「お前ら(略)」と「ヒャッハー(略)」を読んで
- 2010.07.26 Monday
- 17:39
■2008/07/18 (金) お前らMVPじゃない俺様のいうことは聞かなくていい
■2008/07/19 (土) ヒャッハー、俺様には一票しか入ってないぜ! ハッタリスト
ここしばらく「誰が作品のメッセージや価値を決めるのか」という話をしてきました。
が、「それを決めるのは表現者の側ではない」ということに話がやや偏っていたかも知れません。
言うまでもありませんが、逆もまた然りなのです。
つまり、ある芸術作品が持つメッセージや価値は、鑑賞者がひとりで決めることもできないのです。
表現者は芸術作品によって「何か」を表現します。そして鑑賞者は芸術作品から「何か」を感じます。
それは必ずしも言葉で明確に表すことができるとは限りません。ジャンルと個々の作品によってまちまちです。
文学や歌詞など、コトバを媒体にした芸術の場合、ある程度ダイレクトにメッセージが伝わっていると思われます。
例えば「愛こそが君たちに必要な全てだ」という歌詞を、これといったヒントや文脈も無しに「皮肉の利いた戦争賛美だ」と理解するのは無理がありそうです。
一方で、抽象画や前衛芸術のように、一見しただけでは何を表現しているのか分からないケースも少なくありません。
例えば何の予備知識も持たずにピカソの『ゲルニカ』を見て、「これは戦争の悲惨さなどを表現している」と感じる人が一体どれだけいるでしょうか。
しかしメッセージが伝わりにくいからと言って、作者が何も表現していないことにはなりません。
ピカソは確かに何かを訴えているのです。
それゆえこのように言えるでしょう。
多くの芸術作品は、生み出された瞬間から「誤解」と隣り合わせなのだと。
表現者と鑑賞者たちの作品理解に食い違いがある場合、表現者の意見が通るケースは稀でしょう。
なぜなら前回書いた通り、作品への評価は社会的に構成されるものだからです。
社会からの反応を想像しながら作品を創ることはできるし、実際に多くの表現者がそのような手法を採っているでしょう。
しかし、逆算よりも自分の作品理解を重視するタイプの表現者もいます。
それは良くないことなのか。
表現者の視点から見た芸術を、もう少し考えてみます。