事に出走までこぎつけてほしいと思います。

「名もなき詩」論  Mr.ホワイト

  • 2022.05.12 Thursday
  • 07:00

1.

 

小学生の頃、ミスター・チルドレン(以下、ミスチル)の「名もなき詩」のシングルを買って以来、私は大変なミスチルファンでした。まるで写経でもするかのように、学期末試験の問題用紙の裏に歌詞を書いたりしていました。私はミスチルファンですと言うことが一時はミーハー丸出しのようで躊躇われたのですが(特に音楽好きの人たちに言いにくい)、今はもう何の躊躇いもなくミスチル信者でしたと言い切ります。20年間、洋楽をそれなりに聴きましたけど、それでもやっぱりあの頃のミスチルは良かったと思います。

今回はその元ミスチル信者が、彼らの代表曲のひとつである「名もなき詩」について延々と語ります。

 

「名もなき詩」は1996年2月に発売され、歴史に残るほどバカ売れしたわけですが、小学生の頃の私は「なんじゃこのヘンテコな曲は」としか思わず、しかしよくよく聴いてみるとどハマりしてしまい、そこから抜け出せなくなってしまいました。ただ、私の印象は実は変わっていません。今はもう聴きすぎて違和感を感じにくくなっていますが、やはりこの曲はどう聴いても「ヘンテコ」な曲です。もちろんただ変なだけの曲ならいくらでもあるのですが、私が不思議なのは、この曲は「ヘンテコ」なのに「バカ売れ」したということです。

 

別に調べたわけでもなんでもありませんが、日本人が聴きやすい曲はまず七五調(五七調)だろうと思います。昔の童謡も、子供向けのアニメソングも、およげたいやきくんも、基本は五か七でつなげていきます。だから「innocent world」や「Tomorrow never knows」が売れるのはよくわかるのです。

 

たそがれの (5) まちをせに (5)

だきあえた (5) あのころが (5)

むねをかすめる (7)

 

ところが「名もなき詩」のAメロはまったく違います。おそらくは桑田佳祐の影響で英語っぽく歌っていて、音がつながっていたり強弱があったりするので、七五調どころか音が何個あるのかもよくわかりません。

 

ちょっとぐらいのーよごれものならばー (10くらい)

のこさずーにぜーんぶたーべてーやるー (10くらい)

 

「名もなき詩」はわかりやすいイントロやキャッチーなリフもなく、唐突に始まっていきなりこの長口上のAメロに突入します。もう一度、問いに戻りましょう。なぜこんな変な曲が売れたのか?

 

私が思うひとつの答えは、この「名もなき詩」は言葉のグルーヴ感、古い言葉で言えばビートが飛び抜けて素晴らしいということです。だからこそ、私はこの曲がなぜ売れたのかに興味があります。世の中を巻き込むようなグルーヴ感はどのようにしてこの曲に宿ったのか。彼らはどのようにして日本語をグルーヴさせるたのか。

 

 

2.

 

「名もなき詩」については非常に面白いテイクがあります。当時の歌番組「FAN」で披露された演奏です。

 

https://youtu.be/hSw17O6fN7g

 

アコギ+ハーモニカスタイルで、冒頭部分はCDとはまったく違うトーキング・ブルースっぽいアレンジ。完全にボブ・ディランです。もっと言えば、サビに入る前に叫ぶ桜井和寿の姿は、あの1966年のロイヤル・アルバート・ホールで、自分を裏切り者と罵る聴衆の前で「Play it fucking loud!」と叫んだボブ・ディランの姿にそっくりです。しかし、後にボブ・ディラン信者になった私がこの映像を見たときに感じたのは、「名もなき詩」の本当の姿は実はこのトーキング・ブルースなのではないか、ということでした。

 

ボブ・ディランは年代によって作風がコロコロ変わりますが、もっとも評価されている1960年代初頭の作品は「ビートニク(ビート文学)」に強く影響されています。非常にわかりやすいのがボブ・ディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」の映像です。

 

https://youtu.be/MGxjIBEZvx0

 

この映像は世界で初めてのMV(ミュージック・ビデオ)と言われていますが、見ての通りとにかくグルーヴ感がすごい曲で、のちのラップにも影響を与えたと言われています。後ろに映っているハゲたオッサンはビートニクの代表詩人、アレン・ギンズバーグ。ビートニクはその文学性についていえば、明らかに重要なのが「疾走感」で、アレン・ギンズバーグの詩の朗読は韻を踏みまくってシャウトするという代物でしたし、もう一人のビートニクの代表作家、ジャック・ケルアックの小説「オン・ザ・ロード(路上)」を読めば、文章自体が走っていることがわかります。「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」という曲のタイトルはジャック・ケルアックの「サブタレニアンズ(地下街の人々)」からとられていて、その意味ではこの映像で、ボブ・ディランとアレン・ギンズバーグとジャック・ケルアックが交錯しています。

 

Johnny’s in the basement

 Mixing up the medicine

 I’m on the pavement

 Thinking about the government

 The man in the trench coat

 Badge out, laid off

 Says he’s got a bad cough

 Wants to get it paid off

 

英語の歌詞では韻を踏むのは当たり前なので(あのアホっぽいOasisでもちゃんと韻踏んでます)、もちろん韻は踏みまくっているのですが、それだけではないリズムがこの詩とこの歌い方には宿されています。桜井和寿はこれを自らに取り込もうとしたのではないか、というのが私の仮説です。FANの映像だけでそこまで飛躍するかと言われそうですけど、理由は他にもあります。

 

 

3.

 

 まず、1995年にミスチルは桑田佳祐とともに「奇跡の地球」をメインにした洋楽のカバー曲ばかりのライブ、LIVE UFOをやっていますが、ここでボブ・ディランのカバーを2曲やっています。もともとボブ・ディラン好きの桑田佳祐に感化された可能性があります。

 

次に、この少し前の時期に、ミスチルはピート・シーガーの反戦歌「花はどこへ行った」をカバーしています。これはお蔵入りしてしまったので未発表曲になっていますが、出来は相当良く、ありがたいことにこれもYouTubeで見れます。ピート・シーガーはフォーク・リバイバルの立役者で、デビュー当初のボブ・ディランを後押ししていた人物です。ピート・シーガーまで遡っていれば、当然、ボブ・ディランにも行き着きます。

 

https://youtu.be/PMFBOsmzBcc

https://youtu.be/Hgp5pki7wcc

 

さらに、桜井和寿が憧れていたのは浜田省吾であり、あのサングラスからもわかるように浜田省吾はボブ・ディランのファンです。浜田省吾からそのルーツに遡った可能性があります。なお、あのサングラスかけてる人は大体ボブ・ディランファンだと勝手に思っておりまして、井上陽水も吉田拓郎もYO-KINGもみうらじゅんも同じです。ちなみにボブ・ディランがあのサングラスをかけていたのは、彼が憧れていた黒人ブルースマン(レヴ・ゲイリー・デイヴィスやライトニン・ホプキンスなど)がかけていたからで、同じことが繰り返されているわけです。ちなみに浜田省吾が1982年からずっとやっているコンサートツアーの名前は「ON THE ROAD」で、これは明らかにジャック・ケルアックの小説からとっています。もっといえば、ボブ・ディランが1988年からずっとやっているコンサートツアーの名前は「Never Ending Tour」で、「終わりなき旅」(ミスチルの代表曲のひとつ)です。

 

そして最後に、ミスチルの前身となるバンドの名前は「THE WALLS」ですが、さらにその前身のバンドの名前は実は「Beatnik(ビートニック)」なのです。

 

誤解を恐れずに言えば、J ポップは欧米のポップミュージックの壮大なパクリです。そしてミスチルは自らを「POP SAURUS」と定義しています。それは、「なんだって飲み込んで、なんだって消化して、全部筋肉に変えてしまおう」とする化け物です。

私はここで「名もなき詩」はボブ・ディランを意識していると主張していますが、同じブルースでも「友とコーヒーと嘘と胃袋」という曲は明らかに吉田拓郎のモノマネですし、「So Let’s Get Truth」という曲は長渕剛っぽいです。この微妙な違いをきちんと表現するほどに、他人の芸を自らに取り込むことが上手い彼らは、まさにJ ポップを体現していると言えるでしょう。

なお、そのポップザウルスという自己定義から、初めてのベストアルバムは恐竜っぽいサイがジャケットに使われていましたが、このアルバムジャケットもMASSIVE ATTACKのMEZZANINEというアルバムジャケットのパクリです。ちなみにMASSIVE ATTACKのメンバーの3Dは、あのバンクシーの正体だと言われており、先見の明というかやはりその引用のセンスが光っています。

 

 

4.

 

「名もなき詩」のグルーヴ感について、まず簡単に説明できるのは「韻」です。わかりやすいのは以下の箇所。

 

 Oh darling 君は誰(ダリ、ダレ)

 Oh darling 僕はノータリン(ダリ、タリ)

 でも darling 共に悩んだり(ダリ、ダリ)

 Oh darling このわだかまり(ダリ、ダリ)

 Oh darling 夢物語(ダリ、タリ)

 

この曲の中心にあるのは、この「ダリ」によって生み出されるリズム感だと私は考えています。「ダリ」を繰り返し、重ね、そしてズラしていくことで、ビートが生まれる。濁音にはドラムを打つようなリズム感が生まれるのは、上記のボブ・ディランの歌詞を見てもわかるし(basement, medicine, pavement, government)、ロックでは特にわかりやすく使われるものだと思います(Jumpin’ Jack Flash It’s a Gas! Gas! Gas!)。

「名もなき詩を」よくよく聞けば、この「ダリ」が他の箇所でもかたちを変えて何度も出てくることがわかります。そして、妙に歌詞に濁音を入れにいっていることと、その部分を強く発声していることもわかるはずです。以下は一例。

 

ちょっとぐらいのよごれものならば(グラ、ゴレ、ラバ)

どれほどわかりあえるどうしでも(ドレ、ドリ、ルド)

だれかをおもいやりゃあだになり(ダレ、ダリ)

 

偶然のようにも見えますが、完全に狙ってやっています。というのも、無理矢理に濁音やダリダレの音を入れようとしたために、「名もなき詩」には日本語として不完全な箇所や、陳腐な箇所や、意味不明な箇所がかなりあります。

 

 Oh darling 君は誰 真実を握りしめる (たぶん何の意味もない)

 でも darling 共に悩んだり 生涯を君に捧ぐ (日本語がおかしいしやや陳腐)

 

この他にも伏線はたくさん張られています。「感情」「不調和」「情緒」を続けて出してここでも韻を踏んだり、「リアル」と「わかりあえる」をかけたり、やはり日本語としてはおかしいが音の響きがよい「立ったって」という言葉を選んだり。

 

ここまで書いてきたように、この曲は言葉の「音」が極端に重視されて作られていると私は考えています。言葉選びは非常に面白いと思いますが、おそらく「意味」はそれほど重要ではない。これはボブ・ディランも同じで、意味より音を重視したからこそ、面白い「詩」になったのです。だからこの歌詞の「意味」を探ることに意味はなくて、この曲に意味としてのテーマは特にないのだろうと思います。だからこそ、「名もなき詩」というタイトルなのだというのが私の見立ててです。意味なんてないさ、単なる「詩」だぜ、というわけです。

 

 

5.

 

さて、Aメロは非常に質の良いトーキング・ブルースでしたが、この曲はサビで一気に曲調が変わり、「Jポップ」化します。これがこの曲のもっとも面白いところで、初めに紹介した「FAN」の動画ではこの境目がものすごくわかりやく現れています。それまで一人でギター弾きながらベラベラしゃべってたのに、急にここでバンドが入りホーンが入り「歌モノ」になるのです。普通、Jポップではサビ前にBメロをはさみますが、トーキング・ブルースにはサビなどありませんので、この「名もなき詩」ではAメロから急にサビに飛ぶという技を使っていて、それはサビの冒頭「あるがまま」の最後の「ま」で一気に音程を上げてテンションを上げることで達成しています(これはその後ミスチルの得意技になります)。サビパートは完全に歌モノですが、基本「あ」行でまとめることで、Aメロとの連続性を感じさせます。このトーキング・ブルースと歌モノの不思議なバランス感こそが、この曲の最大の魅力でしょう。

 

「名もなき詩」の凄さは、フォーク・ブルースの歴史を感じさせる作家性と、万人受けする歌モノ性が同居し、単純な歌モノではないように感じさせたこと、Jポップの流行性に深みを与えることで、欧米のパクリとしてのJポップ性を強化したことだと思います。

パクリというと語弊がありますが、文化は他から影響を受け合って新しい文化を生み出します。例えばそもそもフォークは口承音楽であり、ボブ・ディランの初期の曲は古い伝承音楽の引用ばかりでした。ビートルズは実はロックンロール・リバイバルであって、過去のロックから影響を受けています。ロックはジャズとブルースから影響を受け、ジャズはクラシックから影響を受けています。

Jポップは「歌謡曲」にロックやフォークやブルースやジャズをまさに飲み込んで、消化して、面白い曲を生み出していったジャンルです。その中で「名もなき詩」が立てた金字塔は非常に大きいでしょう。そこにはボブ・ディランがいて、桑田佳祐がいて、浜田省吾がいて、吉田拓郎などのフォークシンガーたちがいて、それらを受け継いで出てきた国民的大ヒット作なのですから。

 

「名もなき詩」は多分そのうち忘れ去られるでしょう。もう長い間、ロックやフォークやブルースはほとんど聴かれていないし、ミスチルファンはもうみんないい年齢です。それでもね、私の自分の結婚式の二次会でこの曲を流したときに、あの後半の早口パートで会場のみんながテンション高く歌っていて、妙な一体感を醸し出してことは今思い出しても笑えるし、私にとっては忘れられない瞬間でした。

 

 今年はミスチルのデビュー30周年です。この30年に感謝して、筆を置きます。

 

 

街の灯  Mr.ホワイト

  • 2022.03.03 Thursday
  • 23:09

 ランニングは朝、日が昇る時間にするのが一番気持ちが良いのだが、最近はどうにも朝早く起きることができない日が続いて、やむなく真夜中に走ることが多かった。私が住む奈良ではどの飲食店も大抵夜8時で閉まるので、夜は静かで暗い。これをもって奈良県民は、「奈良ではコロナが流行するはるか以前から緊急事態宣言並みの感染対策を行なっていた」というジョークを自虐的に言うのだが、確かに夜走っているとコンビニ以外に開いている店はなく、人通りはもちろんなく、ドラクエで言えばせっかく夜に訪れたのに町人全員がただ「すやすや・・」と答えるだけの、訪れ甲斐のない夜の町といった風情である。ただ、そんな静かな夜の奈良でも、なぜか車だけは妙に行き来していて、国道沿いだけは賑やかだ。この車たちは果たしてどこから来て、どこへ行こうとしているのか、私にはさっぱりわからなかった。

 

 *

 

最近、いま流行りの「脱炭素」や「エネルギー問題」についての本を読んでいる。仕事で使いそうなので読み始めたのだが、これがなかなか面白い。気候変動問題とエネルギー問題の面白さは、それがテクノロジーと経済と政治と歴史と哲学の問題であり、人類が取り組むべき問題として幅の広さと奥行きをもっているということだと思う。

日本は原発を止めて石炭を燃やしまくっているので、国際的にものすごく批判されている。ただ、現実的には非常に難しい。日本は国土が狭いうえに平地が少なく、再生可能エネルギーの発電の適地がきわめて少ない。雨が多いため太陽光発電に向く気候でもなく、一定の風が吹き続けるような風力発電に向く場所も少ない。現実としてメガソーラーは山を切り崩して作ることが多く、むしろ環境を破壊している。原発もあの事故以来の国民の拒否反応は根強く、再稼働はなかなか進まない。どう見ても手詰まりの状況の中で、生きていくためにとりあえず今はせっせと石炭を燃やすしかない・・。

 

 *

 

真夜中、いつもは街灯が明るく車通りが多い国道沿いを走っているのだが、少し距離を伸ばそうとして夜中の奈良公園を走ったことがある。もう真っ暗。見上げると星空が明るく見えるくらい、あたりは何も見えない。街灯はあっても点いていない。そりゃこんな夜中に奈良公園に来る人いないよなと思いながら、真っ暗な闇の中を走っていると、やはりここは人がいるべきところじゃない、鹿やムササビが暮らすところだという気になってくる(あまり知られていないが、奈良公園にはムササビがたくさんいて、個体数では鹿の次に多い)。まるで自分ひとりぼっちになったみたいだと思ったが、思い違いではなく実際にひとりぼっちなのであった。

ふと振り返ると、遠く生駒山の山頂が明るい。電気の光だ。街の灯だ。あそこには人がいる、となぜか当たり前のことを思った。遠くの道路を車が通り、ヘッドライトがあたりを照らしていった。なぜだか少しほっとした。あの暖かい街の灯も、暗闇を照らすヘッドライトも、石炭や石油を燃やしてできている。化石燃料は元は命である。地球上でかつて生きてきた命を、いま地球で生きている人間が燃やしていることのありがたさと不思議さを感じながら、真っ暗でちょっと怖い奈良公園から、暖かな電気の光で包まれた街の方へと走り出した。

 

耳鳴り Mr.ホワイト

  • 2022.02.26 Saturday
  • 21:09

2月10日、木曜日。

 

午後22時すぎに帰宅し、シャワーを浴びて着替えると、左耳の奥の方で耳鳴りがしていることに気が付いた。瞬間、嫌な予感がした。いつもの耳鳴りと違う。音に強弱がなく、抜けて行く感じがしない。その耳鳴りは終わりなく一定の音量で、音が止みそうな気配がまったくなかった。

 

数分間、頼むからおさまってくれと祈るように堪えていたが、耳鳴りはおさまるどころか少しずつその音が大きくなってきた。左耳が聴こえなくなってきたような気もする。脳の病気で片耳が完全に聴こえなくなった先輩のことが頭をよぎる。もし脳ならまずい。頭が動くうちに妻に説明しなければ・・。動揺しながら立ち上がるとめまいがする。左と右のバランスがおかしい。壁に手をつきながら寝室へ行き、子どもを寝かしつけている妻に異常を知らせた。

 

頭痛はなく思考ははっきりしていることから脳の問題ではないと思うこと、ただよくわからないので最悪の場合の覚悟はしてほしいことを伝え、ひとまず自分はベッドで横になり、病院の手配をしてもらうことになった。最悪、障害が残るかもしれないと考えると、ベッドの中で体がガタガタ震えてきた。自分にはまだ小さな子どもが二人いる。子どもに負担をかけることだけは避けたい・・。

 

すでに23時をすぎている。耳鼻科では大阪の夜間診療だけが開いていた。受付締切まであと1時間半。急ぎ用意して、めまいでふらつく足でタクシーへ乗る。深夜の高速道路は空いていて、タクシーは快調にとばしていく。が、外の様子を見る余裕もない。タクシーに乗っている間に左耳の具合はどんどん悪くなり、ほとんど何も聴こえなくなった。左耳だけが水中にあるような感覚。暗い車内で高速道路の照明灯が次から次に後ろに流れてゆく。左耳の感覚が麻痺し、意識がぐらぐら揺れる中で、左耳がある程度聴こえなくなることを覚悟した。子どもたちの声を両耳では聴けないことと、これからは音楽をまともには聴けなくなることが寂しかったが、死ぬわけじゃない・・。

 

診断の結果は「突発性難聴」だった。ミュージシャンがよくなってるやつだな・・というくらいの知識しかない。治らない病気ではなく、治療すれば3割の人は完治し、3割の人は改善する、しかし3割はまったく改善しない、とのこと。早期治療が何より重要であり、ステロイドの飲み薬をもらうとともに、ステロイド点滴ができる総合病院で今後治療していく必要があることを聞いた。ほっとした。最悪のケースは免れたし、希望はある。コロナが最悪の状況が続く大阪で、この深夜に対応してもらえたことが本当に有り難かった。

 

あれから2週間が経ち、左耳の聴力は数字上は7割くらい回復した。ただ、相変わらず耳栓をしているような感覚だし、金属音の耳鳴りがずっと鳴り続けていて、自分としてはまだ半分くらいしか戻っていないと感じている。薄々気付いてはいるのだが、おそらく完治はしないのだろう。人は少しずつ死んでいく。知らぬ間にそういう年齢になってしまっていたのだ。

 

左耳が聴こえにくいというだけで、音楽を聴く気はほぼ失せた。むしろストレスになるのであまり聴きたくない。ただ面白いことに、子どもがMinecraft(マインクラフト)というゲームをやっていて、その音楽はまったくストレスなく聴けることに気が付いた。もともとMinecraftの音楽はすごく良いと思っていたのだが、聴こえにくい耳にも不思議なほどストレスなくスッと入ってくる。Minecraftの作曲家ダニエル・ローゼンフェルド(別名C418)は明らかにブライアン・イーノやエイフェックス・ツインの影響を受けていて、イーノが発明したアンビエント・ミュージック(環境音楽)の系譜に連なる。これはもしやと思い、ブライアン・イーノのあの正直言って退屈だったアンビエント・アルバムを聴いてみると、めちゃめちゃ良い。エイフェックス・ツインのあのみんながあまり聴かないアンビエント・アルバムを聴いてみると、これまためちゃめちゃ良い。耳が聴こえにくくなってようやくアンビエント・ミュージックの真価が理解できた。ということでいまは、耳鳴りの音響療法と称してアンビエント・ミュージックを聴きながら、日々ぼうっと過ごしている。

 

ウサギの生活 Mr.ホワイト

  • 2022.01.02 Sunday
  • 23:43

健康診断の血液検査の数値が急に悪くなった。私は酒はほぼ飲まず、タバコは吸ったことがない。肥満度はちょうどプラマイゼロで、月に10日程度走る。肉類は特に好きというわけではなく、カニ・ウニ・イクラ・貝類などは基本的に食べない。なので、数値が悪いのはほぼ遺伝と加齢によるものだと思う。だが・・・認めたくはなかったが、思い当たることが一つだけあった。お菓子の過剰摂取である。


毎朝、チョコレート菓子をひとかけら食べる。アルフォートひとつとかそんな程度。だがよく考えたら家に帰ってからも何かしら食べている。きのこの山の小袋ひとつとか、ポッキーの小袋ひとつとか。なんなら仕事中も夜の事務所でジャイアントコーンやチョコモナカジャンボを食べることがある。さらに出張に行けばホテルの部屋でほぼ必ず極細ポッキーかトッポを食べている。おそらく、なんやかんやでかなりのお菓子を食べている・・。


とりあえず体重をもう少し減らすことにしたが、それ以外には改善できるところが他になかったので、やむなく日々のお菓子を断つことに決めた。苦渋の決断であったが、それが苦渋の決断であると自分が感じる程度に、お菓子に依存した生活であったことを思い知った。本音を言えば、大袈裟ではなく、もう食べたいだけお菓子を食べられない人生なのかと、かなり大きな喪失感を感じていた。


お菓子を断って3日後、冷蔵庫の前で呆然と立ち尽くす姿を妻に見られた。実のところ、禁断症状があらわれていた。お菓子を食べたいのに食べられない苦しみ。大人になってお給料をもらって好きなお菓子を買えるようになったはずなのに、食べられない。お菓子を食べることによって満たしていた空腹感は、お菓子以外では満たせないのだ。しかも今回の私のプランでは、お菓子の代わりに食べてよいのは「味噌汁」である。汁物で腹を膨らませる完璧な作戦に思えたが、たけのこの里の代わりが味噌汁というのはさすがに厳しい。


結局、2週間程度、禁断症状と戦った。まるで禁煙である。だが2週間が過ぎたときには、もうお菓子を食べたくて仕方がないというあの飢餓感は無くなっていた。味噌汁を食べ、春雨スープを食べ、冷奴を食べ、ひじきを食べ、オールブランを食べるだけで大体満足できる新しい生活様式への移行。再検査したら数値は明らかに改善していた。が、果たしてここまで人間らしい食生活を捨て、修行僧のような、あるいはウサギのような食生活を送ってまで数値を改善すべきものかどうか。「食とは何か」がテーマの『タンポポ』を撮った、敬愛する伊丹十三に怒られそうである。




I LOVE LOVE/I HATE HATE Mr.ホワイト

  • 2021.09.27 Monday
  • 07:00

この夏、いちロックファンとしてなんとも気の沈む2つの出来事があった。

コーネリアス騒動と、フジロック開催。

後者については語らない。ただぼくは痛々しくて見てられなかった。ここでは前者についてあえて書いてみる。語ることすらタブー視されているような気がするからこそ。

 

コーネリアスについては擁護することは同罪だとされるので非常に語りにくい。語りにくいが、なぜ自分の気が沈んでいるのかということを考えると、やはり自分は心の中でコーネリアスを擁護しているからなのだろうと思い当たった。世間的に見れば自分も同罪だ。

まずぼく自身はフリッパーズ・ギターのファンではないが(過去にひととおり聴いたが、結局あまり聴いてない)、小山田圭吾のソロプロジェクトのコーネリアスはかなり好きで、「FANTASMA」と「POINT」は学生時代にめちゃ聴いた(ただし、「FANTASMA」以前のアルバムは一切聴かない)。コーネリアスはBeckやBlurと仕事しているけど、彼らに認められるくらい音楽の質の高さと個性は抜群だと思う。

コーネリアスのファンならほぼみんなあのいじめ記事は知っていたと思う。ぼくもネットで読んでドン引きした。が、ロッカーが自分のことを悪く見せるのはよくあるひとつの「芸」だし、特に昔の小山田圭吾の一種高飛車的な「芸風」からすればこういう見せ方をするのもわからんではないなと思い、相変わらずコーネリアスは聴き続けた。

そう、事実として、我々コーネリアスファンはそのいじめ記事を知っていながら聴き続けた。聴くのをやめなかった。小山田圭吾に謝罪など要求しなかった。社会的に抹殺しなかった。まさに消費者の態度としてコーネリアスを擁護していたのだ。いま小山田圭吾は世間からバッシングされているが、消費者として小山田圭吾を擁護し続けた我々コーネリアスファンも本来はバッシングされるべきだということに、ファンたちは心のどこかで気づいていながら気づいていないふりをしている。いじめを傍観していたことを嬉々として語った小山田圭吾。小山田圭吾が世間からリンチされるのを知らぬふりして傍観しているコーネリアスファン。やはり罪は同じなのではないか。

 

ぼく個人としてはミュージシャンに清廉潔白は求めない。クスリをやろうが不倫しようが、出してくるものが凄ければたぶん聴く。ただ、今回、コーネリアスがオリ・パラの仕事を受けたのは明らかにまずかった。その点は批判するが、ぼくはそれ以上の何かについてコーネリアスを批判しない。彼が経験したいじめについての事実は本人たちにしかわからないし、いじめについて人を批判できるほどの何かをぼくは持っていない。

「FANTASMA」(1997年)と「POINT」(2001年)は音楽の内容が別人が作ったのかと思うほどまったく違う。そして「POINT」以降は今に至るまでずっと似たようなことしかやってない。「FANTASMA」と「POINT」の間で、小山田圭吾はたぶん劇的に変わったのだと思う(調べてみると、どうやらその時期に彼は父親になっている)。

小山田本人はいじめ加害者であったことを否定しており、世間的な彼の罪は「いじめを傍観し、間接的に加担したこと」「いじめを嬉々として語ったこと」なのだろう。だが前者は少なからぬ人が同じことを経験しているはずで、やはり世間的に罪が重いのは後者なのだと思われる。ハンナ・アーレントがユダヤ社会から大バッシングされた原因を加藤典洋は「語り口の問題」という小論で分析したが、今回の騒動はまさに「語り口の問題」だとしか思えない。いじめを語ることが問題だったのではなく、いじめの語り方が問題だったのだ。

 

 ぼくは今回の騒動があったからといってコーネリアスのファンをやめない。おそらく多くのファンがそうだろう。それは「擁護」であり「同罪」だと言う人もいるかもしれないことに憂鬱になるが、そういう意見は信念をもって無視する。過去に失言した人間を欲望に任せてぶっ叩く安易なキャンセル・カルチャーには与しない。ただ、ファンでい続けることにそういう覚悟が必要なことに、ひたすら気が重くなる・・。

 

 というわけで気が沈んでいますが、8月の最優秀作品賞、ありがとうございました!

 

 

お前が信じるお前を信じろ(受賞御礼)  Mr.ホワイト

  • 2021.08.26 Thursday
  • 07:00

 若い頃、私は湿疹にずっと悩まされていまして、寝ている間に皮膚をかきむしり、毎朝のように血だらけになっていました。私自身はそういう状態が普通でしたので大して重く受けとめていませんでしたが、どうやら親は私以上に私の湿疹について悩んでいたようです。ある日、「今日から毎日これを飲め」と言われ、アルミホイルに包まれたペットボトルを渡されました。これはいったい何かと聞くと、「波動水というもので、体によいそうだ」と真顔で返されました。おいおいおい・・、これ完全にエセ科学の怪しいやつじゃないか、こんなわけわからんもん、絶対に飲みたくないぞ・・、と思ったままを口にしました。すると、「わかった。ならば少なくともこれを飲め」と言って、コントレックスを渡されました。「硬度が高いので、体にいいらしい」と。どこでそういう情報を・・。湿疹に効くとはまったく思えないものの、市販されているミネラルウォーターですので体に悪いことは当然なく、親の気持ちを晴らすために飲むことにしました。来る日も来る日も、あの飲みにくいことで有名なコントレックスです。まさに「コントレックス箱買い」(by相対性理論)状態になり、おかげで私はどんな硬水も平気で飲めるようになりました。なお、湿疹はコントレックスを飲み始めて少したった頃に良くなりだしたため、親はいまだにコントレックス信奉者ですが、実際には親の忠告に従ってそれまであまり多くは使わなかったステロイド系の薬を、医者の薦めに従い短期的に思い切り使ったことが治癒の理由だと私は感じています。

 

 なぜ人は「波動水」を信じるのか。それは「信じたいから信じる」という、それだけの話なのだと思います。人は見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じません。だからこそ、偽物をつかまないためには本物かどうかを見る目、リテラシーが必要になるわけですが、それは自然科学に疎い私たちには簡単なようで本当に難しいのです。

 

なんでこんな話を持ち出したかというと、コロナに関してもいい大人たちが「波動水」みたいなものを信じ込んでいるのに、さすがに少しげんなりしてきたからです。BCG説、アビガン、K値、大阪ワクチン、イソジン、空間除菌、どれもこれも耳にしなくなったと思ったら、今度はイベルメクチン・・。なぜそっちへいってしまうのか、みんな何を信じようとしているのか、何を信じたいのか、ということを考えると、どうもすべて「オレたちはできる」「オレたちは優秀」ということなのではないかと思い当たり、本当に気持ち悪いです。日本の薬(アビガン)なら効果があるはずだ、大阪のオレたち数学わかってる偉い教授が予測値(K値)を考えてやったぜ、オレたちの地元大阪にはすげえワクチン開発会社があるぞ、日本人が発見したイベルメクチンなら信じられる・・。なんか力抜けるんですよね。

 

 まあそれはともかく、7月の最優秀作品賞、ありがとうございました!

 

くらやみ怖い  Mr.ホワイト

  • 2021.07.02 Friday
  • 08:51

小学校低学年の息子は最近、暗いところが怖い。怖いのは屋外というよりも自分の家の中で、トイレが怖い、お風呂が怖い、薄暗い廊下が怖い、電気がついていないあの奥の部屋が怖い、といった具合である。わかる・・めちゃくちゃわかるぞ、息子よ・・。わかっていながらも一応、いったい何が怖いのかと聞いてみると、お化けとか幽霊とかとモゴモゴ言ってはっきりしない。ああ・・めっちゃわかる・・。

 

 私は小さな頃から現在に至るまで気が小さく、やはりひどく怖がりだったのだが、それにしてもその怖がりが極端だったのは、やはり息子と同じように小学校低学年の頃だったように思われる。習い事のスイミングに一人で自転車をこいで行っていたのだが、帰りの時間になるともう夜はひたひたと近づいていてきていて、暗闇があたりを少しずつ呑み込んでいる。マンションの駐輪場に自転車をとめてから8階の部屋に帰るまでが憂鬱だった。何かわからんが、怖い。怖すぎる。この薄暗い廊下を歩いているときに、泥棒に襲われるのではないかとか、背後から幽霊や宇宙人に乗り移られるのではないかとか、怖い妄想がどんどん膨らんでいく。毎日駆け足に暗闇から逃げるようにマンションの自分の部屋に帰っていた。息子がモゴモゴ言っているように、そう、あの暗闇の怖さは自分ではもう説明のしようがない怖さだった。

 

 私自身は怖がり程度ですんだが、弟の場合は少し程度がひどかった。旅行に行き普段と違う環境で寝泊まりしたときや、何か怖いテレビ番組を見たときなど、夜中、怖い怖いと錯乱状態になって一晩中泣き続けることがたまにあった。必死に話しかけても全然聞こえていないし、何か具体的な「モノ」を怖がっているようなこともあって、本当に何かが見えているのではとこちらが恐ろしくなることもあった。弟が熱を出したある時、寝ていたのにいきなりパチリと目を開けて、天井近くの何もない空中を指差して「あれは何?あれ、ほら、あれ」と真顔で尋ねられたときの母親の、見たくないものを見てしまったという顔が忘れられない。その後続けて「あれ、ほら、あれ、怖い、怖い」と言ってすぐ、弟は狂ったようにまた泣いた。その弟もいまは30歳をすぎて、そんなこと、多分覚えてもいないだろう。

 

 息子がダッシュでトイレから出てくるのを見ていると、現実と想像の境目がまだ曖昧で、それらを行ったり来たりしている子どもの心の不安定さと自由さを考えてしまう。そのうち怖くなくなるさ、それまでがんばれ、と心が凝り固まった大人として言ってしまうけれど、果たしてうちの子が暗闇を怖がらなくなるのはいつのことのなのか、それを想像すると少し寂しいような気もする。

 

君はともだち Mr.ホワイト

  • 2020.10.17 Saturday
  • 23:08

 中学生の頃、私が一番仲良くしていた相方はえらい男前の背が高い人でした。男前といっても爽やかイケメンタイプではまったくなく、有名人で言えば田村正和と金城武の間とでも言えばいいのか、いえ、このたとえではまったく伝わらないのはわかっているのですが、ひょろりと背が高く、運動神経が良く、しかし決して社交的なタイプではなく、勉強はあまりせず、巻き毛を長く伸ばして影のある色気を放ちまくるタイプでした。男から見ても格好ええ・・とため息が出るような。


 しかし男から見て格好いい男子がモテないはずはなく、爽やかイケメンやヤンチャボーイズやクールガイやおもしろキッズたちを差し置いて、巻き毛ダークな彼はひそかに学年で一番モテているのではないかと中二の頃に薄々感づいてきました。ひそかにと言うのは、田舎の中学校でしたので付き合うだの何だのは本当にごく一部の不良っぽい人たちだけがやっていて、ほとんどの人は恋心を胸に抱えたまま卒業していくわけで、告白された数をカウントして誰がモテてるだの測ることはできないからです。しかも、その影があって社交的でない彼に告白する勇気を、果たしてどれだけの女子がもちえたのか。


 中三になって進路を考え始める時、何やらみんな大人っぽくなっていくその時に、私と同じクラスのある女の子が、私の相方のことを好きなのだということを人伝に聞きました。その女の子は私の相方とは同じクラスになったことがなく、しゃべったこともないはずなのに、さすがうちの相方はこっそりモテてるなと感心しましたが、「あの子、めっちゃ隠し撮りとかしてるで」と言われた時にはさすがにその隠れモテっぷりに引きました。スマホどころかデジカメもない時代に、写ルンですをカバンやブレザーに隠して撮ったのでしょうけど、多くの時間隣にいたはずの私もまったくそれに気付いておらず、驚くとともに自分のようなやつが隣にいて申し訳ないという気持ちになりました。


 その女の子が一度だけ、私の相方と話す機会がありました。その機会はたまたま訪れたものでは当然なく、彼女が我々の友人を使って仕掛けたものです。3年間で初めて訪れたその機会を、彼女は恋心を抱いているような様子をまったく見せずに過ごしました。誰がどう見てもそんなふうには思えない、完璧な振る舞いでした。


 相方とは別の高校に進んでしまい、会うこともほとんどなくなってしまいました。高校時代は何度か会って話しましたが、高校卒業後はどうなったのかは今も知りません。ただ一度、大阪駅の地下街で彼にすごく似た人とすれ違いました。すれ違いざまに振り向くと、その人はスタスタと歩いて人混みに消えて行きました。そりゃあ人違いに決まってるさと思い、私もスタスタと駅の方に歩いて行きました。

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